第五章-2 政宗

 家康が江戸城にて敗北宣言をしていた頃、伊達政宗と直江兼続は越後を過ぎ、信濃の上田城の天守閣にて当主である真田安房守昌幸と次男の真田左衛門佐信繁、そして三人の信濃の大名と共に座を囲んでいた。

 一人は川中島周辺で四万石の禄を取っていた田丸忠昌、一人は小諸城で五万石の仙石秀久、そしてもう一人が深志城で八万石の石川康長である。



「京極侍従殿はこちらに従う気なしのようですが」

「あれもあれでしっかりした男だ。大津宰相が我らに付いた事を知っているのであろう」


 まず話を切り出したのは上田城の当主である昌幸であった。京極侍従とは、信濃飯田城で十万石を取っている京極高知の事である。

 そして大津宰相とは、高知の兄で近江大津で六万石を取っていた京極高次の事である。先日、高次は細川忠興や丹羽長重と共に佐和山城に足を運び、石田連合軍の味方となる事を宣言した。要するに、自分が福島連合軍に付けば、どっちが勝っても京極家は残る。


「だがそうなるとうかつには南進できんな」

「京極侍従が消えれば大夫らは挟み撃ちを受ける、要するに大夫は全力で守りに来る……」

「よいではありませんか。その結果防備が薄くなり石田連合軍が」

「越前守(仙石秀久)殿、そんなに簡単ではないのです。よろしいですか、徳川家の動きを忘れてはなりません」

「徳川?」

「今の内府殿を過大評価しない方がよいと存じます。今の徳川家は危険です。今の徳川を支配しているのは内府殿ではない。井伊兵部と本多平八郎、そしてそれの取り巻き連中です。連中は内府殿のように理性的ではございません。貴公も豊臣家の譜代の家臣ならばご存知でしょう?兵部のあの頑迷な行いを」


 政宗の言葉に、石川康長の顔が歪んだ。康長の父である石川数正は酒井忠次と並ぶ徳川家の宿老であったが、小牧・長久手の戦いの後、徳川内部の武断派との軋轢によって秀吉の元へ走ったのである。

 その後秀吉は和解のつもりで数正を井伊直政と対面させようとしたが、直政は背を向けて数正の方を全く見ようとせず、直政を茶席に呼んだ時も、数正が同席している事を知り主君に背いた者との同席など御免蒙ると言い放ち、豊臣家の者を呆れさせたと言われている。


「ここで我らが南進する。すると大夫らは必死で城を守ろうと防御を固める。そして飯田で我らがてこずっている間に、徳川軍がやってきて上田を攻める……と?」

「いかにも、田丸殿の申す通り。今の徳川家に理性を期待するのは無理。激情に引きずられ私怨を晴らすために信濃を焼くでしょう。ご存知でしょう?兵部が伊達と上杉に戦を挑んだ理由を」


 忠昌も秀久も康長も、政宗の言葉に黙り込んでしまった。三人とも伊達と上杉が正純に操られているから助けてやろうと直政が言い出したと聞いた時には、思わず二の句が継げなくなった。


「では我々はどうすべきなのですか、少将殿、山城守殿」

「それについてなのだが、私は飛騨を越えるべきと考えております」

「飛騨を越え近江に入り佐和山に、と言う事ですか」

「なるほど、飛騨を治める金森殿はすでに石田連合軍の一員。そこを通るのならば抵抗もない……」

「その通り。今ならば雪の心配はない」

「それにあわよくば前田家をも動かせるやもしれませぬしな」

「いや前田には余り期待していません。加賀中納言は優柔不断の人物。本人に参戦意欲があれども母君や長らが反対している事を考え兵は出してくれまい」


 飛騨の隣国は前田家の領国である越中である。未だ旗幟を鮮明にしていない前田利長であったが、飛騨を二万余の軍勢が通過していると知れば黙ってはいられまいと秀久は喜んだが、政宗は首を横に振った。

 長とは、前田家の重臣長連龍の事である。かつては能登の畠山氏に仕えていたが、一族騒乱の際に家中が織田派と上杉派に分裂し、織田派であった連龍の一族は自身を残して上杉派に殺されたのである。その後連龍は、あの織田信長の制止も聞かず復讐に没頭し、一族の仇たる者たちをなで斬りにした。当然、上杉家に対しいい感情を持っているはずがない。


「それは残念です」

「しかし先にも述べたように徳川家が暴走して我々を狙うとなると、北信を空にはできません。どうすればよろしいでしょうか」

「そこは安房守殿にお任せいたしましょう。何せ徳川との戦はお手の物のお方ゆえ」

「ありがたきお言葉」

「ですがさすがに真田一手では辛かろうと思います。何せ向こうはただでさえ理性を忘れた軍隊、さらに真田に対する恨みは怨嗟骨髄のはず。何をしでかすかわかりませんからな。そこで石川殿と田丸殿に上田城に入っていただきたいのです。

 そして仙石殿には我々に付いて来ていただきたいのです。貴公は徳川家とは戦いたくありますまい。山城守、安房守殿、いかがかな?」

「大変に素晴らしい案と思います」

「それがしも」


 政宗の隣にいた兼続は内心それが最良の案と思いながら頭を下げたものの、どこか背筋が寒くなるものを覚えた。先ほど徳川の真田に対する恨みは怨嗟骨髄であると政宗は言ったが、石川に対するそれは真田の比ではない。そんな軍隊の旗を見れば最後、徳川軍は猪の様に突っ込んでくれるだろう。そうなれば罠にかけるのなど簡単である。

 一方で仙石秀久は猪突猛進の人物であり、それだけに真田の精巧な策を壊してしまう危険があった。ただし勇猛なだけに正面衝突の戦になるとかなり使える人物であり、真正面から激突するであろう福島正則らとの戦いにはありがたい人物である。

 それに秀久は大名の地位を追われていた際に徳川家康の助力を得て小田原の戦に参陣し、その功績で大名に復帰した経緯を持っている。単純な性格なだけに、大恩ある徳川家との戦いでは力を発揮する事はできないと言う訳だ。

 政宗の提案した人事は、全ての経緯を知り尽くした上での大変巧緻な案であった。遅れてきた戦国大名、十年早く生まれていれば天下を争った男、その世評が決して偽りや誇張ではなかったことを、兼続も昌幸も実感せざるを得なかった。


「田丸殿、石川殿。安房守殿ならば安心です。どうか大船に乗った気持ちでいて下さい。大丈夫です!千二百の兵で七千の徳川軍を撃退した安房守殿です!お二方が加われば兵は六千を超えます!三万五千の徳川軍が襲いかかろうとも尻尾を巻いて逃げ出すより他ありますまい」

「なるほど、陸奥と出羽には大崎少将殿と出羽守(最上義光)殿と我が主会津中納言の軍勢が控えている。いくら目が見えなくなっている徳川家でも三万五千の兵を注ぎ込めはすまい。上田城は安泰でありましょう」

 

 政宗は続けざまに不安がった忠昌と康長を励ますように、脳天気な算術を弾き出した。田丸家と石川家はあわせて十二万石で、計算上では三千の兵が調達できる。実際の防衛戦では上田城の農民も兵として駆り出すだろうから、実際には六千を超える兵力が上田城に入る事になる。千二百で七千の兵を撃退できたのだから、五倍の六千いれば五倍の三万五千の兵にも対応できよう、それは余りにも単純で脳天気極まりない算術だったが、不思議と不安を打ち消す力を持っていた。そして兼続もまた、政宗に答えるように楽観的な見通しを弾き出した。


「わかり申した。明日にでも家中の者に上田城に来るように呼びかけましょう」


 その調子のいい言葉にあっさりと答えたのは忠昌だった。強兵でありなおかつ暴走している徳川家に対する恐怖を振り払うために政宗が調子のいい言葉を吐き出している事を知った忠昌は、素早くそれに答えたのである。


「それで、仙石殿の手勢には我々について来て頂きますが、一族は上田城に預けては頂けないでしょうか」


 もし徳川が信濃を本気で攻めてくるとすれば、真っ先に狙われるのは信濃と上野の国境にある小諸城だった。城は建て直せばいいとしても、妻子や家臣が人質に取られるのはまずい。


「しかしそうなると城は事実上空になり、やすやすと奪われてしまうのでは」

「それこそは安房殿の思う壺のはず、ですな」

「はい、まあそういうことで」


 国境の城を自分に味方していない軍勢にガラ空きにされれば、意地にかけても攻めないわけには行かない。そこにこそ謀略ありとわかっていてもである。


「しかしいくら六月でも飛騨越えは楽ではありません」

「近江には六月中に入れば十分です」

「それは遅すぎなのでは」

「大丈夫、徳川よりは早うございます」


 政宗は何でもない事のように徳川の名を出した。

 確かに、徳川家の本拠である江戸から清洲までは東海道を通りおよそ二週間。更に大垣城まで行くとなるともう三日はかかる。ましてや、今日出兵を決めても明日兵を動かせるわけではない。例えば徳川軍の内半分を出すとしても、三万である。そんな数の兵を動かすとなると兵糧や武具などの準備も馬鹿にならない。


「少将殿、今徳川よりは、とおっしゃいましたな。とすると」

「それがしの愚見ですが、徳川は間もなく出兵を決定すると思います」

「すると狙いはこの上田城?」

「いや、大垣城でしょう」


 徳川が間もなく、福島正則らが籠もる大垣に向けて出兵を敢行する。政宗はそんな大事なことを、まるで当然の事のように連続で言い放った。


「山城守殿。内府は天下簒奪を狙っていると思うか?」

「正直なことを申せば、狙っていると」

「わしは狙っていたと見ておる」

「いた!?」


 狙っていたという過去形の言い方に、真田昌幸すら驚きの声を上げた。


「今我々は石田連合軍と合流し、福島大夫らを討とうとしております。我々が佐和山に着けば兵の数には倍の差が付き、更に九州の黒田如水殿も兵をまとめ大夫を討伐せんとしております。大夫の運命が風前の灯たる事は明白。

 そして島左近や大谷刑部殿のように治部少輔暗殺の裏には内府が深く関っていると考えている人間が我らの中核として存在し、その上あの如水殿の事です。この流れに乗って島左近らの疑惑を具現化させ、徳川家を潰してしまおうと考えても一向に不思議ではございません」

「要するに、徳川家を守るためには今ここで大夫らを討つしかないと」

「いかにも。そのためにはできるだけ早く江戸を経ち、東海道を通り大垣に向かわねばなりません。ですが仮に間に合い、我々や如水殿より先に大夫らを討った所で、徳川は何が得られると思います?」

「……えーと……」

「最初から大夫を討つ気だったのならば今まで一体何をやっていたんだ、と言う職務怠慢の謗り、その間の文官の筆頭と徳川四天王の一人、更に小姓頭を失うと言う醜態、その両者から来る人心の離間。そんな所でしょうな。この戦によりどんなに大量に空白地ができても、結局徳川家は一万石も増やせないでしょう。世間が許してくれませんからな」

「かと言って動かねば我らや如水殿に潰される……」

「そう。徳川は最早天下を狙う事などできません。今の内府殿の望みは、関東六カ国二百四十四万石を保つ事だけでしょう。そのためにはここで大夫を討伐せねばなりません」

「ですが少将殿は先に今徳川家を仕切っているのは井伊兵部や本多平八郎であると」

「ええ、ですが内府殿の事。ここで自分の意思を通さねば徳川の存亡に関ると判断したからには、どちらかの首を切り逆らう事罷りならぬの意思を家中に示すぐらいの非情の決断を行うでしょう。何せお家のために長男の切腹を甘んじて行ったお方ですからな」



 ちょうど二十年前、織田信長から謀反の疑いをかけられた長男信康への切腹の命令を、家康はためらいこそあれ実行に移したのである。それが現在の徳川家の地位を築いている礎の一つと言っても過言ではない。家康の事だ、此度も同じように断腸の決断を下し、徳川家を守ろうとするだろう。それが政宗の読みだった。


「しかしとなると東海道の諸城は敵方となります。中山道を通ろうにも我らは正直徳川に胸襟を開きたくない……」

「内府殿のこと、四万でも五万でも強引に兵を集めようとするでしょう。四万や五万で来られては東海道の城は鎧袖一触で落とされるのは明白。せいぜい、兵糧でも渡して通過を見過ごすしかないでしょう」

「それで、如水殿は今どちらにいらっしゃるのでしょうか」

「今頃は既に九州にはおらぬと見ております。おそらくは安芸……」

「安芸、毛利家を味方に引き込むおつもりか……」

「いかにも。では九日あたりに出発したいと思いますがよろしいでしょうか」

「わかりました」

 こうして軍議は終了したが、兼続や昌幸を含め、同席した将達は政宗の恐ろしさを実感せずにはいられなかった。










 そして、果たせるかな。政宗の言った通り、如水はその時安芸にいたのである。

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