008 エピローグ

36 ピンクのキス

「おはよう」


 早朝、俺は、自室から居間に降りて行った。

 どうも長く寝過ぎたようだ。

 頭が重い。

 久し振りに、津軽は研ぎ出し塗りのテーブルについた。

 母さんがお盆にお茶を運んで来た。

 ああ、父さんにだな。


「母さん、俺もお茶が欲しいな。とか、甘えたりして」


 父さんは、新聞を畳んで、お茶をいただく。

 テレビのリモコンなどを母さんが渡している。


「あー。今日は管弦の朝練なの。私、トースト食べたらもう出るね」


 あれ?

 いつから優花が化粧を覚えたのだろう。

 優花が大学生の頃に会って以来だな。

 似合うから、いいか。


「優花か。おはようございます」


「おはようございます。優花さん」


 父さんも母さんもお堅いな。

 そうだ。

 俺には、朝の挨拶もお茶もないし、どうしたのだろうか。


「では、行って来まーす!」


 玄関から門扉を抜けて、優花が行ってしまった。

 俺は、話し掛けようと、続いた。


「優花。俺だよ。直人だよ。父さんと母さんはどうしたの?」


「あはは。おはよう、しいちゃん」


 何だ。

 友達に挨拶したのか。


「もう直ぐ五月の連休だね。何処かに行くの? 優ちゃんは」


「うん、富士山の方に行こうって話になっているの」


「へえー。楽しみだね」


 富士山だって?

 やはり俺を捜しに行くのかな?

 俺は、これ以上、優花の話を聞くのをやめた。


「まあ。ニートを脱して家を出たのだから、暫く歩くか。朝の靄も気持ちがいい」


 ふと、靄の中、二本目の電柱に誰かがいるのが見えた。

 シルエットで長い髪を揺らして。

 ワンピースの裾を翻す。

 ある筈もない風を一点に身に纏ったようだ。


 俺の一瞬が全て彼女に注がれた。

 緊張して、真ん中の電柱まで歩む。

 向こうからもこちらへ来る。


「おおお、おはようございます」


 俺は、それしか言えなかった。

 しかも、俯いたまま。


「おはようございます! 大神直人さん……!」


 俺のことを大神直人さんと呼ぶ人はただ一人。

 そして、生真面目な声色に聞き覚えがある。


 ああ。

 これ程に感動というものが押し寄せて来ていいものだろうか。

 彼女は、まさしく、あのニャートリーの生まれ変わりに違いない。

 ピンクの波紋が彼女の周りを彩っている。


「俺は、抱き締めたかった。キミを」


 彼女はこくりと頷く。

 背中に腕を回し、ゆっくりと輪を作る。

 そのまま、ゆるやかに彼女を俺のものにする。


「梅の香が、この季節にするのは――」


 ……キミのせいなんだね。



 それから、俺達はピンクのキスをした。


 長い長いキスの後、涙を拭い合った。


「何て呼んだらいいのかな?」


「ニャートリーでもいいですよ」


 茶目っ気たっぷりにウインクをされると、どうしようかと思う。

 しかし、ニャートリーがしっくりくるのは、このピンクのキスのせいか……。



 ◇◇◇


 俺達は、暫く歩いて、小さな公園に着いた。

 そこのブランコは少し濡れていたが、空は晴れ上がっていた。


「よかったら、一緒に座らないか?」


「喜んで!」


 俺が、チェックのハンカチをブランコの板に敷く。

 すると、彼女は俺の方にピンクのハンカチを三枚もくれた。

 レース編みだからって。

 俺が堪え切れずに笑い出す。


「何の茸を食べたのですか」


 流石はニャートリーが前世だっただけある。


 ――暫く二人で、ブランコに揺れていた。

 ときに、手を繋ぎ、ときに、お互いの顔を見つめ合った。

 それ以上のことはもう望むべきではないと、幸せに浸る。


「一つだけ思い残したことがあるのだが。これからは、仕事に向き合いたい。その旨を伝えに家族に会いたいのだけれども、そんな虫のいい話はないよな?」


 ニャートリーが立ち上がった。

 残されたブランコは大きく軋む。


「ありますよ。簡単です。大神直人さんの自室にあるゲームを全てオフにすれば大丈夫です」


 俺は、無茶な願いをしたと思ったが、そんなことだとは。

 あっけらかんとしてしまった。

 これからは、程々の真面目に戻ろう。


 ――ちゅっ。


「え?」


 ちゅ。


「ええ?」


 ちゅっちゅっ。


「あ、あの。さっきから、キスが多いのですが。皆、見てますって! ぷはあっ」


「今は、半分魂だから、大丈夫ですよ」


「あ、いや。俺が恥ずかしい」


「もう、ピンクに彩られてください」


「ピンクまみれだよ……!」


 JKファームは花咲いたな。

 ぽつりぽつりと沢山の花が。

 でも、恋はだめだ。

 今思えば、あれはゲームの世界だった。

 一人、本物の女神様から本当の彼女になってくれる人がいる。

 俺には、可愛い彼女がいる。


 俺が存在していい訳は、優しい彼女がいてくれるから。

 彼女が隣にいなかったら、俺は富士の麓で消えていただろう。


 だから、ニャートリー。

 俺の話を聞いて。


 梅の花が咲いている間だけではなく、夢で終わらせたくない。

 こんな俺だけれども、幸せにしたいと思う。


 どうしたら、幸せにできるかも分からないけれど。

 こうして煌めくニャートリーがどうしようもなく愛おしい。


 ん?

 おい、上目遣いに何か企んでいないか?


「だめん」


「ニャートリー! 性格変わったか?」


「ニャニャ。だめん」


「俺は、もう――」


 ――ピンクのキスに目眩を覚えた。













Fin.

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