第三十話

 結局、拳銃は捨てる事ができなかった。ロゴや識別番号はおろか安全装置も付いていない。まして素性も明らかではない浮浪者から肉に包まれ手渡された得体の知れない拳銃だと言うのに。あれからよく観察してみたが、弾に使われている紙は表面から断片的に読み取れる単語や文章の限り、全て古典作品の一節が引用されているらしかった。恐らく当該のページをそのまま利用しているのだろう。本から破り取ったような跡が所々に見受けられたが、まさかそれを固めて弾丸にするなど余りにも奇妙に過ぎる。何よりこの新しい国では私人の銃器刀剣類の所有は許可されていなかった。紙で作られた弾丸など聞いた事が無いから子どものおもちゃである可能性も否めないが、拳銃の方は本物同然に機構がしっかりしていた。だからこそ、これらが子どもの扱う代物ではないと直感的に分かるのは、両方ともその作りの異様なまでの精巧さにあったのだ。たとえおもちゃだとしてもヴィズドムィと相対するかもしれない手前はったりくらいにはなる。弾倉にぴったり六発込める事ができた。

 登山の準備は市内のアウトドア用品店でレンタルされている物を借りる事にした。そこの店主から言われて知った事だが、ジラント連山はハイキングコースが新しく開通したらしく、観光客向けにレンタル登山具を取り扱う店が多いのだと言われた。ルートは山の中腹までで、戦争中に基地と麓とを往来する為に利用されていた旧道らしい。山頂までの登山道よりは遥かに登りやすいと聞いた。途中で道は外れるが村までの距離もさほど離れておらず、まさに願ったり叶ったりだった。

 私たちは一日だけ麓近くの宿屋に宿泊し、次の日の早朝には出発した。素人の雪山登山で不安がっているエリューシュカだったが、私が登攀調査の際にその手のスキルを嫌になるほど手伝わされた事を話すと、苦い顔をしながらも笑ってくれた。それからハイキングコースの入口を潜った。

 村への道中、天候は曇りでいつ雪が降ってもおかしくなく、さらに雪は脛の位置まで厚く積もっていた。岩場も多いと記憶しているこの山では足元に充分注意するようにと声に出した矢先、ストックの刺す位置を誤ったらしい彼女が短い悲鳴を上げながら前のめりにバランスを崩し、先導する私の背嚢に頭をぶつけた。ハイキングコースはまだ平気だが道を外れてから村までの道のりでは命取りになると告げると、彼女は額を擦りながら大きく頷いた。彼女は勿論私とて決して慣れている状況ではないのだ。

 小一時間ほど登った所で平たく開けた場所があったので休憩する事にした。バーナーで温めた湯をインスタントココアを入れたマグに入れるとすぐに出来上がる。火傷しない温度になるまで待ち、二人して口を付けた。喉から胃へ通り抜けるココアが途端に体を温めてくれるのが分かった。

「ねえおじさん」ふとエリューシュカが私を呼んだ。反応して顔を上げると彼女がこちらを見ていた。「フェリクスおじさんにもし会えたら、おじさんどうするの」

「まずはニューシャの居場所を聞く。それからどうして私ではなく私の仲間を狙ったのかを問い質す。彼を捕まえて警察に突き出す」答えを聞いた彼女は黙っていた。代わりにココアを一口飲んだ。「何故そんな事を聞くんだ」

「おじさんはやりたい事あってフェリクスおじさんを追ってるけど、あたしは、おじさんに会った時にどうしたらいいのか分かんなくて」

「君はニューシャが彼のせいでいなくなったかもしれない事をどう思うんだ」

 反射的に心にも無い言葉が出てしまった。眉間に皺を寄せた彼女が言った。

「それってあたしがフェリクスおじさんに何かしろって言ってるの?」

 それを言い返されてしまい咄嗟に言葉に詰まる。子どもだからと過激な事は言うまいとしてきたが、これでは彼女に私刑を促しているようにも取られても仕方無い。

「君をここに連れて来た責任は私にある。だが、君も何かをしたいから私に付いて来たんだろう。刑事の言う通り警察に保護されていた方が安全な筈だった。少なくとも警察としての彼らはそれを望んでいた。君はそれを拒んだ。当の君自身からも、もうその質問はするなとも言われた」

 彼女は黙っていた。如何に子どもと言えど目的無しにここまで付いて来る訳が無かった。

「街を出たフェリクスを警察は追わないと告げられた君にも、やはり納得のいかない部分があっただろう。君も彼に会って真意を問いたいに違い無い。或いはもっと別の何か、警察にもできないような事を。他人がやってくれないものは自分がやるしか無いものさ。君はそれを分かっているが、では何をすれば良いのかまでは分からない。方法が思い浮かばないんだ」

 私は私のするべき事が分かっている。彼を見つけ、説得し、捕らえて警察に突き出す。ラビリンスク以外では前科の存在しない、それどころか旧R国で警察官としても仕えた経歴のあるらしい彼の行いはもしかしたら罪にすら問われないかもしれない。反対に素性がほぼ不明で血の繋がりも無い子どもを連れた私如きの弁明など、妄想に憑かれた者の虚言として一笑に付されるかもしれない。もしくはこんな青臭い理想や浅はかな思考など現実は丸っきり引っくり返して、トリグラフ作戦に関わった者のひとりとして私が収容所送りにされ、彼は執念深く私を探し出した者として英雄視されるかもしれない。私は私のするべき事が明白に分かっている。しかし奇妙な事に、その結果がどう転ぶかまでは私にさえ分からないのだ。もし知っている者がいるとしたら、それは常に一歩先をゆくヴィズドムィだけかもしれない。

「村に着くまでによく考えるといい。だが考えるのはそこまでだ。村に着いたら考える暇は無いかもしれない」

 彼女はその言葉にも黙っていた。

 ココアを飲み終えた私たちはまた村への道程を歩み始めた。その間も私は考える。もし、ヴィズドムィが本当に私たちの想像の一歩先をゆく存在なら、その裏をかかねばならないと。しかし同時にこうも考える。私の想像を引っくり返すのが無情な現実であるなら彼こそがこの奇妙な現実の体現者に他ならず、長い間私のささやかな願いの陰に身を潜め、今まさに数々の非情な行いによって尽く夢想を打ち砕く存在であったのではないか。少なくとも平穏無事に生きていきたいとしがない虚仮を纏ってきた私などには、到底太刀打ちできないのではないか。私が彼のベールを明かしてやったのではなく、私が彼によって化けを皮を剥がされようとしている。人を殺めるほどの怒りと憎しみの端緒は彼にあるのではなく、この村にやって来た、遠い日の私にある──。

 かくして私たちは村に着いた。住む人を失ったまま点在する家々が吹き曝しに遭い、朽ち落ちた屋根が辛うじて見えるほどすっかり雪に覆われてしまっていた。記憶にある村は緑に覆われ生き生きとした活力に溢れていた印象だったが、実際目の前に凍り付いた現実として立ち現れると戸惑いを覚えるばかりで、空も鉛色に色褪せて幾許かの郷愁も与えてはくれない。この数十年の時の流れで村は確かに衰え、そうして人間不在に相応しい姿へと変貌した。

 エリューシュカがふと山のさらに上の方へ指をさした。彼女の家がある方だった。遠目だがよく見るとその家だけは今も朽ちずに構えられており、しかも煙突から白い煙が立ち昇っていた。この状況にあって蝋燭の灯火のように慎ましやかに感じられる明らかな人の存在。私は腰に下げていた拳銃を取りだした。彼女を手招きしてそれを見せる。困惑した表情が露になった。

「それ本物?」

「分からない。何かあったらこれで身を守れ」

「あたしこんなの、使い方分かんないよ」

「両手で握って引き金には指を掛けず、銃口を相手に向けるだけでいい。こうやってしっかり持つんだ」

 身振り手振りで持ち方を教えてやると僅かに自信が付いたのか困惑した表情は払拭された。これで少なくとも相手を警戒させる事はできるだろう。

「それで、君にひとつ念押ししたい事がある」

「ん、何」

 私はエリューシュカに耳を貸すよう言った。短く耳打ちして顔を離すと彼女は不安げに顔を歪ませ拳銃を見やった。「そんな事できない」と。しかし私は首を振った。

「二度の死はありえないが、一度は避けられない。これは賭け事じゃない。大丈夫、一発目はすぐには撃てないよ」

 そう言うと彼女は意を決して拳銃を懐にしまった。上で煙をくゆらせている家にはまず間違い無くヴィズドムィが待ち構え、何らかの計略を目論んで鎮座しているだろう。もはや何があってもおかしくは無い。私たちは再び気を取り直して上へと足を進ませた。

 家の近くまで行った所で有り得ないものが目に映った。私の背丈の三倍はありそうな青々とした一本の樹木が、半透明のビニールを掛けられ家の傍らに生えていた。楕円形の葉とビニールを掛けていても溢れ出る甘く爽やかな香気は月桂樹。そこは以前、彼女が丹精込めて育てていた花の花壇があった所だった。ビニールの一箇所からはホースが伸び、その先には温度が自動設定されたヒーターと自家発電機が稼働していた。どうやらここに暮らして日は長いらしい。それも恐らくは数十年の歳月が経っている。そして、さらにその樹の向こう側は土が掘り返されたのか大きな黒い穴がぽっかりと空いていた。一瞬夢の中に迷い込んだかと目を疑ったが、「おじさん、平気?」エリューシュカの問い掛けで意識を引き戻された。「大丈夫」

 エリューシュカを後ろにやり私が扉に手を掛けた。何度か深呼吸して身構えながらノブを回し、足を踏み入れた先には、ひとつ人影があった。

「……ヤナ」

 それはかつての、彼女の姿だった。

 カスタード色が色褪せたワンピースに身を包み、麻縄の首飾りに全体重を掛けて梁にぶら下がる、あの時の姿で。

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