第三章 乱世再び

第三章-1 集約

「なぜでございますか!」

「すまん。わしとてそこまでの権限はないのだ……」


 慶長四(一五九九)年四月十九日、江戸城の大広間では徳川家当主徳川家康に対し、本多正信の長子である小姓頭、本多正純が縋る様な眼を向けながら嘆願していた。


「お前に館林の混乱を鎮めてもらいたいのだ。お前ならできよう……」


 つい先ほど、家康より榊原康政の居城であった館林城にて一万石を与えると言う命を受けた正純は愕然とした。

 当然、自分は父の居城である玉縄城を受け継ぐものだと思っていたからである。


「なぜ玉縄ではなく館林なのです!お役目に逆らう気は毛頭ございません!ですが」

「わしも甘く見ていたのよ。徳川家の世論と言う奴をな」

「父が死んで、長男がその領地を受け継ぐことの何が悪いのですか!」

「佐州があそこまで憎まれていたとはわしも予想外でな。お前に玉縄を与えれば、お前が佐州の地盤を丸々受け継いだと言われてしまう」


 家康は苦虫を嚙み潰したような顔で首を振りながら正純の請願を拒否した。


「大殿様、なぜです!なぜ榊原康政などに遠慮せねばならないのです!」

「その康政に対する支持もさる事ながら、佐州に対する反感が凄まじいのだ…そなたも見ているであろう、そなたの父の葬儀の惨状を」



 先日玉縄城で営まれた正信の葬儀に参列したのは身内を除けば数名に過ぎず、井伊直政や本多忠勝、大久保忠隣などは代理の使者さえ遣さなかった。また家康にとっては未確認情報ではあるが、直政や忠勝などが他の徳川の重臣に対し参列しないように呼びかけたとの噂も流れていた。その結果、参列者の数は二万石を取っていた重臣とは思えない程の少数であった。



「康政のような人物を武士として召し抱えたのは我が不覚であった、との言葉は偽りだったのですか!」

「では言おう。一昨日、本多忠勝が隠居したぞ」

「は?」

「榊原家が事実上断絶したことが気に入らなかったのよ、平八郎はな」

「それで抗議の意を込めて!?」

「それだけではない。当主でなくなってしまえばどこへ行こうと勝手だ」


 正純はどこへ行こうと勝手だという家康の言葉で忠勝の思惑の全てを悟り、全身から力が抜けたように崩れ落ちた。



「すると、自ら大殿様の側に侍り続け、それがしの政治への干渉を阻止しようと……」

「そうだ。今後わしがお前に相談しようとすれば、平八郎は康政の事を持ち出してそれに不服を唱える。康政が全てを捨ててわしに訴えたのは何だったのかとな」

「……それがしはどうすればよいのです」


 正純は目に涙を浮かべながら家康に縋り付いた。


「やむを得まい。しばらく館林にておとなしくしていてくれ。やがて天下より戦乱が消え、泰平のための制度を作る時が戻ってくれば平八郎らもわかってくれるであろう」

「…………はい……」

「…………………………………………弥八ろ」


 悄然としきった様子で家康の御前から下がって行った正純を見届けた家康は、思わず口から出たその言葉に慌てて口を塞いだ。


「それが家臣たちの総意ならばわしも応えぬ訳には行かぬ。家臣たちが忘れたい男ならばわしも忘れねばならぬ、か……」


 正信が殺されてから、家康はなるべく正信の事を考えないようにしていた。それが徳川の内部をまとめるのに最良の手段だったからである。

 だが、いくら家康がそう務めようとしても、日に一度はその名が口から出てしまう。


「それにしても、なぜ康政の動きが読めなかったのか……」


「腸の腐った男」と康政が正信を激しく非難していた事は家康も知っている。

 だが何がきっかけで、あんなにも突然に行動を起こしたのか。家康には全くわからなかった。




 家康は康政が島左近の間者に偽書を掴まされたことなど知らない。いや、直政も忠勝も康政が「服部半蔵の間者」から密書を受け取った事は知らない。

 両名以下、徳川の武官たちは康政の檄文に反応し、呼応して動いたのである。江戸城での忠勝と直政のやりとりも、いわゆる当意即妙の出まかせであった。普段演技などしない両名だけに、かえって凄まじいほどに信憑性があった。


「奉公構いが果たして正しかったのか……」


 死を覚悟している者に死を与えても苦しみは少ない。それぐらいならば武士として活躍する道を塞ぐ奉公構いの方が康政にとっては辛く苦しい罪であり、直政らも自分の怒りが本物である事を察してくれるだろうと家康は考えた。

 だが世間、特に自分を目の仇にしている石田三成の遺臣と仲間たちはそうは取らない。


「徳川家では重臣を殺しても命は取られないのだな。そんな家に天下を渡す事など絶対に許されない!」


 とでも喧伝するだろう。これだけでも家康にとってはかなり痛い。

 さらに、榊原家を断絶させた事に対し、本多忠勝が抗議の意を込めて突如隠居した。少なくとも自分に反感を持つ者たちはそう受け取り、世間にそう広めている。

 実際は家康の側に侍るための口実に過ぎないのだが、

「家康は武功派の家臣に阿って榊原康政を助命したが、武功派の筆頭であるはずの本多忠勝がその処分に合点せずそっぽを向いた。家康はまさに二兎を追い両方を逃した」

 その様に非難されるのは目に見えていた。



 かと言って、もし仮に康政を打ち首にし一族郎党も断罪していたら、忠勝や直政は自分たちの嘆願を無視するのかと抗議しただろう。

 そうなると綱紀粛正の為にまた誰か犠牲を出さなくてはならなくなり、その分だけ徳川の戦力と信望は低下する。だがしかし榊原家を残せば、同僚を私憤で殺した家を残すのかと世間から非難され、何より石田三成を殺めた福島正則らを見過ごしている現在の豊臣家と何も変わらなくなってしまう。豊臣家には当主が幼いと言う言い訳があったが徳川にはない。結果、家康の統治能力の低さが浮き彫りになるだけだろう。


 結局、どうやっても徳川家は「本多正信と榊原康政の喪失」以上の打撃を受ける事は免れなかったのである。それならば直政や忠勝の方を見据えて康政を助命し、かつ外を見据えて榊原家を取り潰す、その結果家康は奉公構いと言う処分にたどり着いたのである。


「康政の知名度に賭けるしかないか、ああまったく何と言う事だ……」


 徳川四天王の一人、世に名高き名将、武に全てを注ぎ込んだその性格、それがどれだけ世に伝わっているか。

 康政の性格を知る者ならば、奉公構いこそ彼にとって最も重い刑であると判断してくれるだろう。正直な所淡い期待ではあるが、それしか家康には思い付けなかった。

 こんな時正信がいてくれたらもっとうまく裁いてくれたろうに、その考えに家康がたどり着いてしまった事は一度や二度ではなかった。




 ※※※※※※※※※




「申し上げます!桑名の氏家行広殿がお味方したいとのご返事を返して参りました!」


 家康が江戸城で苦悩する中、石田三成の居城であった佐和山城には石田軍にお味方したいと求める使者が飛び込んでいた。


「うむ、それはありがたい」


 だが文字と裏腹に、石田家筆頭家老であり石田軍の総指揮官である島左近の声色と表情は冴えなかった。


「氏家殿は二万石の身代……戦力になるかどうか」

「美濃の大名の反応が悪いな」


 左近の傍らで溜息を付いているのは、三成の盟友である大谷吉継である。我先にと佐和山城に駆け付け、自分の病を避けなかった主のように接する左近らと共に対正則のために兵を集めていた。


「それにしても中村や堀尾が大夫らに加勢するとは……」

「まさか家康弾劾が裏目に出るとはな……」

「備前中納言様はいつ来られる?」

「あと五日ほどかかるとの事です」



 実はこの時、清洲城に籠城する福島正則らの兵力は二万を越えていた。駿河府中の中村一氏、遠江浜松の堀尾忠氏が正則に加勢する事を表明し、兵を率いて清洲城に駆け付けていたのである。

 さらに美濃の大名の反応が予想外に悪かった。美濃で最大の領国を持つ岐阜の織田秀信はいまだに何の返答もなく、兼山の森忠政や高松の徳永寿昌などは正則に味方する事を明言した書状を佐和山に送り付けて来た。

 現在、はっきりと石田軍に付く事を表明している美濃の大名は吉継と親しい平塚為広を始めとした三、四名である。



「徳川家康が豊臣家の天下を覆し次の天下を我が手中に治めようとする野望は既に明白である。

 先に家康は己が家の重臣を殺めた榊原康政に対し、斬首はおろか切腹すら命じなかった。これはすなわち、徳川が天下来たれば私憤で仲間を殺しても罰されぬ世になると言う事を意味している。

 もしかような世を望まぬのならば、佐和山に駆け付けてもらいたい」



 この檄文を記した左近は榊原康政の名を過小評価し、本多正信の名を過大評価していたと悔いていた。如水ははっきりと正信こそ徳川の屋台骨と断言し、三成や吉継もまた家康の簒奪を助ける最大の人物は正信であると自分たちに言っていた。

 だが世間の評価は違った。



「榊原式部は徳川四天王と称される天下にその名を知られし名将。

 一方本多佐渡は槍働きもまともにできぬ文弱の徒であり、かつ式部らを左遷させて徳川を手中に収めようと画策した奸臣である。その奸臣を、榊原式部は己が身代を犠牲にして成敗した。

 なのに治部少輔の遺臣とそれに与する者達は式部の挙を私憤と呼び、内府殿の処置を不当と言いふらしている。それこそが内府殿に対する私憤であり、許されざる暴挙である。かような世迷言、罷り通らせる訳にはいかぬ」



 正則は左近の檄文に対抗するかのごとく、こんな文書を各地に撒いていた。榊原康政は徳川四天王として日本全国にあまねく名を知られる猛将であり、一方で本多正信は世間的にあまりにも無名だった。

 そのあまねく名を知られる猛将がそこまでの挙をしたと言う事はそれなりの理由があるはずだと世間の者たちは考え、さらに本多忠勝や井伊直政と言った他の徳川家重臣が全面的に康政を支持しているとの情報を受けて、あの榊原康政がそこまでしたのにはやはり正当な理由があったのだ、だから家康は康政の命を守ったのだと考えた。


 現に家康は一人きりになった時はしょっちゅう正信の死を惜しむような言葉が口を付いているが、公共の場で正信を悼むような発言はしていない。本当に正信に殺されるような罪がないならば、はっきりと正信を悼むような発言をするだろう。それがないのは、やはり正信に何か罪があるのではないか。それが、正則に味方した者たちの想いであった。


「とにかく、まだ出兵はできぬ。少なくとも備前中納言様の兵を待たねば……」

「書状も撒き続けるか」

「ああ、筒井殿には特にな」

「だが筒井殿を動かすとなると、大和一国を保証せねばなるまい」

「うむ、厳しいですが仕方ないでしょう」


 筒井殿とは伊賀上野の筒井定次である。二十万石と言う石高も魅力であったが、何より筒井の名が魅力であった。筒井家の先代である筒井順慶は、かつて羽柴秀吉と明智光秀が天下を賭けて争った山崎の戦において羽柴方に付くべく洞ヶ峠に陣を構えたが、その事が日和見をしたと誤解された。

 それ以来、筒井家は日和見の家として天下に名が定まってしまったのである。

 だがそれだけに、筒井家が味方する事は二十万石を遥かに上回る影響力があった。筒井家が味方をすると言う事は、あの日和見の名人の家が戦における勝敗を見抜いた上での判断であり間違いはないだろうと判断して、味方に加わってくる大名が大勢現われる事は必至であった。


「だが筒井家もさる事ながら何としても味方に付けたいお方があと一人いる。例え阿波一国を差し上げてもな」

「阿波一国を?どなたにだ?」


 左近の言った阿波の国は三成暗殺に加担した蜂須賀家政の領土であり、戦後蜂須賀氏から取り上げて与える分には問題ない。しかし、吉継の近くで話を聞いていた増田長盛にはそこまでする必要のある人物は思い当たらなかった。



「山内対馬守殿です」



 山内対馬守一豊――――左近からその名を聞かされた長盛の目が泳いだ。

 確かに勇将ではあるが領国は六万石と小さく、さらにその位置も清洲から遠くない遠江掛川である。遠江横須賀の有馬豊氏や堀尾忠氏のようにとっくに正則らに加勢していてもおかしくないし、仮にここで石田軍への参加を表明すればその瞬間福島や堀尾、有馬から袋叩きにあう事は必至である。


「城を奪われても補給を我々で面倒を見ればよいのです。阿波一国と言うのは正直とりあえずで、それ以上に引き上げても一向に構わないと思っています」

「山内殿に何をさせる気だ」

「実は……」


 左近は吉継の耳元に口を持って行き、何かを囁いた。生前三成が吉継の鼻水が入った茶を平然と飲み干したような所業に、吉継は感激し長盛は息を飲んだ。


「……なるほど。わかった。早速対馬守殿に書状をしたためてくれ」

「承りました」


 納得した表情になった吉継に対し、長盛は首を捻ったままだった。

 とにかく吉継の了解を得た左近は、掛川の山内一豊に対し書状を送った。




 一豊が書状に応じる事を決意し、掛川を出立したのはその七日後の事である。


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