第10話 関羽、万人の敵と認定される

 丸めた寝具を背にあて、孫策は半身を起こしていた。

 全身に傷を負い、死の淵から生還したばかりだ。顔の大きな傷が痛々しいが、しかしその碧眼は鋭さを失っていなかった。


「ふた月ほど大人しくしていれば、元のようになるだろう。これも若さじゃのう」

 華佗もこの回復力に驚いている。


「だがよいか。その間、怒ることはもちろん、絶対に笑ってはならんぞ。もし爆笑でもしようものなら、その瞬間、全身の傷口が開いてしまうだろうからのう」


「そうか。それは困ったな。実は、俺は笑い上戸なのだがな」

 孫策が頭をかく。

「我慢じゃな。そなたらも、決して孫策どのを笑わせてはならんぞ。決してな」

 そこまで言われると、明らかに振りのような気がする。


「若殿がお気づきになられたとっ?」

 歓喜の声をあげ、宿老の黄蓋が部屋に駆け込んできた。


 よほど慌てていたのだろう。

 下半身、裸だった。


「く、……ひく、……ひぐっ」

 孫策の全身が痙攣している。必死で笑いをこらえているのだ。

「い、いけませんぞ。孫策さま。ええい、黄蓋どのを連れ出せ!」

 張昭が黄蓋の前にたちはだかる。


「な、なんだ。わしは孫策さまのお見舞いに来ただけだぞ」

「だったら、下を穿いてこい。愚か者!」

 同じく宿老の程普に引きずられるように出て行く。


「これは危ない所であったな。よく我慢された、孫策どの」

 にやにや笑いを浮かべ、華佗が孫策の手をとる。

 次の瞬間。

 ぷー。

 音がした。


「おう、これは失敬。年を取ると、あちこち緩んでいかんのう」

 華佗がお尻を手で扇ぐ。


「ぶふっ」

 孫策がむせるのと一緒に、顔の傷からぴゅっと血が噴き出した。


「あーあ、だから笑ってはいけないと、あれ程言ったのに」

 華侘は、けらけらと笑っている。


「おのれ貴様ら、ふたりとも処刑するぞ!」

 張昭が激怒した。おれは師妹を連れて部屋の隅に避難する。


「なんで師妹は、いちいち危ない橋を渡ろうとするんですかっ!」

「心配せんでも、ちょっと笑ったくらいで死にはせんよ。それより、あの張昭の怒った顔を見たか。かかっ、傑作じゃ」

 全然笑い事ではない。このままでは、本当に報酬がもらえないんじゃないか。


 ☆


 長江沿いに並ぶ軍船に、続々と武器や兵糧が運び込まれる。

「余計な時間を食った。ここからは一気に勝負に出るぞ」

 馬上、左右に控える周瑜と太史慈を振り返り、孫策は力強い声で言った。顔の傷はまだ癒えていないが、それが却って端正な容貌に凄味を与えている。


「ここからは時間との闘いともいえましょう」

 妖艶ともいえる周瑜が風に髪をなびかせている。太史慈も厳しい顔で船団を見詰めていた。


 すると遥かな対岸から、一艘の小舟が疾走して来るのが見えた。

「なにか急使のようだな」

 周瑜が目をこらす。孫策が伝令として配置している小型快速艇だ。


 急使がもたらしたのは北方の情勢だった。

 袁紹に圧倒され、引くもならず、まさに泥沼の戦にはまり込んでいる筈の曹操だったが、ここに来て一挙に戦況が逆転した。


「袁紹配下の将、顔良と文醜が討たれた?!」

 どちらも袁紹軍きっての猛将として知られ、当たるところ敵なしと言われていたはずだ。軍隊指揮に関しても決して凡庸ではない。

「いや待て。それも二人ともだと」


 だとしたら、孫策の皇帝奪還計画は根底から覆る。曹操は本拠地の許都防衛に兵力を割くことが可能になるだろう。

 孫策は馬上で歯ぎしりした。

「なぜ、そんな事になった」


「劉備の義弟、関羽という男がたったひとりで、一万を超す顔良と文醜の軍を壊滅させたのです」


 ほほう、と華佗が感心している。

「やはり、奴は公衆の敵じゃのう」

「それを言うなら、万人の敵でしょ。師妹」

 公衆の敵では、ただの凶悪犯パブリックエネミーだ。ひとりで一万人を相手にできるから、万人の敵というのだ。いやそんな事はどうでもいい。


「さすが、わしが改造してやっただけの事はある」

 また、あまり聞きたくない事を言い始めた。


「伝説の邪神、蚩尤しゆうを元に造り上げたのじゃぞ。腕とか足に、剣や槍を仕込んであるのだ。そして、あのでかい目からは殺人光線が……」

 信じていいのか。まあ、劉備の例もあるから、ただの冗談とも思えないが。


「その話は本当かな、華佗先生」

 孫策は笑顔をこちらに向けていた。

 だが、目だけは笑っていなかった。いや、計画を御破算にされた怒りに燃えているといった方がいいだろう。



 おれたちは即日、江東を追放された。

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