第五章 決戦目前
第五章-1 敗北
「上野から援軍は出せずじまいか」
「最上がここまで本気になっていたとは……」
慶長四年六月六日、江戸城内にて家康と忠勝が嘆きの声を上げていた。
越後春日山の堀秀治が、上杉・伊達連合軍に敗北し両家への服属を余儀なくされたと言う報が入ったのである。
春日山が攻撃されているという報を受けた家康の次男・結城秀康は上野にて兵を集め春日山を救援しようとしていたのだが、そこに最上義光が自ら三千の兵を率い上杉・伊達連合軍三千と合わせて六千の兵で陸奥と上野の国境に陣を構えたと言う報が飛び込んで来た。
最上家など北側から堀家を抑えるぐらいの事しかしないだろうと思っていた秀康は集めていた兵をそちらの警戒に回さねばならなくなり、結果越後を見捨てることになってしまったのである。
春日山で三十万石を取っていた堀家が服属してしまったのだ。合わせても堀家の半分の石高しかない村上・溝口など抗戦すらせずに服属してしまうか、仮に抗戦しても一撃で吹っ飛ばされてしまうだけだろう。事実上、越後は上杉・伊達連合軍に屈した形になった。
「下野守様と兵部殿にもっと兵を与え奴らを根無し草にしてしまっては」
「そんな事をすれば信濃からこちらを睨んでいるあの男に狙われるだけだ」
信濃からこちらを睨んでいるあの男、と言えば真田昌幸である。
家康にとっては何度も痛い目に合わされてきた男であり、三万石の小大名ながらもっとも油断ならない相手であった。
「大崎少将と山城守の狙いは最初から信濃だ。絶対にわしと同じ天を戴かない真田安房を当てにし、自分たちの兵力と安房の知略を楯に信濃の大名衆を服属させる算段だったのだ」
「服属させた後は」
「美濃に入り左衛門大夫らを討つか、上野から関東に乱入してくるか。わしは前者と見ておるが」
「まずは討ちやすい相手からですか」
大垣城の福島正則らは五奉行筆頭石田三成殺しの罪人とその仲間であり、これを討つ事は天下の大義として十分通る。しかも佐和山城の石田連合軍は必ず味方するはずであるから、事実上挟撃の態勢を取る事になる。上杉・伊達連合軍が仮に二万だとしても、石田連合軍が四万、福島らが三万なので、実質敵は半分である。
一方徳川家を攻撃する理由と言えば松平忠吉と井伊直政が上杉領を勝手に犯したと言うだけであり、言いくるめて私戦にしてしまう事も不可能ではなかった。更に徳川軍六万は強兵揃いであり、上杉・伊達・最上、更に未だ去就不明の佐竹義宣が全力を注ぎ込んで兵を集めてやっと六万である。信州勢が味方すれば数だけは一応優位に立てるが、徳川の精兵に勝てる保証は全くない。どう考えても、正則らを討つ方が楽であった。
「平八郎、下がってくれ。一人でどうするか考えたい」
我々はどうすべきか、そう言いかけた忠勝を制するように、家康は一人で考えたい旨を忠勝に申し付け天守閣から下がらせた。
(ふぅ……わしは本当にどうすべきなのか……)
家康は腕を組みじっと考え、いくつか取りうる手段を挙げてみた。
まず一つは、上杉・伊達連合軍が美濃の福島連合軍を攻撃する隙を突き、徳川軍の兵力で信濃を手中に収め、上杉・伊達連合軍を本国と分断してしまうというものである。
二つ目は二万近くの軍勢が出払い手薄になっている会津に攻め込み、上杉軍及び伊達軍の帰る所を奪ってしまうという筋書きである。
三つ目は上野に兵を集め国境の最上軍を牽制し、越後の堀秀治らをこちらに引き戻し、未だ識旗を鮮明にしていない前田利長に協力するように圧力をかけると言うものである。
四つ目に思い付いたのは徳川の身の潔白を証明するために、自ら兵を率いて福島連合軍を討伐すると言うものである。
五つ目に浮かんだのは全軍を率い福島連合軍に合流し、石田連合軍と伊達・上杉連合軍を諸共に打ち砕き、さらに九州の黒田如水も破ると言う筋書きである。
「そんな所か……」
家康は思い付いた五つの案を記した紙を見ながら唸った。
もう一つ完全に知らぬ振りをして日和見を決め込むと言う案もあったが、それをやれば大垣城の福島正則らが滅びるのは必至であり、そうなると石田連合軍と上杉・伊達連合軍は自分たちに手を貸さなかった事を理由に手を取り合って関東へなだれ込んで来るだろう。
そこに九州から黒田如水がやって来れば、もはや徳川は打つ手がない。仮に如水が自分に味方した所で、徳川は如水に頭が上がらなくなり、場合によっては次の標的にされるかもしれない。いや、如水は自分の寿命が長くないことを知っているだけに、必ず次の標的として徳川を狙いに来るだろう。そうなるといくら徳川でも連戦で疲弊しきっているであろうから、どうにもならず潰されるだろう。
家康が考えた五つの案の内四つまでは、事実上福島連合軍に力を貸すと言う物であり、第四案だけが彼らを討つと言う物であった。
家康は数分間紙を見つめ、第五案に×印を付けた。この筋書きは余りにも徳川の実力を過信した案であり、大体これで勝った所で人心がなついてくれるのかどうか余りにも不安だった。何せこの案を実行すると言う事は徳川と日和見の前田家、福島連合軍以外の大半の大名を敵に回すという事であり、激しい戦いが引き起こされその結果発生する損害は凄まじい物になるだろう。それでは徳川が勝利しても民衆がそっぽを向いてしまう危険性があり、下手をすれば福島正則や前田利長あたりに天下を持って行かれる可能性もあった。
続いて家康は、第二案に×印を付けた。手薄になっているとは言うが、まだ上杉・伊達・最上連合軍は三万以上の兵を擁しており、防御ならともかく攻撃してこれを破るのは決して容易ではない。しかも連合軍を率いるのは上杉景勝である。叔父の謙信に似て無口で威風堂々と言う言葉が似合うこの男には大軍を率いるにふさわしい器量があり、その景勝に従う兵も精鋭ばかりである。それに会津を攻撃するとなれば下野に相当な兵を集めなければいけないが、伊達政宗と直江兼続の事だからここぞとばかりに信濃及び美濃から取って返し、空白地になった上野に一気に攻めかかるという戦略を取るかもしれない。そうなれば徳川は防戦一方となり、下野・上野及び武蔵の国境を守るだけで一杯一杯になってしまう。そこに常陸の佐竹義宣に参戦でもされたらもうどうにもならない。
あるいは、北信から南信、甲斐、駿河へと南下を続け、福島連合軍の領地を食い破る方向に進むかもしれない。政宗と兼続がいなくなった隙に領土を奪い返せばいいと思うかもしれないが、景勝の事だからそれを許してはくれまい。おそらく、下野と上野の国境に釘付けにされるだろう。その間に福島連合軍は足元を崩され、やがて自壊して行く。そうなれば石田連合軍も合流し、徳川包囲網は完全な物になってしまう。それだけは避けねばならなかった。
「むむむ……」
残った三つの案を眺めている家康の顔色は冴えない。
まず第三案だが、先にも考えたように上杉・伊達・最上連合軍は三万以上の兵を本国に残している。これを確実に牽制するには少なくとも同数、多く見れば四万の軍勢が必要だろう。あるいは東北の大名を駆り出してさらに兵力を増やしているかもしれない。がっぷり四つの体勢に持ち込んだ所を寝返らせて壊滅させるという筋書きも考えたが、あまりにも安易過ぎる策であり、看破されて失敗に終わる可能性の方がずっと高いだろう。
しかしだからと言って第一案をとっても、政宗や兼続が困窮するのにはしばらく時間がかかる。その間に上杉・伊達連合軍は石田連合軍と結びつき、倍の兵力で福島連合軍を磨り潰すだろう。その後、上杉・伊達連合軍は天下の逆賊福島正則打倒と言う義挙に協力した大名を討つとは何事かと言う名目で自分たちに兵を向けてくることは必至であり、やはり徳川は四面楚歌に陥りそうだ。
となると残るは第四案しかないが、果たしてそれを実行するとどうなるだろうか。正則らを討つことを咎める者は本人たち以外いない。そのために兵を動かすと言えば上杉も伊達も石田連合軍も手を出せないだろう。しかし、あまりにも今更である。討つのならば五大老の筆頭として、もっと早く兵を動かすべきだった。
三成が京で殺されてから、もう延々三ヶ月も経っている。政情不安を理由に江戸に帰ったのは仕方ないにしても、正則らを本気で許していないのならば、帰国次第すぐに出兵すべきだったはずである。それをこんな時期になってようやく兵を動かすというのは醜態である。
さらに、既に四男の松平忠吉と寵臣の井伊直政に上杉家の砦を攻略させている。家康が世間に発表しようとした名目は「本多正純をかどわかした伊達家は許し難い」だったが、直政は家康の掲げた名目を無視し上杉軍の砦を攻撃して陥落させ更に上杉軍の面前で「本多正純に操られし上杉と伊達を救う」と全力で叫んでしまい、それが公式見解と化してしまっている。
直政にしてみれば家康の掲げた名目で兵を起こし勝利すれば正純が徳川家に戻り出世するのは目に見えておりそれを避けたかったのであろうが、その結果徳川対上杉・伊達・最上という構図が完全に出来上がってしまった。家康の掲げた理由ならまだ世間も納得するだろうが、直政の言い放った言葉に耳を傾ける者は少ないだろう。遠江の豪族出身で政治がわかっているはずの直政がそんな事を声高に叫ぶと言うのが、今の徳川の内情を象徴していた。
今の徳川家に五大老の資格はないなどと言われても仕方がなかった。
結局、第四案を採った所で得られる物があるとすれば石田連合軍が延々一ヶ月もの間手こずっていた福島大夫らを一瞬で吹き飛ばした、と言う武名ぐらいだろう。それも一瞬で吹き飛ばせればの話である。家康は正直城攻めには自信がない。
石田連合軍や上杉・伊達連合軍が自分に力を貸してくれれば別だが、三成の真の仇が自分であると信じ込んでいる石田連合軍と事実上それと協力関係となっている上杉・伊達連合軍が自分に気を許してくれるわけがない。
大垣城に籠城でもされたら落とすのにどれだけかかるかわからないし、下手をすれば三つ巴の戦になり、場合によっては大夫に油揚げをさらわれるかもしれない。
詰まる所、今の徳川家は八方塞がりなのだ。
「治部少輔め……さぞあの世で笑っておろうな」
家康は三成に嘲笑されているような感覚を覚えた。
思えば石田三成が死んでからと言うもの、本多正信暗殺、それによる榊原康政の奉公構い、伊達家による本多正純強奪(表向きは「出奔」)と徳川にとって凶事ばかりが続いている。
あの切れ者の三成の事だ。きっと正則たちの襲撃の背後に自分がいた事を見抜いていたのであろう。だからわざと討たれたのかもしれない、家康はそう思い始めた。普通に考えれば、真に自分を狙う者を倒すべく何としても生き延びようとするだろう。だが三成は何の抵抗もせず正則に首を渡したのだ。
もし三成が生き延びていれば、今頃自分の野望を阻止するべく全力で駆けずり回っていたはずだろう。だがあの不器用極まりない男の事だ、駆けずり回って味方を集めようとするその度に同じぐらいの敵を作るだろう。そして三成の敵は徳川の味方となり、やがて徳川はその味方と共に三成を打ち砕き、天下人に上り詰める。それこそが家康と正信が描いていた絵図であった。
しかし、現実には三成は死に、徳川の天下は遠のいていく一方である。もはや、この騒乱の後徳川家が日本の中心に立つ構図は描けない。描ける可能性がある展開はないわけではないが、可能性は低くかつ失敗すれば徳川家そのものが消し飛んでしまうと言う危険極まりない展開だけである。
「……おとなしくしてやろう。豊臣家の五大老の筆頭、二百四十四万石の大名である徳川内大臣家康。その地位でいれば誰も手を出すまい。豊臣家より蔵入りも多いしな」
天下人である豊臣家の蔵入りは二百二十二万石であり、豊臣政権下の一大名である徳川家の領国はそれよりも多い。ある意味では、徳川は既に天下一の家なのだ。
「秀康に下野の押さえを任せ、兵部らを江戸に戻す。そして、その兵力をもって福島大夫らを打ち砕く。遅きに失してはいるが、身の潔白は証明でき、五大老筆頭の面目もかろうじて保てよう。そしてその後万千代を……」
家康の顔に苦悶の表情が浮かんだ。万千代こと井伊直政は、幼い時は寝所すら共にした家康の寵童であり、長じて武将としての才を発揮し徳川を支えてきた人物であり、家康にとってはまさに最愛の部下である。
だが、今の彼は家康が命を反故にし、私怨というべき理由を言い放って上杉と伊達に戦争を吹っかけた危険な人物である。それを放置しては、徳川の五大老としての沽券に関る。徳川家の威信を保つためには、直政に対し断を下すしかなかった。康政の件があるだけになおさらである。
だが、本多正信、榊原康政に加え井伊直政まで失った徳川家に、もう天下をうかがう機会は巡って来ないだろう。
しかしこの時、家康は天下をあきらめた。
「戦をなくすために脳を動かし尽くしたと言うのに…………徳川には無理だったと言うのか……天下人たる豊臣家以外にその資格はないという事か……治部少輔、この戦はお前の勝ちだ。豊臣家の天下はわしが守ってやろう。だが戦乱を葬ると言うわしの思いだけはお前でも打ち砕けまい。その野望だけは達成してやるからな」
家康は敗北宣言を唱えながらも口調はさわやかであった。徳川の天下を築く事はあきらめたが、もういい加減この辺で戦乱を断ち切るべきだと言う野望だけはあきらめていない。秀頼が幼少の今、政治においてもっとも大きな権限を握っているのは自分だ。事実上の最高権力者として、戦乱を屠る方向に国を動かす事は難しくないはずだ。
上杉景勝や宇喜多秀家はこちらを白眼視するだろうが、それでも構わなかった。彼らとて、こちらが豊臣家の事を盛り立てる策を出していると知れば従うだろう。何なら疑いを避けるために、次の徳川家当主を秀忠でなく元秀吉の養子である秀康にしようかとも思っているぐらいである。
「佐州がいてくれればこうはならなかったかもしれんがな……すまん、わし一人では治部少輔には勝てなかったわ……」
家康は天下への未練を断ち切るが如く、大きな溜息を付きながら親友の名を口に出した。こんな時でも正信がいれば起死回生の策を編み出してくれたかもしれない。いや、自分の天下取り断念の無念を受け止めてくれたかもしれない。
詮無い事とはわかっているが、精魂尽き果てた家康はその男の名を出さずにはいられなかった。
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