第二十一話

 別室にはルス警部やユラ警部補のみならず他の警官が待機しており、部屋内での私たちの会話は全て録音されるようになっていると彼女から伝えられた。本来なら口外厳禁の内容だったらしいが、これもまた自身の信念に従ったまでだと言う。無論それを見越して筆談用のノートと筆記具、勉学のためと言い逃れるための昆虫図鑑を持ってきた訳だが、彼女の言葉を聞くにその判断は正しかったようだ。

 部屋の前には警官二名が番兵のようにいかめしい顔付きで立っていた。支配人が会話を交わすとすぐに彼らはその場を退き通路の向こうへと消えて行く。軽くノックすると中から彼女の声が聞こえた。「誰?」

「エリューシュカ様、セルゲイ様をお連れ致しました」

「エリューシュカ、開けてくれないか」

 私も声を掛けてやるとゆっくりと僅かに扉が開いた。向こうから恐る恐る顔を覗かせてくれた彼女は目が赤らんで腫れぼったくなっていた。気休めになるかと微笑むと、その表情にも笑みが零れた。

「おじさん、来てくれたんだ」

「当然だ。放ってはおけない」

 それから私は支配人に断わってから部屋へと入った。部屋の中に護衛はおらず、カーテンは閉め切られベッドライトが照らされるばかりで薄暗い。ホテルが用意したらしい昼食もあったが殆ど手を付けられておらず、ハンバーガーやピザといったファストフードの紙屑、冷凍食品やスナック菓子の食べ残し、炭酸飲料のペットボトルなどがゴミ箱から溢れ出す程詰め込まれていた。腹に食べ物を入れる事はできていると見たがどうにも体に悪そうなものばかりなのが気掛かりだ。それに、保護されてからの物と考えると明らかに量も多い。

「ホテルから出された食事は食べないのか」

 そのまま放置された料理に目を向けながら尋ねると返答は意外なものだった。

「ホテルの料理、なんか味気無いんだよね」

 濃い味じゃないと食べた気にならなくて、と言う彼女の言葉に「ニューシャの手料理も味気無かったのか」と続けて訊くと「ううん、ママのは普通だったよ。美味しかった、すごく」

 テーブルの料理を一瞥し、味見してもいいかと聞きぞんざいな承諾を得て、私は立ったままナイフとフォークに手を伸ばした。燻製シマアジを使用したマリネやローストされた鴨肉の無花果ソース添えを一口ずつ味わったが、素材の味やソース含め特に味が薄いようには感じられない。好みの食べ物なら際限無く食べるエリューシュカとて今回の件は精神的に相当堪えているに違い無い。

 それからエリューシュカは自らアメニティの高級茶葉を淹れ私の前に差し出した。窓際の小スペースに置かれたテーブルを挟みソファに腰掛けるとラビリンスク市街が一望できた。室内の薄暗さから抜けたおかげで雲ひとつ無い晴れやかな空が目に眩しく飛び込んだ。

「エリューシュカ」

「ん、何」

「今回の事は辛いと思う。酷い死体を見たりニューシャが居なくなったり、これからどうするべきか混乱しているとも思う。せめて気を強く持って欲しい」

 私はエリューシュカに励ましの言葉を贈った。しかし、彼女は私の方など目もくれず膝を抱える小さな姿勢でソファに座り「うん、大丈夫だからおじさんこそ気にしないで」と携帯端末を弄り始める。可能ならば彼女も事件の事には触れたくないだろうが、これは私にとっても重要な事だ。「なあ」と意を決してその言葉を口にした。

「できれば事件の事を詳しく教えて欲しい。できれば、だが」

 弄る手をぴたりと止め途端に眉間に深い皺を寄せ「何それ。警察の人に頼まれて協力してるの?」と険しい視線を向けてきた。私は「いや」と姿勢を改めて彼女に向けて言い「君の事が心配だからだ。これでも以前ニューシャから君の事をよろしく頼むように言われていてね」と彼女の目を見て答えた。

「ママ、そんな事言ってたんだ」と呟く彼女に私は携行して来たノートと筆記具、念の為に昆虫図鑑をテーブル上に取り出した。ノートを開いてペンを取り出し彼女にも一本手渡す。ここからは適当な会話で間を持たせながら筆談でやり取りをする、その旨をノートに走り書き彼女に見せた。険しかった視線に猜疑心が混じる。「仮にニューシャが見つかっても家に戻るには時間がかかるだろう。彼女に殺人の容疑が掛かっている。事情聴取もあるだろうし君の生活を誰かが見守らなければならない。どうだろう、私の元では不満があるか?」

 これは簡単な決断ではないだろうが、私と一緒にラビリンスクここから逃げ出す気は無いか?

 そう書くとエリューシュカの顔がにわかに驚きに満ちた。無理も無い。ニューシャの所在すら不確定な現時点でラビリンスクを脱出するなど到底理解が及ばない筈だ。案の定、この言葉を見せたエリューシュカはしばらく固まっていたが、適当な会話で間を持たせるという筆記に素早く視線を巡らせた。ノートにもペンを走らせる。

「でも迷惑じゃない? それに学校もあるし──家空けておくのも心配だよ」そんなのここで決められる? 何考えてるの?

「警察の保護下にあるし、私を後見人として君が役所に届け出れば誘拐などと後ろ指さされる事も無いだろう。実のところ君の家事能力を怪しんでもいるんだ。掃除炊事洗濯、きちんと一人でこなせるのか」君の宿で殺された男は私の友人だった。他にも親友が殺害されている。フェリクス、ホームレス男が来てから立て続けに友人二人を。証拠は無いが君も狙われているかも、一人にはしておけない。

 それを見たエリューシュカの表情がみるみる青ざめ、ペンを持つ手は震えているのがはっきりと分かった。少し性急に話を進め過ぎたと思い、それとなく話を逸らす。「そうだ。エリューシュカのために図書館博物館で昆虫図鑑を持ってきたんだ。ここに缶詰めだとさぞかし退屈だろうと思って」しかし、私の言葉に彼女は口は開かず、そのままノートに乱暴に書いて突き出して来た。

「家事も勉強もする気無い。ここならテレビもスマホもパソコンもあるし退屈なんかしてないっての」冗談言わないで。フェリクスおじさんが人殺しな訳無い。

「おっと、家事能力の部分は図星だったかな」だが危険だ。それとも君は、君も含めて、これ以上の犠牲を出さずフェリクス以外を犯人と特定できるのか。私にとっては君も友人だ。

「そういう言い方無いと思うんですけど」考えさせて。訳分かんなくなってきた。

 それを見て私は断りを入れ、一旦席を外した。部屋から出てラウンジに向かうと、ルス警部とユラ警部補が呆れた顔でソファに腰掛けていた。

「まだ話す気がおありですか。面会時間は十四時までですよ、あと四十分」

「それだけあればひとまず話は落ち着きます、そう焦らないでください」

「我々の話です。情報を聞き出せるかもしれないと言ったから面会を取り付けたのに」

「話してくれるかどうかは彼女次第です。そこを履き違えていただきたくはありません。それにあなた方はあの子が置かれている状況を理解できていない」

 刑事達は呆れた顔を苦渋に歪ませながらぶつぶつ悪態を吐きながら通路の先へ戻って行った。別室に戻り再び盗聴用のヘッドフォンに耳を預けるつもりなのだろう。事件が起きてから薄々勘づいていたが、残念ながらこの街においては彼らのような無責任な者たちも存外多いのだ。報道管制が敷かれているという話も耳にした以上、ラビリンスク都市評議会も自らの地位に縋り付いていたいだけでその程度の存在なのだと考えるべきだ。この件に関してもヴィズドムィの件に関しても彼らを当てにする事は難しい。

 ブルガーコフ殺害が発覚した一件目については犯行が露呈していないと踏んでヴィズドムィも気を緩めていただろうが、スラーヴァやニューシャに関わったからには私が既に彼の犯行を感知しているものと想定しているだろう。幸か不幸か私には彼への伝手がある。次の定休日には彼との予定も既に取り付けてある。私と彼以外誰もいない空間で、彼を椅子に座らせ私が鋏や剃刀を持つ事ができるのだ。それらを駆使して彼に犯行を自白させてやる事も不可能では無い筈だ。何故なら、彼は言わば〈彷徨い人の街ラビリンスク〉の亡霊、街角の幻と同様存在しないも同然の人物であり、仮に尋問に失敗して彼が名も知れぬ路傍の死体に成り下がったとしても、そこから私が犯人だと追及される事も無いからだ。つまり彼が犯人だと思い至った瞬間から私の中に渦巻く感情が何者かに暴かれる事もまた無いというのだ。

 私と彼は友人なのだと──。

 それらの言葉が不意に脳裏を過り首をおもむろに二度振った。無意識に縦に振られたのは、知らぬ間にヴィズドムィが私の友人になってしまったからだろうか、それともこの感情に任せて私に殺人を決意させるものだったからだろうか。急に胸がざわつき恐ろしくなった私は、ラウンジを後にしエリューシュカの部屋へと早足で戻った。私とヴィズドムィは友人などでは無い。ラビリンスクここにおいてはただのしがないカフェの店主と行きずりのホームレスの関係に過ぎなかった。しかしそれは間違いだった。ヴィズドムィによって語られる彼の昔話が嘘偽りの無い真実であるならば、私と彼の関係はただに店主と客のみならず、友人でもなければ──過去に同じ女性を愛してしまった者たちであり敵同士だったという事になる。一体こんな事があっていいものなのか。

「お帰り、お腹でも痛いの? 顔色悪いよ」

「ああ、済まない、考え事だ」

 扉を叩いて部屋へと招き入れてもらい、先程と同じ席に着く。そのまま、どっちが心配されてんだか、と言いながらエリューシュカはペンを手に取った。ノートの一連の言葉の続きに付記される。おじさんいない間に少し考えた、と。

「君を励まそうと思って来たのに」どうか?

「ま、いつものあたしたちのやり取りっぽいからちょっと気が晴れたかも」

 やれやれといった調子でしっかと「予定・準備・?」とリズミカルに打たれた中黒と共に書き下された。顔を見ると彼女はどうやら意を決したらしい奮起に満ちた表情をしていて、その心意気は伝わってくる。何故この時間だけでその決断を、問うと、「さっきの話なんだけど」と言いつつノートにペンを走らせてくれた。

「ねえ、ママ、いつ帰って来るか分からないんでしょ。それまでおじさん頼るのも悪くないかなと思って」仮にフェリクスおじさんが犯人だったとしても、ホテルにずっと缶詰は嫌だし、やっぱり状況的に一人にはなりたくない。だったらおじさんに付いていた方がまだ安心できる。

「そう言ってくれると嬉しいよ。話は変わるが、警察の現場検証が終わったら宿の清掃と片付けが待っている。福祉課に相談すればある程度業者への清掃費は工面してくれるだろうが、それでも足りないかもしれないから不足分は私が出すつもりだ。君が金銭的な心配をする必要は無い。安心して欲しい」君は旅行用のバッグに必要な物を詰め込んでおくんだ。詳しい話は君がこちらに来てからになる。市外出申請はその後になるから、実際に街を出るのもそれからになる。「その間にニューシャが見つかればいいんだが」と言葉尻にそれと無く付け足しておいたが、恐らくその希望は叶わない、そんな陰鬱とした予測が鎌首をもたげ意図せず全身が固く強ばった。

「色々してくれるみたいでありがと。初めておじさんが頼もしく見えるね」

 エリューシュカは照れ臭そうにそう言い、私はぎこちなく笑みを返した。初めて、というのは少し心外だったが、エリューシュカと話しているとニューシャの言った通り父親代わりというのも実感として悪くは無かった。それに現状況下でこの子を守ってやれるのは私しかいないのだ。いつヴィズドムィが私や彼女を襲うかも分からない中では、やはりなるべく離れず行動を共にしておいた方が賢明ではある。

 それから私たちは持ってきた昆虫図鑑を眺めながら他愛無い会話をして面談時間いっぱいを過ごした。帰り際、ラウンジのソファに腰掛けてこちらを見るルス警部の表情がいかにも恨めしいものだったのが、店に着くまで脳裏にこびり付いて離れなかった。

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