第三章-3 疎外

「上杉が兵を整え始めただと?」


 四月二十四日早朝、館林城でその報を聞いた本多正純は仰天した。


「はい、はっきりとその様子が確認できました」


 父の代から本多家に仕えている間者はそう断言した。


「様子だと?」


 間者が兆候や気配などと言う曖昧な言葉ではなく、様子と言う断定的な言葉を使った事に正純は首を傾げた。


「はい、浪人を多数雇い入れ、武器を多量に買い、城の補強もしています」

「なんと…………」


 と口では怯え気味に言ったものの、同時に好機とも正純は思った。まずはここで上杉のやり方を糾弾する書状を送りつける。おそらく上杉は突っぱねるだろう。そしてあいまいな根拠で五大老筆頭を攻撃しようとしているという名目を作って上杉に兵を向ける。

 その時こそ石田三成の遺臣ら佐和山城の軍勢は、清洲の福島正則らを打ち砕くべく進軍を開始するだろう。こちらは佐和山城の軍勢の動くのを確認するや取って返してこれを討ち、さらに五奉行殺しの罪をもって清洲の武断派を打ち破る。佐和山の軍勢は上杉の仲間扱いにでもしてしまえばいい。無論、その間は伊達や最上、堀に上杉を抑え込ませる。

 さすれば、天下は最早徳川の物である。


「しかも恐ろしい事に」

「まだあるのか」

「北側の城を補強している様子がありません」


 正純は、先の思案が甘い夢である事を一瞬で悟った。北側の城を補強していないという事は、北側から攻撃を受ける心配がないと判断したと言う事と等しい。

 要するに、伊達や最上が上杉と接近していると言う事である。これでは上杉を抑える事ができない。


「急ぎ江戸城に向かわねばならん!」

「え?」

「大殿様にこの事態をお伝えせねば!」

「いや、書状を送ればよろしいのでは?」


 間者の当然の疑問に、正純は首を横に振った。


「本多中務大輔殿が隠居した事は知っているだろう!本多殿は当主でなくなった事を利用して大殿様の側に侍り続けている。本多殿は父を殺した榊原康政を支持している。そんな人物がいる所に私の書状が届けられるか!」

「いやさすがに、大殿様に見せもせず勝手に破り捨てるなど……」

「だが取り入れないように言って来るだろう」

「こんな重大事でも?」

「重大事でもだ」


 父に似て才気煥発な正純は、正信の死後その地盤を受け継ぐ事が確実視されていた。ここで正純が功績を挙げると、家康は正純の領国を拡張せざるを得なくなり、権勢も自然拡大する。

 それでは、正信が正純に変わっただけで、康政が正信を殺した意味がなくなってしまう。それだけは、忠勝らにとって何としても避けたい展開だった。


「大殿様は私情で決断を誤るようなお人でしょうか……」

「私情ではないから問題なのだ」


 徳川家康といえども独裁権はない。いや、本来なら家康は独裁的な権力を持っていたのだが、忠勝や井伊直政が自分の立場を顧みず康政を弁護した事に衝撃を受け、彼らの意向に逆らう行動が取り辛くなっていたのである。


「そこまで大殿様が追い詰められていたとは……」

「天下に向けてここが一番苦しい時なのだ。何としてもここを乗り切らねばならん」



 正純は急ぎ書状をしたため、自ら馬上の人となって江戸城へ馬を飛ばし、未の刻に(午後二時ごろ)正純は江戸城正門にたどり着いた。


「本多上野介正純、大殿様に急なる用があって参った!早急に大殿様にお会いしたい!」


 だが大声で正純が呼びかけたにも関らず、返答はない。


「どうした!誰もおらぬのか!」


 正純は苛立ち気味に叫ぶが、やっぱり反応はない。


「私は紛れもなく本多上野介正純だ!聞こえているのか!」


 この三度目の呼びかけに、ようやく江戸城の門が開いた。


「全く、いかに急であったとは言え何をやっているのか……」


 ぶつぶつ言いながら江戸城内を進もうとした正純の脇に、突如二人の兵が入り込んだ。


「な……!」

「これは失礼を。我々もお役目でございますから」


 と口ではやる気がなさそうに言っているものの、二人の兵の眼には明らかに殺気がみなぎっていた。


(全く、ここまで父や私に対する悪感情がたまっていたとは……)


 その殺気はどこに向いているのだろうか。まさか自分が何かしないかと見張っているのか。あるいは自分を傷付け、殺めようとする存在から自分を守ろうというのか。

 いずれにせよ、正純にとってこの上なく不快だった。たとえどちらであったとしても、自分と父に対する不信の念が徳川家にあふれかえっている事を実感せざるをえないからである。


「上野介殿か」


 イライラしながら歩いていた正純の頭上から突如野太い声が降ってきた。


「大殿様に急用があって参ったのです。早急にお通し願いたい」


 その正純を、声の主・本多忠勝は冷たい目で見下ろした。


「上野介殿が自ら来るほどの急用なのか?」

「無論です!」


 正純の返答にも忠勝の表情は全く変わらない。

 そして忠勝は氷か岩のような表情のまま、両手で正純の裃を触り始めた。


「なっ、何を……!」

「気にするほどの事ではない」


 忠勝はやがて正純の懐にある書状の手応えを感じ、正純の懐に手を突っ込んで書状を取り上げた。


「何をなさる!」

「やはりあったか……拙者にはなぜ大殿様に書状を送らず自ら来たのかがどうしてもわからなくてな。あったのならばなぜ使者を使って渡さないのか……それで失礼ながら書状を探させてもらった。この書状は見た所上野介殿の物だが……」

「私が自ら大殿様に見せに参ります!中務殿は……」

「わかったわかった。ついて参れ」


 こうしてやっと正純は家康に会える事となった。だがその道中、忠勝の表情はずっと冷たいままであった。


「この書状を上野介自らがわしに?」

「はい」


 家康の前で叩頭する正純を、家康の隣に侍る忠勝は冷たい眼で見続けていた。


「な、何じゃと!?上杉が伊達や最上と結んだ!?」

「そうでなくば南側や西側だけでなく北側の城の守りを強化しているはず!それが確認されていないのです!」

「むぅ、厄介な事になったな」

「この大事を大殿様にお伝えせねばならぬと思い急ぎ馬を飛ばして参りました!」

「そうか……」

「大殿様、本当にそうなのですかな?」



 正純が家康に向けて熱弁をふるっている中、突如忠勝が口を挟んだ。


「なっ!?」

「平八郎!」

「上杉が間者を逆利用したと言う事は考えられませぬか?」

「すると、わざと北側の城の普請を遅らせ、我らに伊達や最上と結んでいると見せかけると?」

「いかにも」

「平八郎!その意見はもっともだが時をわきまえい!今わしは上野介と話している真っ最中なのだぞ!」

「上野介殿は一刻も早く情報を伝えたいと思い自ら馬を飛ばしたのでしょう?でしたら拙者も一刻も早く進言したほうがよいと思いまして」


 家康の叱責にも忠勝は一向に萎縮する様子はなく、むしろここぞとばかりに舌を動かしている。


「中務殿!」

「それがしの勇み足をお許し下さい。ですが自分の言葉が大殿様に取り有用であるという自負だけはございます。どうかその事を御心に御留め頂きたい」

「む、むぅ……わかった、そなたの言葉は放念せずにおこう。だが上野介の話の腰を折った罪は許せぬぞ。上野介に謝れ」

「……すまぬ、上野介殿。年甲斐もなく気が逸ってしまったようだ。御免」

「いえ、忠義から発した事ならば言い咎めませぬ」

「上野介。そなたの話はよくわかった。わしも上杉対策を考え直さねばならぬようだ。しばらく考えるための時間が欲しい。下がってよい」


 正純は家康と更に話を続けたかったが、謝っているのは姿勢だけで目からは全く敵意の消えていない本多忠勝の顔を見ると口を閉じ退室した。




「私の居場所は徳川家にないというのか……!何が逆利用だ!」



 正純のはらわたは煮えくり返っていた。本多忠勝のあの目は嫌っている人間に対するなどという生易しい物ではない。

 まさに敵に対する目だった。

 確かに上杉が間者を逆利用したと言う物言いはもっともだが、わざわざ自分の目の前で言う必要はない。自分が帰ってから言えばいいだけである。

 それを家康の前で臆面もなく口にしたのは、気の逸りでも家康への忠義でもない。逆用された可能性がある事に気が付いていないと、自分の足を引っ張りたいだけではないか。


「挙句裃を触るなど許しがたい……!」


 そして何より正純を怒らせ絶望させたのは忠勝が正純の裃を触った事である。忠勝は書状云々とか理屈を付けていたが、要するに正純が短刀でも隠しているのではないかと疑っていただけである。

 自分は大殿様の暗殺でも企んでいると思われているのか。正純はその事を家康に言わなかった事を一瞬後悔したが、すぐにその後悔も消えた。自分の両脇に兵士が付いたときから、忠勝のあの行為は既定路線だったのだろう。そう思うと正純の絶望は深まるばかりだった。


「今は時を待つしかないのか……」




 実は正純がかくも忠勝に警戒されているのは正信のせいだけでも、自身の才覚のせいだけでもない。正信は二十五歳で三河一向一揆に加わり、およそ七年にわたり諸国流浪を命じられた。だが正純は生まれた時より家康の寵臣である大久保忠世の庇護を受けており、帰参した父と共に家康に仕えるようになったのはまだ五歳のときである。

 要するに、正純は正信のように苦難を知らなかった。父同様に武功派から白眼視されることはあったものの、正純はそれは自分たち父子の宿命と割り切ってしまっていた。しかし正信は苦難を知っていたゆえに人の心を知り、必要でない時はむやみに口を開く事がなかった。


 だが、正純にはその配慮がなかった。まさに此度がそれであり、何としても家康に伝えなければいけないと思い込んだが最後、自ら馬を飛ばし自らの手で家康に報告するなどという行動を取ったのである。

 配慮をしていた正信ですらあの嫌われようだから、正純に関しては推して知るべしであった。


「さ、山賊だーっ!!」


 そんな事は全く及びもつかない正純に悲鳴が聞こえたのは、日が暮れかけた武蔵と上野の国境を越えてまもなくの事だった。正純が声に釣られるように刀を抜いて辺りを見渡せば、農民らしき二人の男が五人の山賊に追われていた。


「この領内で山賊だと!ええい、退治してくれる!」


 正純は武術には全く自信はない。だが徳川領内に山賊がはびこる事は許せなかった。それならば間近の関所か城にでも駆け込み兵を呼べばよかったのだが、血が上っていた正純の頭はその思案にたどりつけなかった。


「たかが五人の山賊ぐらい、私でも斬れるわ!」


 正純は家康に一秒でも早く知らせるために館林城から強引に馬を飛ばしたため、従者は誰もいない。いや、それでも本当は正純の帰還に合わせて数名の人間が駆け付けてくる予定だったのだが、正純が急にいなくなった分の仕事を埋める為に館林に缶詰状態になっていて動けなかった。


 だが相手は兵法など何も知らない山賊連中だ、一人でも十分片付けられる、何より見過ごしてなどおけない。その思いに駆られた正純は馬で山賊たちに体当たりして二人をなぎ倒し、剣を振り下ろし一人の持つ刀を叩き落した。



 だが次の瞬間正純の馬の首に小刀が刺さり、落馬した正純は地に叩き付けられた。


「く……!」


 そして起き上がろうとする刹那正純の首筋に衝撃が走り、そのまま動けなくなった。


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