第一章 絶縁状

第一章-1 混乱

 近江佐和山城に、すすり泣きの声があふれかえった。下は商家の小僧や足軽から上は佐和山の主石田三成が長子重家まで、誰もが主の突然の死を悲しんだ。


「おのれ大夫!何たる非道なやり方を……」

「討ち取るのならば他にいくらでも術があろうにもよりによって……」

「すぐさま兵を挙げ、治部少輔様の無念をば晴らそうぞ!」


 城内では当然の如く、仇討ちのために兵を挙げるべしと言う言葉が三成の遺臣の間から噴き出した。身分の上下も年齢の老若もない。皆が同じ気持ちだった。



「ならぬ」



 しかしただ一人のその言葉で、場の熱気は一気に冷めた。


「左近殿!なにゆえ……」

「この左近も、そなたらと同じく殿の仇を討ちたい。だが、今はまだならぬ」


 かつて三成に石高の半分を使って誘われた三成第一の家臣、島左近勝猛。その彼の言葉はまさに鶴の一声であった。


「確かに、治部少輔様の首を刎ねし福島大夫らは憎い。しかし、今大夫らを討とうとしてはならぬ」

「それではどうせよと!」

「我らと大夫が争い、一体誰が笑う……?」


 その言葉に、広間に集う者全てがはっとした表情に変わった。


「徳川家康……!」

「その通りだ。我らと大夫らが争う事、それは言うなれば豊臣家の内紛……その内紛を五大老筆頭の特権をもって抑える事に、何の障害があろう」


 三成は常日頃から秀吉と利家が死ねば、必ずや家康が天下を狙って動き出してくるであろうと。ここでもし兵を挙げれば当然正則らと干戈を交える事となり、必ずや家康が「五大老の特権」にかこつけてしゃしゃり出て来る。


「家康は喧嘩両成敗とばかりに我らと大夫ら両方を処罰する気だ!」

「いや、あるいは大夫の肩を持ち我らのみを除くやもしれん!」

「もしや、我らに加勢し、恩を売るつもりか!?」

「あるいは強引に和睦をすすめるやもしれん」


 その後の「結果」が、その場にいた四人の口から一斉に飛び出した。家康が四つの内どの手で来るのかは見当も付かない。しかし一つだけ確実な事は、どの結果になっても家康の力が更に増大する、と言う事だった。


「要するに我らが動けばどう転んでも家康を有利にする道しかないと言うことか…」

「悔しいがその通りだ」

「では我々はどうするのです?」

「……やむを得ん。備前中納言様や刑部少輔(大谷吉継)殿など親密な方には今動けば家康の思う壺だと言う旨を伝え、そうでない大名には大夫らの非道なやり方を伝えよう。今は味方を増やし、大夫らを孤立させるのだ」

「お待ちください!秀頼君と淀のお方様には……」

「今頃大夫らも自分の所業を正当化するための書状をお二方に送っていよう。無論我々も送るつもりだが……期待はしておらん」


 最高権力者たる両名にこそ書状を送り、我らの正当性を訴えるべきではないか、その当然と言うべき疑問に対し、左近は首を横に振った。



 現在の豊臣家は、秀頼の生母・淀君の独裁と言ってよい。当主・秀頼の生母の立場を振りかざし、大坂城と莫大な豊臣家の金銭を握りこみ、実際の政治は大老や奉行に任せきりにしている。

 そんな淀君にとって、今回の事件はおそらく豊臣家とは無関係な単なる内輪もめぐらいにしか映っていない。そうでないとすれば、自分の思考範囲外の事態の発生に、混乱を来たして思考停止状態に陥っている。

 いずれにせよ、豊臣家がこの事態に介入してくることは考えにくい。書状を送るのは、後者の場合に正則らの書状に淀君が引きずられるのを防ぐためである。もし前者なら、自分たちの書状も正則らの書状も右から左に流してしまうだけだろう。大坂城には秀頼の傅役である前田利長がいたが、淀殿を左右できる影響力はなかった。


「しかし……ここまで来るとやはり」

「家康が大夫らをけしかけていたと考えるのが自然だな」

「全く……我らが手を出せぬ事を見抜いて……」

「家康め……今頃はさぞ笑っておろう!」

 やはり家康は恐ろしい男だ。改めて石田家臣団はその事を痛切に実感した。




 ※※※※※※※※※




 しかし、島左近らの予想は、その大半が外れていた。もしたった今家康の顔を左近が見たら、仰天して腰を抜かすか、あからさまに演技と疑うかのどちらかだろう。


「大殿様、どうなさったのです」

「小平太、正直まずい状況になってしまったのだ」


 伏見城下の徳川屋敷で、徳川四天王の一人・榊原康政が心配そうな調子で家康に問いかけた。部屋には井伊直政・本多忠勝・大久保忠隣・本多正信と言った他の徳川の重臣も詰めている。

 康政に幼名で呼びかけた家康の顔は、全くもって沈鬱と呼ぶにふさわしかった。それが演技でない事は、ここにいる五人誰もがすぐわかった。


「ええ?治部少輔があのような死に方をした今、治部少輔の遺臣や親密な大名たちが必ずや大夫らを討たんとするはず。そうなれば」

「たわけ!そんな単純ではないわ!佐州」


 康政の、まもなく大乱が起き豊臣家は自滅する、そうなれば徳川の天下だと言う甘ったるい予測を家康は怒鳴りつけた。なぜだとばかりにあわておののく康政に説明するように、正信が滔々と語り出した。


「大殿様は治部少輔に兵を挙げさせたかったのだ」

「兵を?」

「無論、名目は豊臣家に歯向かう逆賊、徳川家康討伐としてな。まずは秀頼君を抑えている前田中納言を追い落とし、次に京で政治を握っている治部少を追い落とし、二人に徳川討伐の名目で兵を挙げさせ、これを成敗する。無論、秀頼君の命としてな。これが大殿様の描いた絵図でござった」


 正信の立て板に水の説明に、康政らは感心しつつも表情をしかめた。何が大殿様の絵図だ、自分が大殿様と一緒に描いた絵図なのだろう。その事を自慢したいのではないか、と言わんばかりの表情である。


「ところが、治部少輔は死んでしまった。これにより、治部少輔は兵を挙げる事ができなくなり、遺臣や親密な大名たちは三成の仇討ちと言う挙兵の絶好の名目を得てしまった」

「しかし、なればこそ好都合ではございますまいか。治部の遺臣らと大夫らが衝突した所を我らが調停すれば」

「それができればこんなに悩まん」


 島左近の予測通りの言葉を口にする康政に、家康はあらためて苛立ち気味に答えた。


「よいか。確かに徳川の力は強大だ。だが日の本は六十八ヵ国もある。徳川の領国は六ヵ国に過ぎないのだぞ。徳川が天下にのし上がる事、他の家の協力なくしては成り立たん」

「わかりませぬ。この騒動を鎮めれば徳川の力を認め我らの元に集う者も出ましょうに」

「するとやはり、大夫らを煽ったのは大殿様でしたか」


 康政の真っ正直な問いかけを切り捨てたのは井伊直政だった。えっと言う顔をした康政に、家康は溜息を付いた。


(全く、正直こんな男を家老にはしたくなかったのだが…………)



 徳川家臣団の内、井伊・本多・大久保・酒井・奥平などと言った辺りは三河及び遠江の豪族であり、政治の経験も豊富だった。しかし康政は単なる平侍で、彼が館林に十万石をもらって家老になっているのは秀吉の政治工作の結果である。

 秀吉と家康が小牧長久手の戦いの後に和睦した際、使者としてやってきた康政に、秀吉がいきなり式部大輔の官職を投げてよこしたのである。

 当時の康政の禄は二千五百石程度であり、秀吉のやった事は大名の陪臣の仕官は一万石以上から、という原則を完全に無視した行為である。

 それだけの官職を与えられた手前、家康もそれ相応の禄を用意しなければならなくなり、関東に移った当初は六万石、後秀吉の干渉で十万石を与えたのである。

 現在徳川家で一番禄が多いのは井伊直政で十二万石だが、康政はその直政に次ぎ、本多忠勝と並んで第二位である。そんな人間を重臣にしない訳にはいかない。

 康政は確かに戦場では徳川四天王の名に全く恥じない働き振りを見せるものの、政治の事となるとまるで役に立たない男であった。


「そうだ。それで逃げた治部少を佐和山に追いやり、京から引き離す……その算段だった」

「ここで大夫をかばえば徳川が大夫を煽り立てたという事を宣伝するも同然になってしまう事になる。そうなっては敵を増やすばかりだ。かと言って大夫らをここで見捨てれば何を言い出すかわからんぞ」


 もしここで家康が指示したなどと正則らが言い出せば、左近らはそれ見たことかとばかりに家康の非道を世に喧伝し、徳川はものすごい逆風にさらされることになるだろう。


「では両者が今ここで激突した際、徳川はどうすればよいのです」

「言いくるめるしかないだろうな。大夫辺りを生贄にして……」


 実際に三成の首を刎ねた福島正則に責任をかぶせ、他の者たちは国許での謹慎程度の微過を与えさせる。それがとりあえずの家康の計画だった。幸いというべきか、三成は死の間際にあたり、ほとんど何の抵抗もしなかった事がすでにわかっている。本当に三成の不正を弾劾するのなら何も首を斬る必要はない、捕らえればよかったのにそれをしなかった、と言う理由が付けば正則のみを生贄に他の武将を守る事は十分可能であろう。


「それで主計頭(加藤清正)らは納得しますか」

「福島家を守り、治部少の朝鮮での不正を示せば大丈夫であろう」


 三成は朝鮮で実際、親密な小西行長の肩ばかりを持ち、清正の事を悪く言っていた。それは三成の遺臣らも言い返せない、揺るがしがたい事実である。それが世間に認められれば小西行長も徐々に失脚に向かい、三成の「悪」を証明できた清正らもおそらくは満足するであろう。


「しかしここには正直いたくないな」

「はい、何せ奉行が暗殺されるような所でありますからな」

「すると江戸へ帰ると」

「お前たちだってこんな所にいたくはなかろう?」


 忠勝の問いに、それまで沈鬱だった家康の声色と表情まで明るくなり始めた。

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