第4話 師弟、江東に降り立つ
衰えたとはいえ、漢帝国の皇統は曹操の支配する許都に存続している。
それにも関わらず皇帝位を称した男がいた。
何度も漢の三公を出した名門の一族で、名を
かつて後漢の都だった洛陽は董卓によって蹂躙された。各地の群雄は打倒董卓で立ち上がったが果たせず、董卓は洛陽に火を放ったのち、西の旧都長安へ去る。
そして、焼け跡となった洛陽で漢王朝の至宝、伝国の玉璽を手にしたのがこの袁術だったのだった。
勢力範囲はわずかに長江下流域の揚州に留まるが、この男は自らを皇帝と称し、得意の絶頂にあった。そして、その驕慢さは周辺の豪族の離反を招いていた。
☆
「まったく。お前は腹の肉が少ないから寝心地がわるいのぅ」
長江を渡る船の船べりにおれたちは腰掛けていた。
徐州を辞したおれたちは街道を延々と歩きながら南下し、やがて徐州と揚州の境をなす広大な長江に行き着いたのだ。
華佗は胡坐をかいたおれの膝の上にちょこんと座り、小さな背中をおれにもたれかけている。
毒づくその声は眠たそうで、すこし舌足らずになっている。
天気が良いのもあるが、やはり疲れているのだろう。いかに見かけは10歳でも、実際は100歳を越えているらしいのだから。まあ、これは見かけ通り10歳の幼児だとしても大変な道のりではあったが。
「気の利かんやつだ」
そう言うと華佗はおれの手をとると、自分の身体の前で交差させる。つまり、おれは10歳の幼女を後ろから抱きしめている格好になった。
「これは何か誤解を招きそうですが、
「つまらぬ事を気にするな。何ならわしの豊満な胸をいやらしくまさぐってもよいぞ」
「妄想は大概にしろ。どこにそんなモノがある」
だがこうやって抱きしめると、華佗の髪の匂いが鼻をくすぐる。いい匂いだ。実際に嗅いだ事はないが、これは妙齢の少女の匂いではないだろうか。すくなくとも加齢臭はしなかった。
「おや、わしの背中になにか当たっておるような気がするぞ。なんじゃこの固くなっているものは、くくっ」
「……」
「困ったものじゃのう。100歳を越えてまだ少年を魅了するとは、わしもとことん罪な女じゃ」
華佗はぐりぐりと背中を押し付けてくる。
「やめろ。船外へ放りだすぞ、師妹」
慌てて少し体を離す。おれの隣で長くなっていた那由他が大きく欠伸をした。
やがて、対岸の湊が見えてきた。
☆
賑わう揚州の湊から離れると、すぐに街道は
「揚州刺史の劉繇は、袁術配下の孫策に討たれたようじゃが」
「だけど残党狩りが居そうだな」
まさかおれたちが残党には見えるとは思えないけれど、治安が悪い所では何が起きるか分からないのだ。
「その時は廖化、お前が守ってくれるのであろうな」
華佗はおれの腰の剣に目をやる。
これは徐州で、関羽が佩刀を外し餞別として贈ってくれたものだ。どう見ても多くの人間の血を吸っている逸物に違いない。だがそれにしても、人と斬り合うなど想像もできなかった。
「絶対、無理です、師妹」
華佗はため息をついた。
「ほら、お前があんな事を言うから本当に出て来たではないか」
山中にぽつりと立つ崩れかけた一軒家を過ぎると、街道の前後を怪し気な風体の男たちに塞がれてしまった。小汚い服に毛皮を纏った男を中心に、どう見ても柄の悪い男たちばかりだ。この辺りを根城にしている山賊だろう。
「おい廖化。あんな雑魚ども、やっつけてしまえ」
「だから無理ですってば」
もうこれは、敵わないまでも闘って斬り死にするしかなさそうだ。
「ほほう。こんなガキは意外と需要があるからな。抵抗しなければ助けてやるぞ」
山賊の頭目らしき男が見ているのは、華佗ではなくおれだった。少しだけ、師妹を見捨ててでも生き延びる望みが湧いてきた。
「すまん、師妹」
「なんじゃと?」
「ガキの尻穴を愛好する変態はどこにでも居るからな」
頭目は唾を吐き捨てた。……あ、やはりそっちでしたか。
「師妹、死ぬときは一緒です」
「だからさっきから何を言っておるのだ」
でもこれは、絶体絶命の危機に変わりはない。
☆
その時、旋風が吹き抜け、後方を扼していた男たちの首が揃って宙を舞った。さらに、地面に座り込んだ俺たちに向かい、錆びた剣を振りかざす山賊の胸を、朱塗りの剛槍が貫いた。
残った山賊たちは我先に逃げ去っていく。
「な、なにが……」
甲冑の男が街道に立っていた。
だがその身体は血にまみれ、すぐに膝から崩れ落ちた。おれはその身体を支える。しかし男が傷だらけなのは明らかだった。
「大事ないか……」
その男は、微かな声で言う。
「ありがとうございます、大丈夫です。ですが、あなたは一体?」
「劉繇の配下で……、
男はそこで意識を失った。
「
おれは華佗を振り返った。青ざめた顔で、華佗はおれを見返す。
よし、廖化。そう頷いた。
「あの廃屋へ運べ。手術を執り行う」
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