第六章-2 衛士
「全く、どこまでも情けないお人ですな」
「おいおい、声が高いぞ」
「これは失礼」
徳川・福島連合軍七万五千が大垣城に集った七月二日、既に美濃に入っていた黒田如水は吉川広家と共に天幕で酒を飲んでいた。
「松尾山に陣取っていただきたい、か」
「松尾山の要地たる事、誰が見ても明らかなはず。それをお任せするとは…」
「何、ずっと戦を仕掛けずに待っておったのじゃろ、このために」
「まあ彼らも甘いなりに読みはしっかりしていましたからな」
「徳川内府殿も災難じゃのう」
「ですが何が徳川の中核を揺るがしたのやら、それがしには今一つわかりませぬ」
確かに福島連合軍三万だけなら自分たち六万で倒しに行っただろうが、徳川軍四万がこれに加わるとなると如水の力を借りないわけには行かない。その点では、徳川軍が福島連合軍に与する事を見越し、頭を下げて如水の力を借りに出た石田連合軍の判断は正しいと言える。
だがなぜ、福島連合軍を討つと思っていた徳川軍が百八十度出兵の目的を転換したのか、広家にはどうもわからなかった。
「本多佐渡守じゃよ」
「はあ?とっくに過去の人間になっていると思っておりましたが?」
「いいや、過去の人間などではない。現在も徳川の中に深く入り込んでおる。よいか、内府殿と本多佐州の付き合いは、わしらが考えるよりもずっと深いのじゃ。いや、江戸中納言や井伊兵部が考えるよりもずっとのう」
「でも内府殿は賢明なお方です。井伊兵部や本多中務が佐渡守の事を捨て去ってもらいたいと迫っている事を知り、それに応え捨て去ろうとしたはずでしょうに」
「佐渡守が殺されてからたかだか二ヵ月半だぞ。何十年の深い付き合いを二ヵ月半で断ち切れるはずがない。おそらく、溜息でも付いた拍子に内府殿は佐渡守の名を出し、その言葉を本多平八郎あたりが聞いたのじゃろう。無論、わしの読みは内府自ら出陣し、大夫らを討って潔白を証明する、じゃったがな。それで徳川の天下が来ると思うか?」
「…………………」
広家は如水の質問に対し沈黙をもって肯定に代えた。
「そうじゃろう。仮に徳川軍があっさり大夫らを打ち砕いた所で、せいぜい現在の関東六カ国を守る程度。そしてこれは推測の域を出んがその上で綱紀粛正のために何らかの措置を施さねばならんだろう。おそらくは井伊兵部あたりを斬るつもりだったのだろうな」
「しかしそれでは」
「そう、徳川の戦力はもはや崩壊だ。二度と天下を巡る機会など回って来んだろう。しかし内府殿にとってはもうそれでもよかったのだろう、他に現在の地位を保てる方法など存在せんからな。まあ忍の一字をお題目とする徳川家だ。内府殿の絵図ならばと井伊兵部も納得しただろう、本来ならばな…………」
「ですがそこに本多佐州が……」
「ああ、本多佐渡守がおれば内府殿にどんな知恵を授けたかわからん。あるいはここから逆転する手段を思い付いたかも知れぬ。本多佐渡がおれば、と内府ならずとも考えよう」
「すなわち、内府殿が佐渡守を頼りにした事、佐渡守がいれば天下も狙えたのにと諦めた事が許せなかったと……」
「そういう事だ」
広家は、如水に安芸で言われた「似た者同士」と言う言葉を思い出していた。
福島正則も本多忠勝も、主のことを大事に思う一途な武人。しかしその主の心は、鼻持ちならない軟弱な男に向いている。それがどうしても許せない。その主の心を引き戻すために、その軟弱な男に刃を向け、また向けた者を支持した。
すなわち、福島正則が三成暗殺後すぐに仲間たちと共に居城の清洲城に戻り兵を集め自分たちの行動を認めないなら籠城して戦う覚悟のある事を示したように、本多忠勝もまた本多正信を討った榊原康政に対し温情を施すことを嘆願し、また正信の影響を徳川より根絶すべく隠居を宣言して家康の側にはべり続け、そしてそこまでやってもまだ正信を忘れてくれない家康に対し最後通牒を突き付けたのだ。まさか家康の意志を踏みにじってまでそこまでの行動に出ないだろうと思い安芸ではその考えを否定した広家だったが、今の如水との会話でその考えを肯定せざるを得なくなった。
「さすが如水殿、天下を担うにふさわしいお方だ」
「わしを褒めても何も出んぞ」
「これは失礼」
大坂城に後藤又兵衛を人質として置いてからというもの、広家はまるで自分が如水軍団の副将であるかのような顔をして如水の側にへばりついていた。真っ先に如水軍への参戦を表明した立花宗茂、広家の主筋である毛利家の軍勢を率いている毛利秀元、戦場の経験が豊富な島津義弘と言った副将を名乗れそうな人物が全員それを黙認しているせいもあり、広家は堂々と大きな顔をしていた。
「そう言えば彼が使者として参ったのを見た時は驚きましたが」
「福島にも付いていけないが、かと言って素直に石田の味方もしたくないとなるとこれしかないのじゃろうな。日和見を決め込むにも日にちが経ちすぎたしな」
松尾山への陣張りを要請しにやって来たのは島左近でも舞兵庫でも、宇喜多家の明石全登でもなく、細川忠興本人であった。
「如水殿の絶縁状を手に入れてよりずっとその機会をうかがっていたが間に合わず、こうして」
「声が高いぞ」
広家は悪びれる様子もなく笑顔を作り、あの忠興が低姿勢で頭を下げまくる姿を思い出していた。まるで自分を含む諸侯が如水にひさまずく予行演習を見ているような気分に浸らせてくれた忠興が、広家は少しだけ気に入った。
「しかし如水殿も抜け目がない。あんな勇士を召抱えていたとは……」
その広家は唐突に物欲しげな顔をして、目線を天幕の外に立つ衛士と思しき男に向けた。
「一杯どうだ?」
その衛士は黙って首を横に振った。面頬を被ったその表情はうかがい知れないが、彼が並の人物でないことは少しでも修練を積んだ者ならすぐにわかった。
「如水殿、下世話な話ですがあの衛士の禄高はいかほどで」
「何、数日前に伊勢で拾った名もなき男じゃ。いくらわしでも急にそんな高禄は出せぬ。まあ妻子がおったゆえとりあえず十石ほど付けたが…」
「十石とは驚きですな。もしよければ千石、いや二千石で私が召抱えたいのですが」
「はははは、そう言うと思ったわ。だがわしもそんなに吝嗇ではない。此度の決戦で功績を挙げた暁には、万石取りにしてやる事も考えておるほどじゃ」
「いや失礼、さすが如水殿は太っ腹なお方ですな。千石などと言う小禄で如水殿の家臣を引き抜こうとした私が馬鹿でした」
「気にするな。今宵はもう遅い。そろそろ自分の天幕に戻られよ」
「では、そうさせていただきます。いやあ、初秋の夜風は気持ちがいいですなあ」
だいぶ飲んでいた広家は顔を赤くし上機嫌で如水の天幕を去って行った。広家が視界から消えたのを確認した如水は手招きをし、外で黙って立っている衛士を招き入れた。
「今度はお主と共に飲みたい。来い。これは命令だ、来い」
衛士は首を横に振ったが、如水はこれは命令だと言って強引にその衛士を先ほどまで広家がいた席に座らせた。如水は広家の半分以下の量しか飲んでいなかった事もあり、まださほど酔っていない。
「飲め。気後れする要などどこにもない」
「はあ……」
如水は構わずに盃に酒を注いだ。衛士は遠慮してなかなか口を付けないが、如水も付けようとしない。
そんなにらみ合いが五分近く続いたが、結局如水が折れて先に盃の中身を飲み干し、それを確認した衛士も面頬を外して口を付けた。
「ふふふ、おぬしの勝ちじゃ。大した男だのう。だが、わしが飲み干してからで良いからおぬしも飲め。これは主君の命令じゃぞ」
「光栄至極にございます」
「いやいや、そんなにかしこまる事でもあるまい」
如水は軽い調子で口を動かすが、衛士は酒を口に含みながらも顔を崩そうとせず、表情はまるでうかがい知れない。
「では畏まらずに聞かせていただきます」
「ほう」
「たかが衛士のこの身に万石を与えるなどとは……正直お考えがわかりませぬ」
「何、わしはそんなに贅沢のできる性分ではない、それだけじゃ、守山平太郎」
万石の価値がある人間を十石で使うなど才能の空費であり、そんなもったいない事などできないと言わんばかりである。守山平太郎は、ここに来て初めて動揺の表情を浮かべた。
「それがしが万石に値する奉公を成せるというのですか」
「当たり前じゃ。お前さんなら容易かろう」
「ですが不遜ながらお聞きいたしますが、我が君は自らがしていることがお分かりになっているのですか?」
「わかっておるよ。家臣と酒を酌み交わしている、じゃろ?」
「真面目に答えてください!」
「いや、わしはこれから治部少輔を暗殺した福島大夫や馬鹿息子、そしてそれに与した徳川軍を討ちに向かおうとしておるが」
「いい加減にしてください!」
とぼけた調子で会話を続ける如水に平太郎はうんざりした様子で机に置いていた面頬に手をかけ、天幕の外に投げ捨てた。面頬の音が鳴り響き、転がって空を見上げていた。
「我が君はそれがしの事を存じ上げていないわけではありますまい!」
「無論、存じておるよ。だからこそおぬしを召抱えたのじゃ」
「それは……それがしの望みと……」
「矛盾するか?まあ仕方がないじゃろう」
平太郎はやれやれと言った様子で面頬を拾い上げて天幕に戻り、再び顔にやった。
「わしも太閤殿下から人たらしと見なされた男。人の心をつかむためなら何でもするわ。無論、おぬしの心をつかむためにもな」
「口約束でないことを願います」
「手厳しいのう。まあ口約束を反故にして損を被るのは圧倒的に持ちかけたほうだしな」
「では、聞いていただけるのですね」
「ああ、約束しよう。ただ、約束を果たした暁には」
「こちらの約束も聞いてくれ、ですか」
「ああ、おぬしを万石取りにする。飲んでくれるな」
「はい」
平太郎と最後の一杯を酌み交わすと如水は床へと向かい、平太郎は無言で天幕の外に出た。
「いよいよ明日か……この国がどう動くか、楽しみじゃのう」
如水の声を受け取るかのように、虫の声が陣に響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます