第五章-4 事件
「翌日にも兵部様はこちらに到着なさる予定です」
「そうか。三河守への引継ぎはうまく行ったようじゃな、ご苦労。下がってよい」
六月十四日、家康は福島正則を討つべく江戸城に兵を集めていた。陸奥の伊達・上杉・最上に対する備えは結城秀康に任せ、自ら四万の兵を率いて出征する予定である。その間の留守は秀忠に任せる事にしている。
「万千代には悪いが、これも徳川のためじゃ……仕方があるまい。わしはまた、忍耐をせねばならぬようじゃ」
七歳で父を失ってから五十年、耐えに耐え続けようやく天下をうかがいかけた家康だったが、結局また忍耐を強いられた。
先行きのない忍耐は卑屈なだけかもしれない。だが、ここで忍耐を破れば徳川は無に帰す。それまでの忍耐が全て無駄になる。それだけは避けねばならなかった。
だがそのためには、寵臣であり此度の戦で主力として活躍してくれるだろう井伊直政の首を刎ねねばならない。本人は家康直々の命に感動し全力で戦に臨み、多くの戦果を挙げてくれるだろう。その報酬として「死」を与えなければならないというのが、家康にとっては何とも辛かった。
「……許せ、万千代。お主の一族はわしが面倒を見てやるからな」
家康はそう自分に言い聞かせる事によって、何とか罪悪感から逃れようとした。
明朝卯の刻(午前六時ごろ)。熟睡していた家康はこの男にしては遅い時間で目を覚ました。大きく両腕を伸ばし、爽やかな表情で外を見つめた家康に、思わぬ人物からの声が飛んで来た。
「大殿様、お目覚めでしょうか」
「おお万千代か」
紛れもない井伊直政の声である。
「お目覚めでしたか。朝餉の前に甚だ無礼ではありますが、実はどうしてもの用件がございまして……」
「構わぬ。申せ」
「では、お部屋にお入りしてよろしいでしょうか」
「ああ構わぬ」
直政に対し後ろめたい気持ちのあった家康は、直政の強引とも言える申し出をあっさりと受け入れ、自らの手で襖を開けようと取っ手に手をかけ、一気に引いた。
その瞬間、家康の両目に銀色に輝く刃がはっきりと映ったのである。
「なっ、万千代!?」
「大殿様……」
「万千代!何のつもりだ!気でも触れたか!」
そして銀色の刃を握るのは紛れもなく直政であり、その後ろには二十人以上の剛の者が付き従っていた。
「大殿様!なぜあのような情けないお言葉を……」
「情けない言葉とは何だ!」
「天下を取るためにずっと耐えてきたのではないのですか!?それをこの千載一遇の機会を見逃すとは何たる柔弱ぶり!大殿様とは思えませぬ!」
「万千代、おぬしは今何をやっているのかわかっておるのか!?」
「わかっております。これは謀叛です」
「何?」
わかってやっているのか。家康は直政の言葉に、怒るというより呆れてしまった。
「本多平八郎殿から聞きましたぞ。大殿様が治部少輔に対し敗北宣言をなさったと言う話を」
「大殿様、話はまだ終わっておりません!」
「すまん、続けよ」
あの独り言を忠勝に聞かれていたと言うのか。だとすると、直政のこの行動も仕方がなかったかもしれないと家康は思い直政の顔を見づらくなって視線をそらしたが、その途端に直政の金切り声が飛び込んで来た。
「では。大殿様は常日頃、天下は徳川家の手に帰すべきだと常日頃おっしゃっておりましたな。その徳川家の手によって戦乱を葬り、泰平の世を作るべきだと。にも関らず大殿様はその志をお捨てになろうとしている!これは我らへの背信です!」
「それは……どう謝っても謝りきれる事ではない。だがな、言い訳そのものだがわしは泰平の世を作る事を諦めた訳ではない。これだけはわかってもらいたい」
「ですが、このままでは大殿様にあらぬ疑いを抱いていた治部少輔の仲間たちが政権の中枢に居座る事になります!そんな状態で徳川に何ができるのですか!折角の国のための策も皆邪推により潰され、この国を衰退せしめる種となりましょう!」
「会津中納言も備前中納言もそんな痴れ者ではない。もし痴れ者ならばあんなに兵を集めることなどできはせん」
「大殿様、情けのうございますぞ……」
「情けない、か……だろうな。だが残念ながらわしの心は既に定まってしまっておる。万千代、お主一人がわめいても何も変わらんぞ」
「いいえ、これは徳川家皆の意思なのです」
「皆の意思?」
直政は左手で誰かを招き入れる仕草をした。すると、本多忠勝と大久保忠隣に伴われ秀忠が姿を現した。秀忠を含め、三人とも甲冑姿である。
「平八郎、お主か、この筋書きを描いたのは?」
「筋書きなどと言う御大層な物はそれがしには無理です。それがしは単に重臣に向け書状を撒いただけでございます」
「そうか、なぜまた……」
「悔しゅうございます!それがしたちは徳川の御家のため、天下のために身を粉にして働いて来たのです、それを大殿様はなぜ…………!」
「平八郎、余りにも野暮だが、わしにいかなる落ち度があったというのだ……教えてくれ」
「大殿様は我々の事を頼りにしていらっしゃらないのですか!?」
「な、何を言うのだ?」
「式部殿が己が全てを捨てて訴えかけたのに……大殿様はまだ頼りになさるのですか、本多正信の事を!!」
「…………!」
本多正信。その名前を聞かされた家康の全身から、全ての力が抜けた。
「小田原の戦が終わり、この江戸に移されてからというもの、大殿様はずっとあの帰り新参の男ばかりを重用されておりました。一度徳川に対し反旗を翻したあの男を。家中であの男を快く思うものなど五指にも足らぬと言うのに!
無論最初は大殿様にお控えくださるように申し上げました。ですが他の事では寛容な大殿様がその件に関しては異様なほど頑固に我々の言葉をお撥ね付けになった。式部殿は我々の意思を地位、名誉、命、全てを捨てて大殿様にお伝えになったのです!」
「…………」
「それなのに、大殿様は事ここに至って本多正信さえいてくれればとあの男を露骨にお懐かしみになられた…………大殿様、我々では駄目なのですか!!我々では本多正信の代わりは務まらないと言うのですか!!」
「…………」
何も答えない家康に対し、忠勝は火を吐くような勢いでまくし立てる。全ての感情をむき出しにして、五十二歳の男が城郭全てに声を聞かせるかのようにわめく。
「先に万千代が述べた通り、大殿様は日頃より我らに徳川の手で泰平の世を築くべしとのお言葉を申し上げていた。それなのに、あんな男のせいでお諦めになるなど……我々は無念やる方ないのです」
「…………」
「大殿様、私に上杉攻撃を命じた際のあの言葉、どうにも解せませんでした。なぜあんな男のために我々が戦わせられねばならないのかと納得できなかったのです。無論、納得できずとも主命には従わねばならぬのが部下と言う物であることはわかっております。ですが、これだけはどうしても妥協はできませんでした。妥協すれば、榊原式部殿の行動を無駄にするも同じだからです」
「徳川の重臣本多正純をかどわかした」伊達家を滅ぼせば、正純を徳川家の中枢に戻さない訳には行かない。それでは、正信が正純に変わっただけでそれ以外はほとんど何も変わらない。忠勝にも直政にも、それだけは絶対に許せなかった。政治に心得があるはずの直政をしてそういう事を行うのが、徳川の現実だった。
皆、それだけ榊原康政を慕い、本多正信を憎んでいた。
もし仮に直政が「正純をかどわかした伊達家は許し難い」と家康が与えた名目を真っ正直に兵たちに伝えていたら、徳川軍は対上杉戦で果たしてあそこまでの強さを発揮したのかどうか極めて疑わしい。将たちの正信・正純父子に対する憎悪は当然の如く兵たちにも伝わっており、それを連れ戻すための戦いと言われるのと打ち砕くための戦いと言われるのでは士気に大差が生じる危険性があった。ある意味では、直政が家康の命を反故にしたのは保身のためであったのだ。
「父上……お聞きの通りです。どうか、ご隠居願います」
「隠居、か……で、これからどうせよと言うのだ」
頭を下げた秀忠を見て、家康はようやく自我を取り戻したようだった。
「大殿様には我らの凱歌を江戸城で待っていただきます」
「徳川軍は四万だぞ。どうやって勝つ」
「無論、福島大夫らと組みます。さすれば七万、治部少輔の仲間は伊達と上杉を含めても六万だとの事」
「如水を忘れたのか」
「忘れてなどおりません。ですがあの野心家が素直に治部少輔の仲間たちに力を貸すでしょうか。相討ちを狙い静観に徹するでしょう。そこを付けば勝機は十分かと」
「安房守や佐竹の備えはどうする」
「江戸城には酒井殿が詰めていてくれる事になりました。一万五千もいれば佐竹やあの真田安房も手の出しようがありますまい」
家康の疑問に対し忠勝はすらすらと答えた。まるで、こんな疑問をぶつけられるのを想定していたかの如くである。
「大殿様に、必ずや天下をお届けいたします。その暁にはこの首を差し上げます故」
自分の行為が徳川家のためであると信じてはいる。だが自分のやった事は紛れもなく主人に対しての謀反であり、責任を負わない訳には行かない。だから、徳川の天下が定まった暁には、責任を取って自害する。直政はそう言い切ったのだ。
「うむ……ならば止めはせん。秀忠、万千代、平八郎、新十郎(忠隣)、お主らに任せる」
もし家康が本来の状態ならば、そんな綺麗事で済む問題ではないと直政を怒鳴りつけただろう。だが、正信が殺されてから家康の気力は大きく削がれてしまい、さらに直政や忠勝と言った武功派の重臣が自分たちの訴えかけによって康政の命を守った事に気をよくし大きな顔をして徳川家の内政を担当するようになり、結果家康の権勢は相対的に衰えた。今の家康に直政を怒鳴りつける気力はなかったし、仮にやってもますます強硬にさせるだけだっただろう。
「誠にありがたきお言葉にございます!」
「大殿様、申し訳ございません。ですがこれも全て忠義から発したこと……!」
「江戸城にて吉報をお待ちください!」
そう言いながら直政・忠勝・忠隣の三人は叩頭し、その後涙を流し満面の笑みを浮かべながら家康の下を去って行った。家康は、その満面の笑みを見ながらただ呆然と座っている事しかできなかった。
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