第5話 太史慈、天女に救われる
「では
さすが名医、てきぱきと指示がとぶ。
だがその本人は、
「
「う、いや、その……」
おれを見て、えへへ、と気弱げな表情を浮かべている。
「おい、師妹」
「いやー、いい鎧だな、と思ってな」
「追い剥ぎですか。それを脱がさないと治療できませんよ」
ここに来て、どんな言い訳だ。
「……これは猫の手も借りたいというやつだな」
「猫ならそこにいますけど」
ネコの
「実はな、廖化。わしは、あれが……ちょっと苦手なのじゃ」
「あれとは」
「ほれ、その赤いドロドロとした……」
「まさか、師妹。血が怖いんですか」
「いや怖いとは言っておらん。苦手だ、と言っているだけじゃ」
ぶんぶん、と握った両手を振って抗議している。その姿は、どう見ても駄々をこねている子供だ。
ふーん。おれは結構深刻に考え込んだ。
「師妹。あなた、医者でしたよね。それも主に外科医」
「ああ、その通りじゃ」
そう言うと、大きく、ちいさな胸をはる。
「それが血が苦手って、どういう事だっ!」
今までどうやって手術してきた。
華佗は勢いに押されるように二、三歩後退する。
「も、もちろん自分で切って出た血は平気だぞ。こんな、誰が付けたか分からぬような傷から出た血は、嫌じゃと言っておる」
「同じだよ!」
ぶー、華佗は口をとがらせ、そっぽを向く。
仕方ないので、おれが太史慈の鎧を脱がせる。肩口に大きな刀傷があった。これが一番重傷のようだ。
「さあ、早くしないと助かりませんよ。ちょっと師妹?」
華佗は目を半眼に閉じ、何か口のなかで呟いている。
「よし、
にやりと笑う。
華佗は何の迷いもなく傷口を洗い、薬を塗りこむと、針と糸を使い傷を縫い合わせにかかった。その手際のよさに、華佗がなぜ『神医』と呼ばれるかを知った思いだった。
「やればできるじゃないですか、師妹。ところで、現実逃避って?」
「うむ。これは血ではない、この男のいやらしい体液なのだと思い込むことに成功したぞ。つまり、わしの手は男の淫汁に濡れそぼっておるという事になるのう」
ぐふふ、と楽しげに笑う。
ほんの少しとはいえ、こんな女を尊敬した事を、おれは後悔した。
「これを口に入れて舐めさせてやれ」
華佗は荷物の中から、星のような形の丸薬を取り出した。砂糖菓子のようでもある。果物のような甘い香りがした。少なくとも毒ではなさそうだが。
「
原材料が何かは訊かないことにする。
☆
無事、ひと仕事おえたおれたちは食事にする。
「この米の粥というのは美味いものじゃのう」
おれたちが啜っているのは、湊の集落で手に入れた米と干し魚の切り身で作った、ごく薄い粥だ。中原の北方では米よりも麦が主食になっているので、こんな食事は珍しいということもあるだろう。華佗はよろこんで椀を空にした。
「廖化、そなた料理の才があるぞ」
褒められて、悪い気はしない。
「ただ、これだけでは腹が膨れんのう。廖化よ、師匠孝行をする気はないか」
華佗はおれの椀をじっと見つめている。おれは慌てて残りを掻きこんだ。
「にゃうー」
那由他までおれに擦り寄って悲し気に鳴いている。
「お前のもこれでお終いだ」
諦めた那由他は、おれの足の指を舐め始めた。すまん那由他。すべてこの甲斐性の無い師妹がいけないんだ。
すると那由他が驚いたように飛び退った。太史慈が意識を取り戻し、身体を起こしたのだ。あれだけ出血していたのに大した回復力だった。
「反魂糖が効いたようじゃのう。血色も良くなったではないか」
「そなたらが治療を……感謝する」
太史慈は頭をさげた。鍛え上げられた身体に似つかわしい、低く落ち着いた声だった。
「ほうほう」
華佗は舌なめずりせんばかりの表情で太史慈の顔を覗き込んだ。
「これは美形じゃのう。特にこの眸がよい」
眠っている時にはぼんやりとした雰囲気の容貌だったが、その知的でありながら精悍さを併せ持つ双眸によって、太史慈の印象は一変した。
「姓が太史というからには、史官の家系なのかな」
ただの武人と思えないのはそのせいか。
「かつてはそうだったのでしょうが、今は地方の役人です。……あなたが高名な華佗さまでしたか」
太史慈は華佗の両手をとり、自らの額に押しいただく。
「私にもう少し生きろと、天が命じたのでしょう。あなたが天女のように見えます。本当に噂通りの方でした」
「そうか。まあ、よく言われるがな。で、どんな噂かの」
「ええ。華佗さまの治療を受けた者は、ほぼ例外なく数年後に死ぬ。だが逆に言えば、それまでは生きる事ができるのだ、と」
どんな噂だ。それでは時限付きの死神と変わらないような気がするが。
「そ、それは、褒めていただいて光栄だのう、太史慈どのよ」
さすがの華佗も微妙な笑みをその幼顔に貼り付けていた。
☆
廃屋の外が騒がしくなった。
「中に誰かいるぞ」
声と共に、数人の兵士が剣を構え侵入してきた。山賊にしては武装が統一されている。どこかの正規兵だろう。
おれはもう一度、関羽から貰った剣を手にする。
「待てっ!」
空気を震わせる大音声が太史慈から発せられた。
「目的は私だろう。この者たちには手を出すな」
太史慈はゆっくりと立ち上った。しかしまだ、とてもそんな状態ではない筈だ。おれと華佗は、左右から太史慈の身体を支える。
だが太史慈は、おれたちの手を押し戻した。
「世話になったな、華佗さま。廖化どの」
「また会ったな、太史慈」
兵士が道をあけ、二人の武将が現れた。
どちらも堂々たる長身だ。ひとりは茶色がかった髪の、癇の強そうな若い男だ。太史慈に声を掛けたのはこの男だった。
「
かつて
「太史慈どのは怪我をされておるようだ。座って話そうではないか、孫策よ」
もう一人の男が太史慈を支えるように座らせた。長い黒髪を後ろで束ねている。こちらは女性と間違えるほどの美青年だった。
「わたしは
「なんとこれは!」
華佗が大きな声をあげる。
太史慈、孫策、周瑜の視線が彼女に集中した。一瞬で華佗の顔が上気する。
「江東には美男子しかおらぬのか。まさにここは天国ではないか」
のう、廖化もそう思うであろう、そういって振り向いた華佗は、ふと表情を曇らせ溜息をついた。
訊かなくても理由は分かる。悪かったな、平凡な顔で。
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