第6話 師弟、「走れメロス」する

 川風に少し潮のにおいが混じるのは、ここが長江の河口に近いからだろう。


 孫策は揚州の西部に勢力を張る袁術の影響下を脱するため、抹陵まつりょうにほど近い地に拠点を構えていた。

 この抹陵は江東の重要都市で、のちに孫策の弟、孫権が呉を建国する際に建業と名を改め、さらに後の世には南京と呼ばれることになる。


劉繇りゅうようの旧臣を集めて来るだと」

 孫策の前に膝をついているのは太史慈だ。劉繇の敗亡後、その家臣たちは豫章よしょうを中心とした揚州南部に散らばっている。太史慈は手土産として、彼らを説き伏せ孫策の軍に加えるという。


 孫策は茶褐色の髪をかき上げると、碧眼を面白そうに細めた。

「それはいいな。よかろう、お前に任せる」

 豪放磊落、ものに拘らないというのが孫策の美点である。だがこれは当然のごとく周囲の猛反発を招いた。


「冗談はお止め下さい。虎を野に放つようなものでございますぞ」

「やっと劉繇を滅ぼしたにもかかわらず、代わりにこの男が蟠踞することになっては、何のための戦いだったか」


 左右から張昭と張紘が代わるがわる孫策に迫る。この二人、血縁関係はないはずなのに見分けがつかない程よく似ている。

 どちらも孫策がみずから居宅まで足を運び、帷幕に加えた人材だ。


 張紘は外交に秀で、張昭に至っては軍事、政治ともに孫策が絶対の信頼を置き、わが管仲と呼ぶほどの重臣だった。

 さしもの孫策も、この二人を無下にはできない。その顔に苦渋の色が広がる。



「話は分かったが、それでなぜわしと廖化がよばれたのじゃ」

 華佗はふんぞり返り、集まった孫策とその家臣たちを睥睨した。


「まあそう言わないでくれ、華佗先生。今よりちょっと上等な邸に移って頂こうと思ってのことだ」

 孫策が作り笑いをうかべ、宥めるように言った。


「今度の屋敷はすごいぞ。何と護衛が、今の三倍もつくのだからな」

「ほほう、それは豪勢なことじゃのう」

 華佗は単純に喜んでいるが。でもそれって。


「普通に考えれば監禁されるって事ですよ、師妹」


 ☆


 つまりこう云う事らしい。

 太史慈が劉繇の旧臣を集めて来る間、華佗師妹とおれ(それに那由他)は人質としてその邸内に留め置かれることになったのだ。


「それで、万が一この太史慈が戻って来なかった場合はどうなるのじゃ」

 やや不満げな華佗は孫策を睨みつけた。


「まあ、それは人質だからな。その時は……これかな」

 孫策は爽やかな笑顔で、首の前で手を横に動かした。


「半月以内に必ず帰って参ります。おふた方には不便をお掛けしますが、何卒お許しください」

 深々と頭をさげる太史慈。


 この男の誠実さは疑う余地はないが、何が起こるか分からない時世だ。劉繇の旧臣側に取り込まれる可能性だって十分にある。あるいは、本人にその気がなくても拘束されて帰れなくなる事もあり得るではないか。

 考えれば考える程、先行きの見通しは暗い。


 孫策もあんな明るい表情だが、裏切者の首を刎ねるのに躊躇などしないだろう。

「まあ安心しろ。痛いのは一瞬だからな」

 こいつの御曹司然とした態度も腹立たしい。


「では任せたぞ、太史慈」

 孫策は何の疑いも持っていない様子で太史慈を送り出した。だが、張昭たちがおれたちを見る、切なさのこもった視線ばかりが気になるのだが。


 ☆


 与えられた部屋に入った華佗は、すぐに寝台に転がった。

「なあ廖化よ。わしは以前からやってみたいと思っていたのだ」

「何をですか師妹」

 おれは気が気ではない。自然と素っ気ない口調になる。


「うん。一度切り離した首を縫い付けるとどうなるのか、とな」

「縁起でもない話はやめてください」

 もうそれは、おれの首が胴体から離れるのが前提ではないか。


「さらに言えば」

 言わなくていいです。


 だが師妹は容赦ない。

「さらに言えば、他人のものととか」

 あー、もう絶対聞きたくない。


「困ったことに、首のない胴体は廖化のものしか無いからのう」

 たしかに、師妹まで斬首されてはお終いなのだが。

「……いや、そうではないな。のう、那由他」

「ふにゃ?」

 那由他は首をかしげた。


 華佗は、嬉しくてたまらない表情でおれの方を見た。

「ふふふ。那由他とお主の頭を交換してみるというのはどうじゃ、廖化」

 どうもこうもあるか、この変態外科医マッドサイエンティスト


 ☆


「そうか。ネコとお主では頭のサイズが違ったのう。ところで……」

 華佗はちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「廖化とも今生の別れになるやも知れん。どうじゃ、女の身体も知らず首と胴が生き別れというのも寂しかろう。わしがお主の最初の相手になってやってもよいが、どうじゃ」


「は、はい?」

 なんだ、この急な展開は。


 華佗 師妹せんせいは目に涙を浮かべている。

 そうか。不安なのはおれだけではなかったのだ。


 おれは師妹の小さな身体を強く抱きしめた。




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