第六章 偽三つ巴
第六章-1 自信
慶長四年六月十五日、「福島正則討伐」から「福島正則救援」に百八十度方向が転換した徳川の精鋭四万が江戸城を出発した。
大将は徳川秀忠であり、それに弟の松平忠吉を始め本多忠勝、井伊直政、大久保忠隣、鳥居元忠、奥平家昌、大須賀忠政などが揃い、まさに徳川の精鋭が一ところに凝縮されたと言っても過言ではない軍勢だった。
北側では結城秀康率いる一万の兵と下野の大名衆が対上杉・伊達・最上の防衛に当たり、江戸城では家康の五男の武田信吉が名目的大将として、実質的な大将の酒井家次と共に一万五千の兵で守りを固めていた。
「酒井で江戸の守りは大丈夫だったのか」
「いえ逆です。酒井殿でなければ守りは務まらないでしょう。何せ父上は徳川の宿老でございましたゆえ」
秀忠の疑問に対し直政はそう答えた。家次の父酒井忠次は徳川家の宿老として権勢を振るった人物であり、晩年は冷遇されて京で亡くなり息子の家次自身も三万石に過ぎないが、その人脈は未だに強い。それが家次に守備を任せた理由である、そう直政は説明した。
だが真相は別の所にあり、忠勝や直政が正信を暗殺した榊原康政を擁護する書状を送った際に書状の到着時間の関係もあって、家次は家康に康政擁護の書状を送らなかったのだ。
後に時間のずれのせいだと発覚するが、この事で一時直政や忠勝は家次を白眼視した。更に家康が天下を諦めた事、本多正信を未だに忘れられずにいた事を密かに聞いた忠勝が、家康の心から正信を追い出し自分たちの手で家康を天下人に盛り立てるべしとの書状を撒いた時も、家次は大殿様に手をかけたくない旨を記した書状を忠勝に送っていた。要するに、家次は直政や忠勝から警戒されていたのである。
「この戦で天下を取れば大殿様も江戸中納言様の事を認めて下さいましょう」
「そ、そうか…………」
「我々の力を世に知らしめるのです!」
本多正信など要らない。いなくても徳川は天下を取れる。直政の言葉には、その思いがはっきりと滲み出ていた。
そして七月一日、徳川軍四万は福島正則の居城、尾張清洲城に着陣した。
「何?未だに一戦しかまともな戦は起こっていない?」
「はあ、小競り合いすら一月近く起こっておりません」
清洲城に着陣した直政は、城に残っていた正則の家臣可児才蔵から戦況を聞いて拍子抜けした。
「延々二ヶ月も対陣していたのにか?」
「残念ながら、治部少輔に与する輩の方が数が多く細川や丹羽なども彼らに膝を折り、挙句五日前に大崎少将や直江山城守の軍勢も佐和山に着陣し……」
「いや、そんな事を聞いているのではない。なぜ治部少輔の仲間共は戦を仕掛けぬのだ?自分たちのほうが数が多いのに」
「それが……我が殿に聞いてもわからないと言う返事しか来ないのです。上杉・伊達軍の着陣と共に動くかと思いきやそれもなく……我が殿のご意見は、如水殿を当てにしているのではないかと言うものでしたが……」
「確かにそれは考えられるが……それで九州軍団はどこにいる?」
「すでに美濃にいるようです」
「数はどれだけだ」
「五万と称しております」
「五万だと!?」
才蔵が口にした五万と言う数に、同席していた秀忠は腰を抜かさんばかりの声を上げた。
「わずか二ヶ月前まで如水は三千の兵しか動かせなかったはずだぞ?それが五万?」
「はい、私もにわかには信じがたいのですが」
秀忠はわずか二ヶ月で三千の兵を五万に膨れ上がらせた如水に戦慄を覚えながら才蔵の下を去ったが、一方で直政はむしろ笑っていた。
「直政、なぜそこまで余裕なのだ」
「予想通りでしたので」
「なぜ黙っていたのだ!」
「江戸中納言様、どうか落ち着いて下さいませ。兵数は大袈裟に号するのが戦の常。それに、我々にとっては多い方が好都合でしょう」
「好都合?」
「二万や三万なら我々と治部少輔の仲間共に飲み込まれてしまうでしょうが、五万となるとその心配はありません。我々を打倒する事しか考えていない治部少輔の仲間共は如水殿にかなり依存した作戦を立てようとするはず。ですがあの塩辛い如水殿のこと。自分が天下を掴もうとするため我々と治部少輔の仲間たちの相討ちをたくらみ、静観に徹するはずです。そうなれば我々と治部少輔の仲間たちとの正面衝突になります」
「だがそれこそ如水の思う壺ではないか」
「いいえ。いかに六万の兵を揃えようと伊達・上杉軍を除けば弱兵揃い。しかも戦から長らく遠ざかっているゆえ士気も上がらず、全兵力を注ぎ込まずとも十分立ち向かえます。そして大夫殿と如水殿は絶縁状により不倶戴天の仲となりました。今更大夫殿が如水殿に頭を下げるなどありえませぬ。全力で如水軍を阻もうとする事は必死。よって黒田如水軍五万は数ほどの脅威にはなりません」
「島津や毛利がいてもか?」
「島津軍は少数でしょう。そして毛利家の中で盛り上がっているのはおそらく吉川侍従だけで、他の毛利勢はそれほど本気ではないと思います。おそらく、数を揃えたのは単なる見栄だと思われます」
「だが黒田如水の事だから何をやるかわからんぞ」
「大軍に戦術なしと申します。ましてや此度の決戦は三軍あわせて十八万人。小細工を働かせる暇などありません。もっとも、それは我々も同じですが」
つまり、此度の戦において三軍入り乱れての正面衝突になるのは必至。そうなれば強兵揃いの自分たちが有利だと直政は言っているのだ。
「確かにそうなれば嬉しいが……」
「ご安心ください。この井伊直政、赤備えの名にかけて醜態は犯しませぬ」
「我が主君も同じように申しております」
直政は秀忠のためらいを打ち砕くかのように、力強く豪語しながら胸を叩いた。
「お待ちしておりました!徳川家は必ずや我々にお力添え下さると信じておりました!」
「これで治部少輔の仲間たちを粉砕できます!」
翌日、福島連合軍の本拠地となっている大垣城に到着した徳川軍は、福島正則以下の将に熱烈な歓迎を受けていた。
「このお方が徳川の次代の当主か……」
「内府殿が四万もの軍を預けたお方だ、間違いあるまい」
徳川家内部において家康に対する謀反があった事は、こんな事を言っている池田輝政も加藤嘉明も、正則も加藤清正もとうに知っている。それなのにこんな嘘を堂々と口にしているのは、それだけ徳川軍に対する信頼が厚く、それだけ石田三成とその仲間たちを憎んでいるという証拠であった。
「そこまで褒められてはかえって気恥ずかしい」
「いやいや、江戸中納言殿にはそれだけの器量がございます」
「頼みます。どうか、秀頼様と淀のお方様をお救い下さいませ」
「お救い?」
「実は治部少輔の腹心島左近めが、六万の兵と絶縁状を楯に大坂城の秀頼様と淀のお方様を脅し、二千の兵を強引に出兵させたのです!」
急に豊臣秀頼と淀君の名前が出て来たので秀忠は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような表情に変わったが、次の言葉を聞いて表情が一変した。
「左近はもし豊臣家が我々を支持するのならば、大坂城に攻め込むことも辞さないと言う暴言を吐き申した!左近は全く家臣の道を外れた暴挙を為したのです!」
「……何たる事を……」
「それからこれはまだ確認情報ではありませんが、さらに三千の兵を秀頼様から脅し取り、黒田如水翁に付けさせたとの情報もございます」
いくら相手を倒したいからと言って、よりにもよって主家を脅し兵を強引に集めるとは……秀忠は正則の言葉に呆れ返ってしまった。
「おわかりでしょう。このままでは豊臣家は治部少輔の仲間共に乗っ取られてしまいます!是非とも、是非ともお力をお貸しください!」
「う、うむ、心得た。この徳川秀忠、全力で力を貸そうぞ」
「ありがたきお言葉にございます!!」
正則は秀忠に叩頭しながら涙を流していた。
それほど、石田連合軍が強引に豊臣家の兵を出兵させたという報に衝撃を受け、なおかつ悲しみと怒りを覚えたのだろう。純粋な秀忠は正則の無念さに思いを馳せ、傍らに控える百戦練磨の本多忠勝は秘かに笑っていた。
(福島大夫にしてみれば脅された事にしなければならないのだろうな。しかしもし脅されたのではなく本当に出した援軍だとするとこれは大夫らにとっては自滅以外の何でもない。本当は知るかとばかりに振る舞えばいいのだが、大夫らはこれはこれで純粋な男だからおそらく二度と立ち上がれなくなるほどの衝撃を受けるだろう、そうなれば我々の天下はもはや目前。
そして本当に脅されたのだとしてもそれはそれでいい。この大戦後豊臣の政権を握るのは我ら徳川と大夫たち……だが大殿様と大夫たちでは政治に関しての器量には大差がある。これまた徳川の天下遠からずだろう)
忠勝は柄にもなく政治的な思案を行い、それがうまく行った事に気を良くした。
「では明朝にも佐和山に向けて出征したいのですが……」
「中務殿(本多忠勝)、ありがたきお言葉ですが、兵は大丈夫なのですか」
「一日休めば大丈夫です。そうですな江戸中納言様」
「……うむ」
「決したようですな。では翌朝、佐和山に向けて進軍いたしましょう!」
忠勝は上機嫌であった。内心では厄介だと思っていた石田連合軍がよりにもよって大坂城から兵を脅し取ると言う大失態を犯してくれたおかげで、予想よりも簡単に倒せそうだと判断したからである。
そしてそれ以上に、自分の政治的思案がうまく行った事が忠勝の機嫌を良くしていた。本多正信などいなくとも、自分にだってこれだけの判断ができるのだ。この戦を最後に井伊直政もいなくなるが、自分がいれば十分である。
その事を家康に証明できると思うと、忠勝は浮かれずにはいられなかったのである。
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