第12話 曹操、献帝を奪われる

 かつて各地で豪族が蟠踞し混乱の中にあった荊州。

 新たに刺史として就任した劉表のとった手段は非情なものだった。就任祝いの宴会と称し、豪族の主だった者を招集した劉表はその場で皆殺しにしてしまった。

 当時の高名な者たちと並び「八俊」と呼ばれた若き日の劉表は、儒教を深く修めると共に、このような果断な性格を併せ持っていた。


 だが漢の末期に至り専横を極める曹操に対し、何ら手を打つことなく傍観者を決め込んでいる。

 酒家に集まっていた崔州平らが気勢を上げているのは、こんな劉表に対する不満の表れだった。


 ☆


「だから、それとこれはどう関係があるんですか」

 その夜、おれは師妹によって寝台に押し倒されていた。


「なんじゃ廖化。やつらの言った事を忘れたのか。わしを婆ぁ、と言ったのだぞ」

「いや、そんな事は言ってませんでしたけど」

 ただ、目じりに年齢が出ていると……。現にあなた100歳こえてるんでしょ。


「許せん、諸葛孔明と徐庶」

 師妹は、かぷ、とおれの首筋に咬みついた。

「じゃから、今夜はお主の精気をいただく事にする。覚悟せい」

「ああっ」


 ♡


 開け放した窓から、ネコの那由他が帰ってきた。

 部屋の中をきょろきょろと見回している。


「ふにゃーうっ!」

 猛然と寝台に飛び上がると、裸の師妹の背中を前足で攻撃する。どうやら、おれが師妹に襲われていると思ったらしい。

「こ、こら。止めんか。もう少しでこやつの精を搾り取れるのじゃ」


「ちっ。いい所であったのに」

 おれの腹の上では那由他が師妹を威嚇している。こんな状態では、これ以上は諦めるしかない。華佗は身体を離した。

「あれ、師妹。お尻に傷がついてます」

 ぷるん、とした真っ白い肌に、那由他に引っ掻かれた傷がついて、うっすらと血がにじんでいる。


「なんと。だがこんな傷なら唾を付けておけば治る。廖化よ、舐めてくれ」

「あなた、たしか医者でしたよね……」



 華佗はとろん、とした目でおれを見る。

「もう、廖化ったら。あんなところまで、いやらしく舐めてくれとは頼んでいないのに。いいか、良い子の読者は決して真似してはだめだぞ」

「誰に言ってるんですか。……はい、薬を塗りましたよ」

ネコ傷は化膿するおそれがあるから、バカにできないのだ。

 その那由他は前足を舐めては顔を撫で回している。


「こいつめ、わしに嫉妬しておるのではないかな」

 くわーっと欠伸する那由他を、華佗は忌々しそうに睨みつけた。


 ☆


 許都が陥落した。


 曹操が拠点としていた許都は孫策の急襲を受け、守備軍を指揮する満寵の抗戦もむなしく落城した。

 献帝を奪い取った孫権は、再び疾風のように江南へと兵を退いたのだった。


「荀彧が裏切ったというのか」

 遼東の陣でその報告を聞いた曹操は天を仰いだ。包囲する孫策軍を前に、城門を開いたのは荀彧だった。


「裏切りではありません、丞相」

 郭嘉は寝台に身体を起こした。小さく乾いた咳をする。青白い顔に、目の周りが熱に浮かされたように赤い。


「荀彧どのは常に漢王朝の臣としての立場に立っておられる。帝から命じられればそれに従うのは当然のこと」

 荀彧が仕えているのは皇帝であって、決して曹操ではないのだ。


「おそらく側近の入れ知恵もあったでしょうが、決断したのは帝ご自身でしょう。あの御方の行動力を甘く見ておりました」

 漢の丞相という曹操の立場は、あくまでも漢の皇帝あってのものだ。

 足元の地盤が揺らぐ恐怖を曹操は感じた。


 激しく咳込む郭嘉の背をさすってやりながら、曹操は表情を翳らせた。戦陣に病んだ郭嘉の背中は、驚くほどやせ衰えていた。

(これは死病ではないか)

 曹操は唇を噛んだ。


 寝台に横たわった郭嘉は曹操を見上げた。その眼に強い光が戻った。

「ですが丞相、これはまたとない好機です。皇帝を賊から救出するという、軍を動かす名目を向こうから提供してくれたのですから」

 口調こそ弱々しいが、どこか楽し気に郭嘉は続ける。


「まずは荊州を。彼の国の水軍を手に入れるのです。劉表は病の床にあり、その後継の二子は共に凡庸。大軍をもって圧迫すれば襄陽を陥とすのに戦など不要です。あとは一気に長江を下って……」

 そう言うと、力尽きたように郭嘉は眠りに落ちた。

 

 郭嘉はそれから間もなく、病のため世を去った。ついに彼は曹操と共に長江を越えることは無かった。

 曹操は後々になっても、彼の事を語るたびに落涙したという。


 ☆


 襄陽にその小部隊が入城したのは夕暮れの中だった。

 彼らは『劉』の旗を掲げていた。

 



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