第六章-5 嘆息
「ああ、あああああ……!!」
正則の口から言葉にならない声が漏れ出した。
「正直に言おう。ここに来るまではまだ少しお主たちを信じる気持ちがあった。だがそれもたった今消え失せた!やはり、貴様らに豊臣家は任せられん!!」
黄金に輝く千成瓢箪の旗の下に立つは、織田信長の実弟織田長益(有楽斎)の次男、織田頼長であった。
豊臣家当主秀頼の母淀殿は信長の妹であるお市の子であったから頼長は淀殿の従兄弟であり、豊臣家の親族と言って差し支えない人物である。
「皆の者、今こそこの逆賊福島正則と、それに与する謀反人たちを討て!!」
頼長は大きな声を上げ、力強く右手の采配を振った。それと同時に風が吹き、千成瓢箪の旗を大きく揺らめかせた。まるで、豊臣家の力を見せ付けるかのように。
※※※※※※※※※
「なんと、豊臣家が我らを支持してくださると言うのか!」
「千成瓢箪の旗が我らの側に翻っているぞ!」
「皆の者、我らには秀頼様がついておる!もはや恐れる事など何もない!進めーっ!!」
千成瓢箪の旗は、石田連合軍の諸将にあふれんばかりの勇気をもたらした。
「何と……豊臣家の支持を正式に取り付けたというのか……」
「はい、これで我らは完全な官軍です!!」
「やった……!やったぞ……!!」
笹尾山の宇喜多秀家も、引き締めていた顔を思わず崩しそうになった。
「まさか、これほどまでの信頼を頂けるとは…………」
数日前、秀家は豊臣家の旗本が増援としてやって来ると言う報を藤堂高虎から聞いたが、その時にも余り期待する素振りを見せていなかった。
二千と言う増援の数量の少なさ、如水がそれ以上の三千の増援を取り付け、そして何より正則らが五七の桐の旗を見たぐらいで動揺するのか、など多数の不安があったのだ。
だがその不安は今全て、杞憂と化した。
「これで、如水殿も年貢の納め時でしょうな」
「如水軍は全部味方となるか!」
「はい、これで確実でしょう」
※※※※※※※※※
果たしてその通り、秀家と重臣が喜びあっている間に立花軍の西にいた島津義弘率いる中四国の大名たちは天満山に迫っていた奥平・蜂須賀・浅野などの軍勢に一斉に襲い掛かり、松尾山の東に陣取っていた毛利秀元・吉川広家率いる毛利勢は北で戦っている立花軍の救援に向かおうとしていた。
「出雲侍従(吉川広家)、早くしろ」
「はいはい……」
広家は仏頂面で準備を整えていた。
これでは完全に石田連合軍が主役ではないか。自分たちは脇役であり、功績は石田連合軍よりずっと少なくなるだろう。いや自分は功績など欲しくないが、如水の功績が大幅に削られるのは広家としては認めたくなかった。おそらく戦後の政権は宇喜多秀家を筆頭とする文治派や、その協力者である上杉景勝・伊達政宗に握られてしまう。如水の政権は来ない。
「諦めろ。如水殿もとっくに諦めているのだろうからな」
秀元の言葉の通り、如水は既に第三軍という立場を確立する野望を完全に諦めていた。諦めていないなら、引き続き立花軍だけを戦わせて様子見に徹するはずだからだ。それをせず島津や自分たちを徳川・福島連合軍の攻撃に使っていると言う事は、石田連合軍に完全に与したと言う事に他ならない。
いや同じ与するにしても、これでは自分たちのおかげで戦に勝利できたと、石田連合軍に対し大きな顔をしにくい。黒田如水軍は自分たちのおかげで勝敗を決したという立場ではなく、勝敗が定まってから味方したという立場になってしまったのだ。
「わかり申した。全軍、井伊兵部の軍を殲滅するぞ」
「早くしないと我々の功績を挙げる機会がなくなるぞ」
秀元はそう広家を促した。実際千成瓢箪の旗が掲げられた直後から、福島連合軍の将たちは恐怖と衝撃で壊乱し、それに巻き込まれた徳川軍も大混乱に陥り、更に今まで傍観していた黒田如水軍が敵となって向かってきたのだから、形勢は一気に傾いた。
※※※※※※※※※
石田連合軍は、どうやって千成瓢箪の旗を大坂城から引っ張り出したのだろうか。正則は無論、島左近も当初から豊臣家の墨付きをもらうにはどうしたらよいのかと言う思案を常に抱えていた。しかし幼少の秀頼と、この状況を一分も理解しているとは思えない淀殿から墨付きをもらう事は目の前の敵を破るよりずっと困難であり、実際正則は実質的に墨付きを得る事を放棄していた。石田連合軍を打ち負かせばその必要もないし、戦にも自信のあるこの男にとってはそちらの方がずっと楽に思えたからである。だが、左近は淀殿から墨付きを得る事を諦めていなかったのである。
大谷吉継が佐和山城に着陣した際、左近は何とかして淀殿を味方に引き込めないかどうか吉継に相談した。
「むぅ……それは難しいな……」
「やはりそうですか……」
「だが……手段はある」
「手段?」
「淀のお方様の権勢を考えるに……それは太閤殿下の側室という権勢ではなく、秀頼君の生母と言う所から発した権勢にあると思うのだ」
左近は一瞬吉継の平凡な返事に戸惑ったが、すぐに吉継の真意に気が付いた。
「なるほど、大夫らが勝てばその権勢が危ないと淀のお方様に思わせるのですか……」
「さすがだな」
「しかしどうやってそれを伝えるかが問題ですな。刑部殿、何かありませんか」
「高台院様の事だが……もし秀頼君がおらねば、誰か豊臣家を継ぐかの問題を含めて淀のお方様など問題にならぬ力を発揮すると思うのだが」
秀吉の正室である高台院ことおねは従一位の位階を持っており、従五位下と言われている淀殿とは比べ物にならない力を持っていた。
「すなわち、我らが負ければ高台院様の権勢が強まる、と伝える訳ですか」
「治部少輔殿は淀のお方様と親しく、大夫らは高台院様と親しかったはず」
「なるほど、さすが刑部殿」
「だが、」
「だが?」
「その工作を行うに適当な人物がいないのだ……今更我々が大坂城へは行けぬし。それにこの工作にはいささか時間がかかるのだ。いきなり我らが負ければ高台院様に秀頼君の後見の座を持って行かれる、と発言した所で淀のお方様が聞いてくれると思うか?」
「おそらくは慌てふためき何も理解されずに怒鳴り散らされて終了」
「だろうな。その上、徳川が控えていることを忘れてはならない。家康にとって高台院様はともかく、淀のお方様は扱いやすいお方。あるいはこれを機に我らに与し、豊臣家内の相討ちを狙いに来るかもしれない」
「すなわち、この上に徳川の危険も淀のお方様に教えられる人物でなければいけない……しかもある程度の時間をかけて」
「早くとも一月ぐらいはかかる。そんな人物が見当たらんのだ」
吉継にも左近にも、思い当たる節がなかった。そのため、一旦この話はお流れになっていたのだ。
だが左近はその後、吉継から言われた工作を任せられそうな一人の人物を見つけていた。
山内一豊の妻、千代————。
実直だけが取り柄と言われている夫を支える賢婦と名高い千代ならば、自分たちの真意を理解し、きちんと使命を果たしてくれるだろう。だがそれには、夫の生半ならぬ出世を保証する事が必要だった。千代にとってみれば、天下人の妻を相手にした一世一代の大勝負なのだから、それなりの報酬がなければ動いてはくれまい。
ましてや石田連合軍のために働くと言う事は、山内家の領国である掛川六万八千石は敵地真っ只中の中に放り込まれ、露と消え失せるのは必定であるという意味でもあるのだ。要するに山内家は一旦全てを失ってしまう。それを承知の上で自分たちのために働いてもらうには、一方ならぬ報酬では無理だろう。左近は最初阿波一国十八万石と吉継に言ったが、実際には二十万石の墨付きを千代に与えていた。
何より幸いだったのは、千代がこの左近の墨付きに対し即座に了承してくれた事だった。千代は三成が禄の半分を出してまで島左近を召抱えたと言う話を知っており、あの石田三成がそこまでの厚遇をするからには優秀な人物なのだろう、信じてもよいと判断し、左近と一豊に石田連合軍に味方する旨の書状を送ったのである。
三成とは親しくなかったが正則のやり方にも疑問を覚えていた一豊は当初迷っていたが、千代からの手紙を受け取り千代の決意の固さを知り、石田連合軍への参加を決めた。
その間に千代は大坂城に入り、淀殿の話し相手を勤めるようになった。千代は淀殿より十歳以上年上であり、その上一兵卒から成り上がって来た一豊の糟糠の妻である千代の話は淀殿にとっては新鮮であり、自然淀殿は千代を大事にするようになってきた。千代はその話の中にさりげなく高台院と正則ら、家康との昵懇振りを織り込んでいた。
そして、如水が広島城を出発した頃、千代は遂に動いた。
「夫が申しておりました。石田様の軍勢が敗れれば高台院様は福島様や徳川様と組み、秀頼君の後見の座を物にする事は間違いないと」
「な、なんと、どうすればよいのじゃ」
「淀のお方様のお力で、我々を勝たせて欲しいのです」
一月以上の付き合いですっかり千代を信頼していた淀殿は動揺しつつも、千代の話に耳を傾けた。
「わらわには戦のことはよくわからぬ」
「実は我が夫より、淀のお方様への書状をお預かりしておりました。此度の事をお話になる際には淀のお方様に見せるべしとの言葉を受けております」
そう言いながら千代は懐より書状を取り出し、淀殿に差し出した。
「千成瓢箪の旗を貸せ……桐紋では駄目なのか?」
「我が夫は福島様と領国が近いゆえ福島様の事をよく存じております。恐れながら福島様は石田様に対し一方ならぬ憎しみを抱いており、かつ自分のなさっている事を豊臣家のためであると言う事に一分の疑いも持たぬお方だと我が夫も申しておりました」
「すると何か、わらわが対馬守に桐紋の旗を持たせても、大夫は屈さぬと言うのかや!?」
「はい。福島様にとって、秀頼様と淀のお方様が自分たちを見捨てるなど世に存在してはならない事なのです……如水様が福島様と黒田様に送り付けた絶縁状を破棄しようとしたと言うお話も我が夫から聞いた事がございます……」
淀殿は千代の言葉を聞くたび、段々頭に血が上って来た。豊臣家当主、豊臣秀頼の母君である自分が何を言おうとも、豊臣家の忠臣を気取っている福島正則が耳を貸さないというのか。知らぬ間に千代に植え付けられて来た正則への憎悪が爆発した。
「許さぬ福島大夫!よかろう!千成瓢箪の旗を貸し与えようぞ!」
「お待ちください!その際に及んでの手はずについて書状に続きが記してありますゆえ」
「……相わかった、全てそなたら夫妻に頼る事としよう」
そして淀殿は、一豊と千代の言葉に従う事を決意した。
「誠にありがたきお言葉にございます。それで……」
「わかっておる。事が済んだ暁には褒美が欲しい、であろう?わらわに任せよ!必ずや対馬守に厚賞を与えようぞ!では下がってよい」
千代が去った大坂城本丸には高笑いが響いていた。
そしてその高笑いの主こと淀殿は一豊の書状に従い豊臣家の親族である織田頼長に二千の旗本を率いさせ密かに千成瓢箪の旗を預け、そして七手組の速水守久に三千の兵を預けさせ黒田如水に同行させたのである。
その後、福島正則が石田連合軍が淀殿から兵を脅し取ったと言いふらしている事を知った淀殿の、正則に対する憎悪と一豊・千代に対する信頼はますます高まった。
もちろん、「一豊の書状」を書いたのは一豊ではない。島左近と大谷吉継が書き下ろしていた原稿の通りに、一豊に書かせただけである。だが知将として知られる左近や吉継より、愚直と言われる一豊が書いたほうがかえって重みがあった。めったに口を開かない人間の言葉の方が、多弁な人間の言葉よりよっぽど重みがある様にである。
※※※※※※※※※
「はっはっはっは。島左近、天晴れなり!」
「治部少輔め、いい家臣を持ったのう。この果報者め!」
千成瓢箪の旗が風になびいた直後、丸山と松尾山から同時に高笑いが聞こえてきた。
伊達政宗も黒田如水も、一瞬で全てを察したのだ。
「これで全ての疑問が氷解したわ!延々二ヶ月、まともな戦もせず長滞陣していたのも全てはここへ持ってくるためだったのだな!」
実際、千代が淀殿の懐に入ってから淀殿を石田連合軍支持の方向に持って行くまで一ヶ月以上の時を要している。それまでの間に、せっかく佐和山にたどり着いた一豊に万が一の事があったら、千代の協力を取り付けることは不可能になってしまう。
かと言って、一豊の兵だけ動かさないと言う訳にも行かない。そうすれば他の将から不満が噴出するし、相手に何か理由があるのではないかと読まれてしまう危険性もあった。だから二ヶ月間の間ほとんど戦を行わず、ただ一度のまともな戦も宇喜多・藤堂・大谷と言った当初より参戦していた将たちだけを使っていたのだ。
「治部少輔……おぬしの勝ちじゃ。どうやらわしも家康と同じように自分の誤算を甘く見ておったようだな……まあよい。おぬしに従ってやろう。全軍!これより我らは、石田連合軍に味方する!進め、徳川・福島連合軍を討てい!」
如水もまた、江戸城の家康と同じように敗北宣言を唱えた。そして如水の顔にもまた、一片の曇りも存在しなかった。石田三成という人物の才智に惚れ、また賢臣を見つけ優遇する度量に感服したからである。
一方、丸山の東にいた政宗も隻眼を細めていた。
「石田治部少輔!そなたは天下第一の幸せ者よな!そなたのために家臣や盟友のみならず、天下の黒田如水や鬼島津、この独眼竜が戦ってくれているのだからな!それも全てそなたの才智とそなたが見出した優秀なる家臣たちのおかげよ!」
生前の三成とは縁の薄かった政宗だったが、かえってそれ故に三成の才能に素直に感嘆できていた。
「まもなく上杉勢は敵を突破できるだろう。そうなれば我が前面も開く!」
政宗の前面にいた徳川勢はさすがにしぶとかったが、上杉の前面にいた加藤清正、池田輝政は共に動揺がひどいはずであり、上杉軍に突破されるのは時間の問題だった。そうなれば上杉軍を何とかするために前面にいる徳川軍も動かねばならないはずだ。
「進め進め!今そこに、莫大な功名が転がっているぞ!!」
満面の笑みを浮かべながら兵を督戦していた政宗であったが、しかしその顔から突然笑みが消えた。
「…………すまん、前言を撤回させてくれ。治部少輔は天下一の不幸者よな……」
そして、ほぼ同じタイミングで如水の顔からも笑みが消え、心底情けないという表情に変わっていた。
「…………まったく、天下無双の臆病者どころではないわ。天下無双の痴れ者よな」
本来ならば彼らは、もう後には引けないとばかりに構わず突撃すべきだった。
いや、ここでそれを望むのは酷だとしても、せめて整然と退却すべきだった。
もっとも福島連合軍全体が本人以下あれほどの混乱状態に陥っているのだから、軍勢がバラバラになり壊乱しても仕方がないとしか思われなかっただろう。
福島軍の黒地に山道の軍旗は、目標に向けて一糸乱れることなく行動していたのである―――――――――――――――大久保忠隣率いる徳川軍に向けて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます