第一章-3 蠢動
「使者はまだ戻って来ないか?予定は今日のはずだが……」
「はい、少々お待ちを」
家康が関東への帰途についている頃、とある城では城主が使者の帰りを待ちわびていた。
「あと半刻ほどかかるとの事です」
「そうか」
城主はいかにも待ちきれないと言った様子で、扇子を動かす手もせわしなかった。やがて使者が帰って来たと聞くや、矢も楯もたまらないと言った様子で自ら出迎えに行くほどであった。
「さあ、早速話を聞かせておくれ」
「殿、帰って来たばかりですぞ」
「すまん、どうも気が急いてな」
楽しみで待ちきれないと言った様子をあらわにしていた城主の元へ、使者は急いで身なりを整えて向かった。
「ご苦労であった。さて、如水殿の返事はどうであったかな?」
「はい、殿のご厚情に感謝いたす。朝鮮出兵で家内の疲弊が激しかったゆえ、此度の千石の飯米は誠に有難かったと」
如水とは、豊前中津の前領主、黒田官兵衛孝高である。本能寺にして織田信長が横死した際に、秀吉に信長の仇を討てば天下を手中に収められると進言し、他の場面でも秀吉を支え天下に導いた稀代の名軍師である。
だがその才を警戒され、遠く九州の豊前中津に追いやられ今は隠居の身となっていた。
「そうか。それで治部少輔暗殺の件についてはどうだった」
「何も答えることなく、こちらをそれがしに」
使者は懐から一枚の書状を取り出し、城主に手渡した。城主はさっと目を通すと、その書状を自分の懐にしまった。
「相わかった。そなたの尽力に感謝する。下がってよい」
使者を下がらせた城主はしばしの間、一人沈思黙考した。
(治部少輔暗殺……それだけでこのまま終わるはずはない。必ずや天下に大乱が巻き起こる……その際に勝つ方に味方せねば我ら小大名は仕舞いだ。乱が起これば必ずや内府殿の天下が来ると読んでいたのだが……)
城主は改めて書状を取り出し、目を通し、そしてまた考え込んだ。
(千石では足りぬかと思っておったが、如水翁がこれほど胸襟を開いてくれるとは予想外であった。ならば、ここは如水翁に乗った方が良いかもしれん。だが、如水翁以上に自分を高く売れそうな所が一ヶ所ある……そこに賭けてみるか。まあ、そこへ行っても如水翁への裏切りにはならぬしな)
城主は四半刻(三十分)にも及んだ長思案をやめ、力強く立ち上がった。
「誰か!」
「はっ」
「皆を呼べ!今後の方針について話したい事がある」
半刻後、重臣たちが大広間に揃った。
「皆、よく聞いて欲しい。これからしばらくわしは城を離れる」
そうして人をかき集めて置いてその上でいきなり放った高らかな城主の声に、大広間は一気にざわめき始めた。
「ど、どちらへ!?」
「松前でございますか?」
「松前ではない!岡山だ」
岡山。その場にいる誰もが予想し得なかった地名であった。岡山と言えば、五大老の一人である宇喜多秀家の居城である。
「……要するに、殿は治部少輔の遺臣に馳走なさると言う事なのですか!?」
「まあそういう事になるか」
「だからこの城を離れると……」
「そうだ。五百ほど供を連れて行く。後を頼むぞ」
「しかし何故岡山へ」
「私は岡山で賭けてみたいのだ、自分の力をもってな。一人の賭けにそなたらを付き合わせるのは気が引けるが、許して欲しい」
城主の力強い言葉に応えるように、重臣たちも力強くうなずいた。
「お前たちを路頭に迷わせる気はない。安心して待っていてくれ」
宇和島城主・藤堂高虎は家臣の前で高らかに岡山行きを宣言すると、ひそかに唇を固く結んだ。大坂にて武家屋敷に乗り込んだ福島正則よりずっとけわしく、そして厳しい顔をしたその彼の脳髄には秘策が駆け巡っていた。
※※※※※※※※※
「ほう、佐渡守が岡山へ」
「はい」
翌々日、如水は中津で佐渡守こと藤堂高虎が岡山へ向かったと言う報を受けていた。
「なるほどのう、宇喜多家に馳走するつもりか」
「如水様」
「ん?」
「恐れながら申し上げますが……」
「申せ」
「治部少輔殿の死を聞いた如水様がすぐさま書を認めたのは佐渡守殿に送るためだったのでしょうか……?」
如水の傍らにいた高虎が岡山へ向かった事を伝えた間者と思しき男は、恐る恐ると言った体をむき出しにしながら如水に問うた。
「見ておったのか」
「如水様の安全をお守りするのも我らの役目ゆえ」
「よい。続けよ」
「はっ。では、私が見た所では三通ほどお認めになったようですが……」
「あとの二通はどうしたか、か?」
「はい」
「一通は倅にやった。もう一通はさすがに教えられん」
「そ、そうですか。も、申し訳ありません」
「よかろう。下がってよいぞ」
「ははっ」
間者は恐縮しきった様子で下がって行った。
(わしも誤算を犯したかもしれんな……藤堂佐州ならばもう少し確実な道を行くと思っていたのだがな……)
藤堂高虎と言う男は稀代の世渡り上手であり、今まで幾度となく主を変えながら生き残ってきた男である。そんな男ならばもう少し確実な方、すなわち三成の遺臣に味方し藤堂高虎がついたならば勝つだろうと諸大名に思わせる、と言うやり方を取るだろうと如水は思っていたのだ。
(備前中納言は治部少輔とは親密だが家康の言葉に従ってしまった身。左近当たりの自重の勧めを受け入れての事だとは思うが今は当てになりにくい。藤堂佐州は宇喜多家の御家騒動を自分の手で鎮める算段だろうが……他家の御家騒動に首を突っ込むなど自殺行為だ。なぜあの慎重居士があんな賭けに出たのか……宇喜多家をまとめさせ、治部少輔に馳走させる態勢を作り上げさせるつもりなのだろうが……)
確かに、その結果宇喜多家がまとまり大戦が終われば、宇喜多家は高虎に頭が上がらなくなり、領土の加増も莫大なものになるだろうが、それにしても危険な決断であった。
(内府は誤算を誤算とは思っとらん、いや誤算ではあるが致命傷ではあるまいと見ているであろうな。だが所詮誤算は誤算、後で歪みが生まれて来る。家康、おぬしの誤算は致命傷かも知れんぞ)
黒田如水、五十三歳。秀吉に警戒されるに値する軍才と、秀吉と同じ人たらしの才、そして野心も兼ね備えた戦国の生き残りの目に、再び炎が燃え上がっていた。
※※※※※※※※※
「早く堀を整えよ!」
清洲城では城主の福島正則が激しい檄を飛ばしていた。正則は三成暗殺に成功するや否や、大坂を抜け出して他の六人を引き連れ自分の居城である清洲城に入り込んだのである。
「三成めの遺臣どもはやがて、己が主の罪を棚上げしてこの城に向かって来る!その時に備え用意を怠るな!よいか、今は戦中と思え!」
「市松、奴らは当分は向かって来ぬ。もう少し緩めてもよいだろうに」
「虎之助、こうやって迎撃の体勢を取る事が重要なのであろうが!これによって奴らを封じ込め、かつ秀頼君に我らの本気を示す事ができる!」
親友と言うべき加藤清正の言葉にも、正則は耳を貸さない。正則は清洲城の防備を固める事によって、三成の遺臣たちの攻撃の手を封じて三成の遺臣は主の仇も討てない臆病者揃いと世の中に喧伝し、かつもし我らの行動を認めないのなら清洲城に籠城して戦う覚悟があると言う事を豊臣家に見せ付ける、と言う二つの狙いがあった。
「それに三成に親密な備前中納言殿、同じく親密な直江山城を抱える会津中納言様は本国へ帰ってしまった。今三成の遺臣らが集められる兵はどうあがいても一万五千だろう。我らはそれを越える数の兵がここにいるのだぞ」
この時代の戦国大名は、領国一万石に付きおよそ二百五十人の兵を集める事ができるとされている。福島正則の領国は二十万石で、動員力の限界と言うべき五千の兵を清洲に集めている。
浅野幸長が十八万石で、池田輝政は正則と同じ二十万石。この二人は領国が清洲に近いため、八割近くの兵を清洲に集めていた。単純計算で、幸長が三千六百、輝政が四千。この時点で、兵力は一万二千六百に達していた。
さらに、黒田長政・加藤清正・加藤嘉明・蜂須賀家政の四名も兵を連れている。四名の石高を足せば七十万石近くになるが、領土が九州・四国にある上に、三成暗殺後当主が急に動員をかけたため、四人ともおよそ千人程度しか兵を連れていない。それでも、およそ一万七千の兵が清洲に集っている事になる。
これに対し、三成の遺臣がすぐさま集められる兵は、石田家が三成自身、兄正澄、父正継の領国を合わせておよそ二十四万石で六千、大谷吉継が五万石で千二百、長束正家がやはり五万石で千二百、増田長盛が十九万石で四千八百、合計一万三千二百である。小西行長は三成とは親密だったが、領国が九州にあり、朝鮮出兵で疲弊もひどく考慮に入れる必要はない。
「内大臣殿はどうなさるだろうか。数日前に帰国を申し入れ、今は信州にいるそうだ」
「あのお方は我らの事を良くご存知だ。必ずや三成を断罪してくれる」
黒田長政は家康の事を持ち出した。家康は東海道ではなく、あえて中山道を通って関東に戻っていた。東海道を通れば必ずや清洲を通らねばならず、傍観態勢でいる事は許されなくなるだろう。あくまでも政治的には中立態勢を崩さないという強かな算段である。
「お主の父の無念を晴らす好機でもあるぞ、長政」
「おう」
「申し上げます。黒田家より、母里太兵衛殿と名乗る方が参られました」
「何、母里太兵衛?」
「援軍を連れてきたのか?」
「いえ、如水様からの使者としてだそうで、供は数名です」
正則と長政が意気上がる、そんな折、母里太兵衛が使者として清州城へとやって来た。母里太兵衛と言えば、黒田家内でも後藤又兵衛と並び評される名将である。援軍ではなく使者としてと言う言葉に、正則は微妙にがっかりした。てっきり如水が援軍をよこしてくれたと思ったからだ。
「しかしその母里太兵衛がなぜ、国許で何か起こったか?」
「私が会おう。ここに呼んできてくれ」
長政の言葉を受け、使者は太兵衛を呼びに行った。
「甲斐守(黒田長政)様、母里太兵衛にございます」
「おう、それで、国で何か起こったのか?」
「いえ、お父君様からこちらの書状を甲斐守様にと」
たかがその程度の事に母里太兵衛をよこすとは如水殿は何を考えているのかと正則が呆れた事も知らず、太兵衛は懐から書状を取り出した。
「間違いなく父の花押だ」
長政は何気なくそう言いながら書状を開き、目を通し、そして固まった。
「どうした?まさか如水殿が亡くなられたとかか?」
正則の疑問にも、長政は何も答えない。正則は強引に長政の手から書状を奪い、そして長政同様に動かなくなった。
「如水殿は……我らを見捨てたと言うのか!?」
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