終章 乱世の終焉

終章 乱世の終焉

 石田三成暗殺から関ヶ原の戦いまでの動乱から一年半余りの時が流れた慶長五(一六〇〇)年十二月二十四日、下総の国は大雪に見舞われていた。




 その大雪の中を、二人の男に担がれた一つの輿が風に揺られながら城下町を進んでいた。豪華な装飾が、その輿に乗る人間の身分が高貴なものである事を知らしめていた。

 その輿は城のほうへは向かわず、城下町にたたずむ一つの建物の前で止まった。輿の中に乗っていた人物は足が不自由らしく、輿を担いでいた二人の男に肩を預けながらその建物の中へと進んでいた。


「ふぅ、やっと着いたわ。それにしても、何もお前たちが来る事もなかったろうに」

「申し訳ございません。実はそれがしが担ぎたいと先に申しまして」

「それでその話を聞きつけた私も負けてはおられぬと……」

「フッ、まあよいわ。それにしても雪が深いのう」

「それがしにはよくわかりませぬが、これも罪が許された証と言う物なのでしょうか」

「そうじゃ。もっとも、わしの罪はこれぐらいで消えるとは思えんが、まあ少しは許してくれるじゃろう。これよりミサが始まる。ほれ、お前たちも祈れ」




 建物の奥にたどり着いたその足の不自由な男、黒田如水は後藤又兵衛、森山平太郎の両名と共に、面前に立っているキリスト像に向けて祈りをささげた。




※※※※※※※※※




 関ヶ原の戦いの後、徳川秀忠らによって押し込めにされていた徳川家康は当主の座に戻り、豊臣秀頼への服従を確約し、徳川家の安泰を願う旨を記した血判状を宇喜多秀家の下に送り、秀家もまたこれを承諾した。


 そして大坂城に戻った秀家は、新たなる領土割を長束正家らに任せた。




 まず石田連合軍の大名は、上杉景勝が会津・米沢・庄内を失う代わりに越後・上野・下野を与えられ、佐渡はそのままで百六十万石。


 伊達政宗は会津と米沢を上杉家から受け取り、旧領の一部を含め百二十万石。


 最上義光は庄内を加増され三十五万石。


 真田昌幸は田丸忠昌、石川康長、仙石秀久の三人の旧領に、川中島の豊臣家直轄領の一部を加えられ二十二万石。


 仙石秀久は藤堂高虎と加藤嘉明の旧領をまとめて与えられ十六万石。


 田丸忠昌は金森長近に代わって飛騨に移され十万石。


 石川康長は小西行長の旧領であった肥後の宇土に十五万石で移封された。


 宇喜多秀家は、播磨一国を加増され百万石。


 石田家は三成領二十万石を長男の重家が継ぎ、その上で南信濃で次男の重成が十五万石の領国を与えられ、三成の父正澄と兄正継の領土はそのままで四十万石。


 長束正家は、近江領内で十万石。


 増田長盛は、伊賀一国に伊勢の一部を合わせ二十五万石。


 大谷吉継は、駿河で十五万石。


 筒井定次は大和一国へ復帰したが、伊賀は召し上げられ三十五万石。


 金森長近は、岐阜城へ十五万石で入る。


 平塚為広は吉継に代わって六万石で敦賀城に入り、戸田重政も阿波で六万石。


 氏家行広ら石田連合軍に付いた伊勢の小大名は二倍の加増とされ、遅れて味方した丹羽長重、細川忠興、京極高次らは二~三万石前後の加増にとどまった。

 






 一方、如水連合軍の大名は、本人が下総一国に移され四十五万石。

 如水の配下となった大名の中で最も厚賞を受けたのは豊後一国三十五万石に移された立花宗茂であり、垣見一直が上総大多喜で十万石、福原直高と熊谷直盛が加藤清正の旧領を十五万石と十万石で分け合ったが、二倍以上の加増を受けたのは如水を除くとこの四名だけであり、他の大名への加増は微々たる物だった。

 まず島津家は小西行長の旧領の内、七万石を加増されただけ。

 鍋島家も寺沢広高から召し上げた四万石を加増されたのみ。

 毛利家と小早川家は旧黒田領の豊前を分け合ったが、毛利家の加増は十万石、小早川家の加増は八万石に過ぎなかった。

 そして、生駒・南条・安国寺など毛利より遅れて如水に加勢した大名たちは全て本領安堵だった。

 ちなみに長宗我部家は阿波に蜂須賀家から召し上げた十万石の領土を加増されたが、それは幽閉されていた津野親忠の領国とされ、長宗我部盛親は単なる本領安堵であった。


 要するに、如水の呼びかけに真っ先に答えた者だけが優遇されたのである。

 現に三成の盟友である小西行長も尾張清洲城に移されたが、石高は二十五万石と五万石の加増に過ぎなかった。










 そして三成暗殺に加担した大名の内、福島正則、浅野幸長、加藤嘉明の三名は斬首され御家断絶、首は三条河原に晒された。


 加藤清正は、関ヶ原での浅野軍相手の勇敢な戦いぶりと兵を守るために投降した事が認められ、本人は切腹させられたが五千石の旗本として家は存続した。


 関ヶ原で戦死した蜂須賀家政は豊臣家の譜代と言う事もあり、十八万石から二万石となったものの嫡子至鎮の相続を認め旧伊達領で家は存続。

 また家政と同じように関ヶ原で討ち死にした池田輝政の子利隆は、徳川の縁者と言う事で武蔵国で一万石を取る身分として存続が認められた。


 そして黒田長政は父如水の働きもあり、出家と伊達家へのお預けで落着した。


 しかし加藤や蜂須賀、池田が何とか家名を保ったのに対し、正則らが清洲城に入ってから味方した大名は、清正と同様に投降した中村一忠や堀尾忠氏も千石の旗本まで落とされ、一柳直盛や松下之綱、織田秀信や森忠政などと言った東海道や美濃伊勢の大名たちはことごとく除封の憂き目に遭っていた。

 これもまた、三成暗殺と言う大罪を犯した人間に味方するとは何事だ、すぐに兵を起こして討つのが当たり前であろう、と言わんばかりの処分である。


 当初上杉・伊達家と距離を置き両家の攻撃を受けて服属した越後の堀秀治と、同じく越後の村上義明、溝口秀勝は三人とも半知で旧伊達領に移された。

 下野の大名衆は蒲生定行が半知で旧伊達領に移され、それ以外の小大名は全て改易。

 日和見を続けていた前田家は本領安堵だったが、利長は隠居させられ弟の利政が領国を受け継ぐ事となり、同様に常陸の佐竹義宣、安房の里見義康も本領安堵であった。







 そして徳川家であるが、まず領国は上野・下総・上総の三ヶ国を召し上げられる代わりに甲斐一国を与えられ、武蔵・相模・伊豆は安堵され百五十万石。


 家康は内部を抑え切れなかった責任として隠居を命じられたが、それだけだった。

 そして家康に代わって当主となった徳川秀忠も出家させられただけで、四男の忠吉も上杉家への預けで落着した。






 しかし一方で、「家康押し込め」に参加した者たちへの処分は厳しかった。


 まず主犯と言うべき井伊直政は、正則ら同様に斬首され三条河原にその首を晒した。

 関ヶ原で自害した本多忠勝と討ち死にした大久保忠隣の一族には徳川家より奉公構いの処分が下され、他の関ヶ原にいた徳川家臣団もその大半が徳川より放逐された。

 ここに、徳川を支えてきた三河武士団はほとんど解体されたのである。




 そして新たなる徳川家の領主は家康の六男の松平辰千代改め徳川忠輝とされ、次男の結城秀康は直政らによる政権簒奪を看過した咎で伊豆一国に落とされ、五男の武田信吉は武田家の本国である甲斐一国に封じられた。

 要するに、徳川家の中核たる武蔵と相模を忠輝が治める事となったのである。

 また伊達政宗の娘五郎八姫と忠輝との婚約も正式に行われ、それをきっかけに伊達に亡命していた事にされた本多正純が徳川に復帰、父正信の旧領である玉縄城で十万石を取る身分になったのである。さらに、直政らから不信を受け武蔵に残されていた酒井家次に対し徳川家の最古参の家であるゆえ優遇すべしとの命令が入り、家次は下総臼井三万石から相模小田原城十二万石に移され一気に徳川家最高の知行取りになった。



 徳川家の武断派から蛇蝎の如く嫌われていた石川数正の子、康長を関東から遠く離れた肥後に移した事も含めて、はっきり言ってこの人事は家康に対する意趣返しであった。家康がもっとも嫌っていた子供を当主にし、家康が冷遇した人間を筆頭家老にし、家康がかばおうとしなかった人間に大領を与えさせる。まさに、家康と井伊直政らがやって来た事を真正面から否定するも同じであった。




 もっとも、やって来た事を否定されたのは家康だけではない。

 年が明けて一月も経たない内に朝鮮に向けて大老たちから謝罪の使者が出され、そして妻がキリシタンの秀家や海外に関心が強く新たに五大老になった伊達政宗らによりキリシタンの解禁が進められ、そして大坂城の総構えや豊国廟の増設と言った普請も、景勝や政宗から意を受けた山内一豊と千代の手によって中止に追い込まれた。

 朝鮮出兵もキリシタンの禁令も、大坂城などの普請も秀吉の命を受けて石田三成が事務化した物であり、それを否定される事は、この十年の間に三成がやって来た事を全部否定されるも同じであった。


 大老は、徳川家康・前田利長に代わって伊達政宗・前田利政が就任し、石高の多寡により上杉景勝が筆頭となった。奉行は石田三成に代わって増田長盛が筆頭となり、三成と浅野長政がいなくなった代わりに小西行長と、淀殿の妹初を妻とする京極高次が入った。高次については、能力と言うより半ば強引に普請を中止させた淀殿に対する配慮である。

 この一年の間に豊臣家と朝鮮の和睦も進み、キリシタン解禁令の浸透によって、各地に潜伏していた信者や海外より再びやって来た宣教師たちによって教会が建てられ始め、そして今、九州から遠く離れたこの下総でもクリスマスのミサが行われているのである。




※※※※※※※※※




「わしも多くの人間を殺めて来た。乱世に生まれついた者の業と呼ぶにも多すぎるな」

「それがしとてそれは変わりませぬ」


 ミサが終わり、教会の外に出た如水たち三人は、降り積もる雪を眺めていた。


「なあ、聞いてくれぬか」

「はい」

「なぜ人は人を殺めるのじゃろうな」

「それはその……えーと、さもなくば自分が危ういからと…………」


 如水の突然にしてかなり重大そうな疑問に平太郎はしどろもどろに答え、又兵衛は黙り込んでしまった。


「なるほどな」

「いえ、その……これは、それがしの無学な頭から出た勝手な結論で……」

「いや、わしもそう思う」


 平太郎の戸惑いを無視し、如水は首を縦に振った。


「結局、人間の行動の目的なんぞ己を満足させる事のみじゃろう。飯を食うにせよ、人を殺めるにせよ、そうした方が自分にとって得だからそうするというに過ぎん。それが忠義から発したにしても、結局は自分の尊敬する主を盛り立てたいと言う己の欲求が為した業じゃよ」

「…………」

「その点では福島正則のあの暴走も無駄ではなかった。たとえそれが豊臣家を守りたいと言う高尚なものであったとしても、自分の欲求のままに人を殺め続ける事がどういう結果を生むか、そしてその欲求に負けたものはどうなってしまうか、あやつは身をもって世の人間に知らしめた。そして、流される必要のない事が誰にもわかっていた血が無用に流された……世間はもう、人を殺める事の割に合わなさを悟ったのだ……」

「そう言えば、千成瓢箪の旗が……」

「ああ。左近らがあの旗を手に入れるのには一兵も使っていない。そしてあの旗一枚で十八万の人間の運命を一遍に確定させてしまった。人一人殺せない旗一枚がな。考えてみろ、藤堂や山内がどれだけの人間をこの戦で殺したと思う?」



 論功行賞の際、藤堂高虎は宇喜多秀家の、山内一豊は淀殿の強い後押しを受け、高虎は宇和島八万石から三河一国と尾張の一部で三十万石となり、一豊も遠江の大半を得て六万八千石から二十七万石にまで膨れ上がった。

 高虎は緒戦で多少兵を動かしていたが、一豊は最初掛川から佐和山に向かった際にも、甘く見られたか余裕を見せるためかわからないが福島正則らの攻撃を全く受けていなかったため、関ヶ原以外全く戦っていないのにである。



「世間ではあの戦で喜んだのは伊達と藤堂と山内だけだと噂している。あれほどの戦をやって功を受けた人間は他にもいるのにな。まあ、わしも実際そう思っているしな。だが、この結果乱世は真に終わりを告げるじゃろう」

「何故でございますか」

「又兵衛、あれだけの戦をやってたった三人の、きっかけを作ったわけでもない部外者たちだけが笑うとなればどう思う?正直腹立たしいばかりじゃろう」

「それは確かに」

「戦をする方が得だと思っているから、戦をしたんじゃ。それで実際に戦をやった結果がこれでは、誰ももう戦なんかやりたいと思わなくなるじゃろう。皆が戦をやりたくなくなれば、自然と乱世は終わる。そういうことじゃよ」

「あの、お体が冷えまする。お話は城の方で……」

「ありがたい心遣いじゃのう。でも、もう少し話を続けさせてくれまいか」

「では……」


 如水はふと辺りを見回し、平太郎の方に顔を向けた。


「平太郎、すまなかったな、わしだけが強引に約束を果たした形になって」

「いえ、何も文句はございません」

「あの状況でおぬしの願いを叶える事は無理だったわ……なのにわしの望みを押し付けて万石取りにしてしもうてな……」


 守山平太郎は福島正則を捕らえた功績により、禄が十石から一万石に跳ね上がっていた。


「まさかあんな旗が出てくるとは私には読めませんでした……あの瞬間、私は己が望みの不可能を悟ったのです。いや、もっと早く悟るべきだったのでしょうが……」

「あんなものが出てくるとはわしにも読めなかった、おぬしのせいではない」

「いや我が主にも読めなかったものがどうして私などに読めると……人を殺める事しか知らなかった私ではそれが精一杯なのでしょう……」

「時代が変わっていることを実感するのは難しい…………治世から乱世に突入した時もそうじゃったろうが、乱世から治世に入る時も、また同様にわしみたいな前世代の人間が変化を認められずにもがき、苦しむ……」

「それは私とて同じです、いや私の場合それ以上です」

「でも、乱世を終わらせることだけはできた。わしの力でとは到底呼べんがな…………許してくれとは言わんが、それだけは認めてもらいたい」

「はい」

「では、城へ運んでいってくれんかのう」

「了解です」




 平太郎との会話を終えた如水は平太郎と又兵衛の担ぐ輿の上の人となり、教会を去って行った。


(得だと思うから人を殺めるか…………思えば私があの男を殺めて何が起きたろうか……あの時私はそれが一番いいと思った、仲間たちもそれに賛同した、だから斬った。けれど現実は何もよくならなかった、悪くなるだけだった。

 時代が一変したことに気付きたくなかったのかもしれない、ならばこのお方の呼びかけに応じないほうがよかったのかもしれない。けれど禁を犯してまで自分を拾ってくれた人間を見捨てるのは恥ずべき行為か…………ならばせめて、命尽きるか暇を出されるまではこのお方にお仕えしよう)


 雪の中、守山平太郎こと榊原康政は輿を担ぎながら、かつての主の夢であり、現実でもある、乱世の終焉を全身で感じていた。

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慶長動乱記 @wizard-T

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