最終話 廖化、華佗と訣別する
「これを見るがいい、廖化。血の固まり、つまり血腫じゃ」
華佗は曹操の頭蓋骨の中を指差した。
「これが脳を圧迫して、痛みのもとになっておったのだ」
満足げに頷く師妹だったが、おれは立ち眩みをおこしていた。
「なんじゃ、だらしない。お主は人間の頭の中を見たことがないのか」
華佗は喋りながらも手は止めない。
「ある訳ないでしょ。師妹の頭の中こそどうなっているのか見てみたいくらいだ」
しゃがみ込んだおれに那由他がすり寄って来る。悪夢のような手術現場で、こいつだけがおれの救いだ。
「そうか。だったら後で見せてやろうかのう」
おれはうんざりした。ぜんぜん冗談に聞こえない。
ぺと、と濡れた音をたて、赤黒いものが皿に置かれた。それをまじまじと見る勇気は、おれにはなかった。
「よし、取れた。あとは頭骨をくっつけねばならん。そこの鍋を持って来てくれ」
おれは覚束ない足取りで、火にかけた小鍋を師妹の横に置く。中では粥のようなものが煮えているが。
「これは何です」
「ああ、骨をくっつけるための
米粒と、なにか秘伝の薬草を煮込んだものらしい。
「天然由来成分だからのう。肌にも安心なのじゃ」
師妹は切り取った頭骨のへりにその糊を塗って、曹操の頭蓋骨に開いた穴に元のようにはめ込んだ。意外ときれいに収まるものだ。
「これはな、切断面に角度を付けるのがコツなのじゃ。でないと嵌めたとき、中まですっぽりと落ち込んでしまうからのう」
そんな説明はいいから、早く終わらせてほしい。
「よし。頭皮の縫合も終了じゃ」
無事……かどうか分からないが、手術は終わった。
頭を包帯でぐるぐる巻きにされた曹操は、寝台に横たわり、静かな寝息をたてている。
「放っておくと、体内でばい菌が増殖するからのう。後は直接、血管に消毒薬を流し込めば……」
「それ絶対やっちゃダメだと思います!」
何を言い出すのだ、この師妹。
「そうか? わしの師匠の
不満げに首をかしげた師妹だったが、何かに思い当たったようだ。
――なるほど、袁術の容体が急変したのはそのせいかもしれんのう。師妹がぼそっと呟いた。
「いやあ、この齢になっても、人生とは日々勉強じゃのう!」
「何をいい話ふうにまとめようとしているんですか」
それに最後、ちょっと聞き捨てならない言葉があった気がするのだが。袁術がどうかしたとか何とか?
「大丈夫じゃ。すべては時効の彼方じゃからのう」
時の彼方みたいに言うな。
「あの頃はわしも若かったものじゃ」
師妹は遠い目になった。
「でも90歳くらいですよね、その頃」
「認めたくないものじゃのう。若さゆえの過ちというものは」
ははは、と照れ笑いしているが。
「若くもないし、過ちはちゃんと認めなさい!」
「……しゅん」
「まあ、誰にでも誤診はあるということだな。だが、わしは常に未来だけを見ておるからのう。少々の犠牲はやむをえないのだ」
さすが師妹、立ち直りが早い。まあ医術の黎明期という事を考えれば、ある程度は仕方ないのかもしれない。
「疲れたので、わしは少し寝る。曹操の意識が戻ったら起こしてくれ」
華佗はそう言うと、椅子を並べた上に器用に横になった。
☆
「廖化、ちょっとこっちへ来い」
意識を取り戻した曹操に薬湯を飲ませたあと、師妹はおれを自室に呼び入れた。髪に寝ぐせがついて、ちょっと服が乱れているのが妙に艶っぽい。
「なんですか、師妹」
「うむ。股間を膨らませているところをすまぬが、今日はそういう用件ではないのだ」
「人聞きが悪いことを言わないでください」
これは、いわゆる条件反射というやつだ。
「廖化よ。わしとお主は、ここらで別れた方が良いように思う」
華佗は、静かにおれを見上げた。
「いままで、長らく世話になったのう」
おれは茫然とした。あまりに急な話で言葉にならない。
「あ、おれ。何か失態がありましたか」
やっと、それだけ訊く。
華佗は頬を染め、そっとため息をついた。
「お主の夜ごとの激しい責めに、わしの幼い肉体が悲鳴を上げておるのじゃ」
「嘘をつけ」
ふふ、と華佗は笑う。
「まあ、それは冗談だ。実は関羽にせがまれてのう。どうしてもお主を麾下に加えたいらしい」
「関羽さんが……」
「あれも、あちこち怪我だらけじゃ。信頼できる医者が近くにおった方が良いと、わしも思う」
「おれは、まだ医者とは呼べないです」
おれは、ただの弟子だ。
「勘違いするな、廖化。医者とはな、誰かに認めてもらってなるものではないぞ」
師妹は、いままで見たことが無いほど優しい表情でおれの肩を抱いた。
おれは師妹の顔を見返した。なぜだろう、ぼやけてはっきりと見えない。
師妹はおれの目に溜まった涙を指先で拭ってくれた。そうだ、おれは泣いていたのだ。
廖化よ、と師妹はおれの両頬に手をやり、正面を向かせる。
「自分は医者だと宣言すれば、その時点で、お前は医者なのだ」
「師妹……」
「いや、そんなものじゃないでしょ!」
☆
曹操が劉備と同盟を結んだのは、この頭痛治療に専念するためだった。西方の憂いを無くした魏軍は、対呉戦略のために兵員を集中した。
曹操自身が出馬しないとはいえ、魏には錚々たる人材が集まっている。
完全復権した満寵が大将軍となり、張遼、李典といった将軍を率い建業へ攻め込んでいく。
「では出陣するぞ、廖化」
襄陽に駐屯する関羽は、魏軍と連携し呉に攻め入るのだ。
「怪我の具合はいかがですか、将軍」
関羽は不敵に笑うと、偃月青龍刀を握った左腕を振り回した。
「どうじゃ」
「恐れ入ります」
この頃、長江より北は曹操が建国した魏が支配し、長江沿岸の南方は孫権の呉が、そして蜀と荊州は劉備が抑えていた。
また、北方に逃れた馬超は匈奴と結んで一大勢力を築いており、再び中原へ攻め入る機会を伺っている。
さらに東方からは海を越えて倭と称する連中が頻繁に姿を見せ、西からは砂漠の彼方、
「面白い事になってきたものだ」
小柄な身体におおきな箪笥を背負った華佗は、遠くに長安をのぞむ山道を歩き始めた。その後を一匹のネコが追う。
「また新たな時代の始まりという訳か。さて、われらはどこへ向かおうか」
のう、那由他。そのネコは顔をあげ、にゃう、と鳴いた。
終わり
師妹(せんせい)、それは誤診です! 杉浦ヒナタ @gallia-3
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