第24話 師妹、旧友と再会する

「あのー、師妹。そんなにくっつかないで下さい。断崖から落ちちゃいます」

 おれたちは渓谷の絶壁に沿った道を進んでいた。

 岩を穿ち、杭の上に板を敷き並べた細い通路は桟道さんどうと呼ばれる。もちろん手摺りなど有りはしない。

 華佗はおれの腰のあたりにしがみついている。足を踏み外せばそのまま一緒に、遥か崖下まで転落だ。


「だ、断崖なぞ、どこにあるというのじゃ。……わ、わしには何も見えんからな」

「では頼むから、ちゃんと目を開けてくれ」

「馬鹿を言うな。そうしたら一歩も歩けぬではないか」

 華佗は極度の高所恐怖症だった。

 もっとも、そうでなくともこの桟道は恐怖でしかないが。


「にゃん」

 軽快に先を進むネコの那由他が振り返ると、促すように何度も鳴いた。

「分かってるよ、那由他。でも師妹がな」

「うー、わしもネコになりたい」


 ☆


 ようやく桟道を渡り終え、ふつうの街道になった。

「うむ。やはり大地というものは人を安堵させるのう」

 そう言いながらも、師妹は小さな手でおれの手を握って離さない。見ると膝がぷるぷる震えている。

「どうしたんです。漏れそうなんですか」

「違う!」

 師妹は涙目でおれをにらんだ。顔が真っ赤になっている。


「廖化よ」

「はい」

「……、好き」

「はあ?」


 おれは街道脇の岩陰に押し倒されていた。

 師妹は服の裾をたくし上げ、おれの上に乗っている。

「ちょっと、何ですかこんな所でっ」

「なぜだか急に、お主の事が愛おしくてたまらなくなったのだ。もしや、これが恋というものかのう。……あうんっ♡」

 甘いうめき声をあげて、華佗は背を反り返らせた。




「うむ。どうやら恋ではなかったようだ」


 師妹は、搾り尽くされぐったりとしたおれを冷めきった目で見下ろした。さっさと身づくろいし、出発の準備を始める。

「廖化。お主も早くをしまうのだ。行くぞ」

「これは師妹がやったんでしょうが」

 おれも服を直し、起き上がる。


「なるほど。ひとは恐怖を感じると、一緒にいた者を好きだと誤解するものなのだな。これはよい事に気付いたぞ」

 わしはこれを『蜀の桟道効果』と名付けて、世に発表しようと思うぞ。

 師妹は得意げに筆を出して竹簡に書き込んでいる。


 だが、この師妹。意外と逆境に弱いことがよく分かった。


 ☆


 漢中に近づくにつれ、街の雰囲気が変わってきた。

「貧しいのは変わらぬが、どこか清潔な気がするのう」

 師妹は立ち並ぶ家並みを見回している。


 その一軒の玄関が開放されていた。屋根に白い煙が立ち上り、中からいい匂いが漂って来る。

 入ってみると、大きな鍋で何かが煮込まれている。

「ここは義舎ぎしゃかな」

 師妹は声をかけた。


 鍋をかき混ぜていた白衣の女が、おれたちを見て、にこりと笑った。

「そうですよ。お嬢ちゃんは巡礼かね?」

「いや、巡礼ではない。幼なじみの沙蓉さようどのに会いに来たのだ」


 女は目を瞠り、師妹を上から下までまじまじと見た。

「まあ! まさか華佗さまですか。これは大変ご無礼をいたしました」

 慌てて女は膝をついた。


「この姿では無理もないのう。ところで、食事をさせて貰いたいのだが」

「はい、こちらへ。ところで……ご存じかと思いますが」

 少し困った顔の女に、華佗は笑いかけた。


「分かっておるとも。おい廖化、この食事は無料でいただけるのだが、決して腹八分以上に食べてはならんぞ。自分一人が満腹になるのではなく、必要とする者たち皆で分け合うのだからな」

「なるほど」


 この義舎とは、漢中で勢力を拡げる新興宗教『五斗米道』の信者たちによって運営されているのだという。

 営利目的では無く、あくまでも『義』、互助の精神で行われているのだ。

 他人の事など知らない、自分さえ良ければいいのだ、という風潮が蔓延しているこの時勢なのに、見事なものだと感心する他ない。


「だが、わしらは信者ではないからのう」

 ひと椀を食べ終わると、華佗は幾ばくかの銭を置いて立ち上がった。


 ☆


 高い壁に囲まれた寺院の前におれたちは立っていた。

「ここが、五斗米道の総本山なのか」

 おれはその壮麗な門を見上げた。


「なんだ、お前たちは」

 鬼卒きそつと呼ばれる、武装した信者が門の両側で警護している。


「天下の神医華佗が、張魯師君の母上、沙蓉どのに会いに来たのじゃ。そう言って取り次いでくれ」

 華佗の言葉に男は胡散臭そうに目を細めた。もう一人の男と顔を見合わせては首を捻っている。これは埒が明きそうにない。


 だが、扉は内側から開いた。


「待っていたよ、華佗。遅かったじゃないか」

 開け放たれた扉の向こうには、若く気品高い女性が立っていた。妖艶な微笑みを浮かべ、おれたちを菩薩のような目で見ている。


「おう沙蓉。変わらず元気そうじゃのう」

「そういう華佗は、……前より子供に戻ったみたいだねぇ」

 ふふふ、と笑う。


 この女性が、華佗の幼なじみにして五斗米道の教祖張魯の母、沙蓉だった。


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