師妹(せんせい)、それは誤診です!

杉浦ヒナタ

第1話 華佗、ネコを人質にとる

「おい、そこの少年」

 橋の上に置かれた大きな荷物の陰から呼ぶ声がした。回り込むと、女の子がしゃがみ込み川岸を見ている。


 10才くらいだろうか。旅塵に汚れてはいるが、もとは高価そうな素材の着物を身につけている。整った顔立ちで、良家いいとこのお嬢ちゃんなのは間違いない。


 持っている荷物は抽斗のついた箪笥のようなものだ。少女は、ここ徐州でも時々見かける薬師くすしかもしれない。

 ただ、こんな場所に女の子ひとりというのは解せない。周囲を窺ってみるが、親なり護衛なりの姿は見えなかった。

 おれの中に、不穏な考えが湧いた。


「なんだ、おれは忙しいんだぞ」

 これは嘘ではない。露天商から饅頭をくすねて逃げているところなのだ。打ち続く戦乱で親を失った子供はこうやって生きて行かなくてはならない。


「少年。あれを拾ってこい」

 どうもこの少女は、まったく人の言うことを聞かない性格のようだ。橋の下に何か大事なものを落としたらしい。

 だったら好都合だ。拾う振りをして、そのまま頂いてしまおう。


「仕方ねえなぁ、何を落としたんだ」

 覗き込んだ瞬間、後ろから突き飛ばされ、そのまま、おれは川へ転落した。


「ふざけんな、貴様。川の水が浅けりゃ死んでるところだぞ!」

 ずぶ濡れで怒鳴るおれを、少女は橋の上から見下ろし、冷たくせせら笑った。

「それは残念。死んだら蘇生実験に使おうと思うておったのに」

 確信犯だったか。でも何、その蘇生実験って。


「そこじゃ。そこにおるだろう」

 川岸に這いあがり、少女が指さす辺りを探す。そのおれの足元で何かが動いた。白と茶トラ、それにキジトラ模様が入り混じった、ふわふわの毛玉のような生き物。


「にゃう、にゃうー!」


 生後一か月に満たないだろう、それは一匹の仔猫だった。


 ☆


「こいつはお前の猫なのか。もう逃がすんじゃないぞ」

 暴れる仔猫を少女に押し付け、急いで立ち去ろうとする。盗んだ饅頭も失くしてしまうし、とんだ災難だ。


「いや、そうではない。薬の材料によさそうだと思ってな。この尻尾を切ってよく乾燥させると不老長……」

 おれは最後まで聞かず、少女の手から仔猫を奪い返した。やはりネコも分かるのだろう、あれ程暴れていたのにすっかり安心したようにおれの腕に抱かれている。


「こんな可愛いネコを虐めるやつは許さん!」

 仔猫も、シャーっとその少女を威嚇している。


「ならば、まあよい。それはお主に譲るとしよう」

 その代わり、と少女はにやりと笑った。

「少年よ、わしの従者になれ」


「はあ? それが、おれに何の利点がある」

「お主が断れば、わしは他のネコを実験台に供するまでのこと。この下邳のネコはすべて短尾ネコになるかもしれぬが、それでもよいのか?」

 このガキは鬼かっ! おれはがっくりと膝をついた。


 ☆


 背負った荷物は信じられない程、重かった。

「分かっておろうのう。もし、持ち逃げするようなら……」

 少女がくくっ、と笑う。

 視線を受けた仔猫はおれの足元に擦り寄り、心細げに鳴いた。


「わしは華佗かだという。ちまたでは神に匹敵する名医と呼ばれておるぞ」

 いったい誰が呼んでるんだろうという疑問は押し殺し、小さく一礼する。そういえば、なんだか噂は聞いたことがある。


「これからは、わしの事は師妹せんせいと呼ぶがいい」

 あくまでも尊大に華佗はふんぞり返った。

 気に食わない女だ。とういうより少女だ。

 

「ところで、その名医の師妹せんせいはおいくつなんですか」

 ふむ、と華佗は首をかしげた。

「直接、女に年齢を尋ねるとは、お主もなかなか無礼なやつじゃのう」


「100才を越えているという噂を聞いたような気がしたので」

 まあ、別人の話だろうけれど。


「おう、よく知っているな。そうじゃよ、当年とって99才じゃ」

 この当年は十年と掛かっておってのう、とか自分で説明している。この冗談の感性からすると少なくとも少女ではないようだ。


「でも、全然そうは見えませんが」

「おやおや、お上手じゃのう。意外と女たらしではないか。そういう少年も嫌いではないぞ。では何才に見えるのじゃ?」

 確かに表情はどこか色っぽい気がしないでもないが。

「どう見ても、10才くらいの童女にしか見えませんけど」


「知らぬのか少年。ひとは年を取るとともに、子供に返っていくのだ」

 やたらとキラキラした表情で華佗は微笑んだ。

 それは聞いたことがある言葉だけれど、決してこういう意味ではないと思う。


「おう、そういえば少年の名を訊いておらなんだのう」

 あー名前か。おれは少し言葉に詰まった。 

「おれは孤児なんで名前は……。りょうのガキとしか呼ばれてないなぁ」


「ふむ。まさか、わしまで廖の小僧と呼ぶ訳にもいかぬのう。どうじゃ、わしが名をつけてもよいか」

「え、名前を?」

 嫌な予感しかしないけれど。


「失礼な事を考えておるようだな。安心せい、良い名をつけてやるから」

 華佗は、悪そうな顔で考え込んだ。もう不安しかない。


「そうだ。わしの名の一部をとって、廖化りょうかというのはどうだ。『佗』のなかの『化』の字だ。これをお主に授けよう」

 廖化。おれは訳もなく脚が震えた。今まで感じたことがない感動だった。


「あ、りがとう…ございます」

 半ば茫然としているおれの足元で、仔猫が一生懸命鳴いている。


「そうか、お前も名前が欲しいか、ネコ」

 華佗はしゃがんでその頭を撫でようとする。仔猫はすっと身をかわした。

「お、おのれ……。きさまの名は『出汁殻だしがら』で十分だ」

「師妹、それはあんまりでは」

 うむ、と考え込む華佗。仔猫は、その間もにゃう、にゃう、と催促する。


「にゃう、か……うむ、では『那由他なゆた』でどうじゃ」



 こうして、おれと仔猫の那由他は、自称『神医』華佗さまの従者となったのだ。

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