第二十二話
先日の面会の直後、エリューシュカはあのいけ好かない刑事たちに保護を解くよう噛み付いたらしい。その時の彼女の剣幕と言ったら、二度と見る事が叶わないという意味での悪神レムレースのようだったと彼らは震える声で電話してくれた。警察としても彼女は目の届く場所に置いておきたいのだろうが、ヴィズドムィひとり被疑者に挙げられない体たらくではどう見積っても不安が払拭される事は無い。そういう経緯もあり、彼女は早々に保護下から解き放たれる予定となった。
今日は件の不安の種であるヴィズドムィが私の店にやって来る日だった。店の二階の居間にゴミ捨て場から拾ってきた古新聞を敷き詰め、中央に椅子を設置する。自身の手入れのために元々購入していた立見鏡や鋏や剃刀、体をすっぽり包み込むケープにシェービング剤、ワックス他は傍らのテーブルに備えた。だが拾ってきた野良猫は、やはり最初に身体を洗わなければならないと相場が決まっている。下着や古着など彼の体格に着られそうな適当な服を探し出してそれも洗面所に準備しておいた。そこまで考えて、私は不意に忘れていた感情を思い出したような気がした。かつて祖国にいた頃も同じように複雑な感情は何度と無くあり、彼女と接する中で感じたものとも同じ感情だった。やはり私はヴィズドムィの事をある意味では友人と看做しているのだろうか。少なくとも通常、人殺しの犯罪者に抱くものと相通ずるそれでは無い事は重々承知していた。
私は息を吐いて階下へ降りた。店の裏口を玄関とする兼ね合いで客以外の来訪者は全て裏口の対応になっている。時間帯からしてヴィズドムィがやって来たのだろう。扉を開けるとやはりそこには襤褸の布を纏った彼が立っており、「おはよう。さあ入ってくれ」気前の良い感じに招き入れると、自らが纏う埃を気にしたのか適当に払ってから白い歯の見える笑みを浮かべて家の中に入った。これまで何度か見たその笑顔は、相手が仮に人殺しだとしても不思議と悪い気分にはならない。しかし、外野の立ち入られない自身の居住スペースに招き入れた結果、私自身が物言わぬ死体と成り下がってもおかしくはなかった。彼を背にするというのは、紙一重の生と死をその背に負っているのと等しい意味があるのだ。階段を上り居間に着くとヴィズドムィが声を上げた。
「もう準備してくれてたのか。周到だな」
「客人を招く時は何事においても事前の準備が肝要だと幼い頃から教えられてきた」
「なるほど。良く出来た親御さんだったんだな」
彼はきっと感じた事を素朴な感想として吐露しただけなのだろう。しかしそれは大きな間違いだった。両親は兄弟と違って出来の良くなかった私をいびるように躾していただけで、言わば私の教養の大半は育まれたものではなく文字通り叩き込まれてきたものだった。今やその両親兄弟も他界している以上、今に利用可能な知識のみを伝えているに過ぎない。実際のところ、この教養や知識は親から見放され何者にも囚われず自然な状態で育った私なら全く無価値の代物だったに違い無い。
「それで、ここに座ればいいのかな」
ヴィズドムィが中央に置かれた椅子を指さして言った。私は首を横に振り洗面所の方へ目を向けた。「いや、まずは身体を洗ってくるんだ。服はもう用意してあるから出たらそれを着てくれ。今着ているのはもう捨てた方がいい」そう言うと彼は「おいおいどうしたよ至れり尽くせりだな。まいいや。石鹸もシャンプーも使っていいんだろ」
頷いてすぐ彼は洗面所へと向かった。
ЯR
ヴィズドムィが戻って来たのは三十分あまり経った頃だった。断続的に鳴っていたシャワーの音が不意に止まると扉を開ける音、次にタオルで体を拭く音と服を着る衣擦れ音が聴こえて来た。髪を乾かしているのかドライヤーの音も聴こえたが、どうせこれからすぐ霧吹で髪の毛を濡らしてしまうので全く意味が無い。私はサーバーに淹れておいたコーヒーを一杯注ぎ入れた。
それからすぐ彼がやって来た。用意しておいた茶色のセーターに身を包んだヴィズドムィからは植物由来の石鹸のいい香りが漂って来た。顔はまだ髭と髪で被われているが、くすんでいた顔は汚れが落ち明るくすっきりと見違えていた。襤褸の布を纏っていないのもあるだろうが、身体を洗うだけで人はだいぶ変わるものだ。そんな彼に注いだカップを手渡すと「へへ、どうもありがとよ。久々に熱いシャワー浴びれて気持ち良かったぜ」と笑って受け取ってくれた。この人となりで本当に殺人を行なうなど有り得るのだろうか、ふと信念の揺らぎかけた感じはしたが、彼以外に犯人と目星の付く人間がいない以上は気を抜く訳にはいかない。
「それにしてもセルゲイは優しいな。ホームレスになってからあんたみたいな人には出会った事無い」カップに口を付けながら彼がそう言った。「そうかな、それは嬉しいよ」と愛想良く答えつつも疑念は募る。街で噂のホームレスに施しを名乗り出た者は皆全て拒否されている。私より以前に誰もが善意を向けていた中で、その善意を拒否されなかったのは事実私だけなのだ。「それもまた親御さんの教育の賜物かもな」そう言った彼はにやりと笑った。
ヴィズドムィはコーヒーを飲み残してテーブルに置いた。「さてと、じゃあお手並み拝見といこうじゃないか」中央の椅子に腰掛け肩越しに挑発的な悪戯っけのある表情を向けて来る。タオルをセーターの襟口に折り込み、その上から椅子ごと全身を覆うようにケープを羽織らせた。「最初は長い髪の毛をどうにかして、それから伸び放題の髭を整えよう。髪型にリクエストはあるか」問うと、「そうだなあ」彼は目の前の立見鏡を見て言った。「おれは昔ゲイリー・クーパーに似てるって言われた事がある。だから全盛期のそいつと同じ髪型にしてくれよ。『誰が為に鐘は鳴る』、『真昼の決闘』、知ってるか? 特に『真昼の決闘』の保安官役はカッコ良かったなあ」
「ああ」勿論知っていた。半世紀以上前に活躍し高名な賞も数多く受賞した名優だったと記憶している。つまりその毛むくじゃらの下には驚くべき事にゲイリー・クーパーがいるという訳だな、と茶化してやると、せっかくお忍びで来たんだしサインくらいならしてやるよ、と軽妙な返しが来た。殺人犯のサインなど受け取っても嬉しくも何とも無い。
しかし、『真昼の決闘』という映画には示唆的な意図が感じられた。ゲイリー・クーパー演じる保安官のウィル・ケインが、過去に自ら逮捕した悪党四人が釈放され復讐にやって来るという情報を耳にし、妻や町の人々に見放されながらも一人で悪党たちに立ち向かうという孤独の英雄の物語だった。町の者たちは悪党という災厄が過ぎ去るのを黙って見過ごそうとするばかりで、立ち向かうという選択肢を取らず、それどころか保安官が町に留まる事で町が戦いの場となる可能性に誰もが恐れを抱いた。それは保安官のかつての功績を忘れなければできない事でもあった。
ラビリンスクは忘却の町だ。ここに生きる者は皆、過去の憂いを忘れようとして必死に楽しく生きている。ヴィズドムィはこの街に現れたウィル・ケインとでも言うのだろうか、それこそ冗談のようで馬鹿げた想像だが、あるいは私を追って来たのだとしたらあながち切り離しても考えられまい。ヴィズドムィは保安官のウィル・ケインではなく、彼への復讐を誓って町にやって来た悪党のフランク・ミラーなのだ。
霧吹で濡らした髪を櫛で
「髪型はこんなもんだ。どうかな」
「いいじゃねえか。思い出すよ、『俺は今まで逃げた事が無い』……ありゃ名台詞だ」
大きな欠伸の後目を輝かせてそう言うと腕を出し髪に手を当てて二、三度ほど流すように撫でた。「そうそうこの前髪がいいんだよ、よく分かってるなあ」と上機嫌にそう言った。
次は髭を剃るから顔を天井に向けるように言う。すると彼は目を瞑り顔を上に向け「この腕っ節ならカフェじゃなくてもやってけそうだな」と楽しそうに呟く。私は適当な椀に入れた湯にシェービング剤を入れブラシで泡立てた。伸び放題になった髭をある程度の長さまで切る間に人肌程度の温かさに冷ましておく。そこではたと気付いた。「クープは髭を綺麗に剃っていたように記憶しているが、君はどんな髭をご所望かな」と、そう言うと彼は瞑っていた目をちらりと開けた。「そういやそうか」
どうやら髪型ばかりを気にして髭はそこまで気に掛けていなかったらしい。彼はしばらく鏡の中の自分を見ながら渋い顔でうんうん唸っていたが、やがて考えるのを諦めてしまったのか「分からん。セルゲイに任せるよ」と四肢を投げ出し再び顔を天井に向けた。そして直ぐ様微かな鼾をかき始める。どうやら困った事になったようだ。私も少し考えてみるが、髭の生やしたゲイリー・クーパーなど写真でも見た事が無いし、髭の生やした人物を何人か思い当たってみるもどうにも参考になる手合いがいない。呆れ気味に小さく溜め息が出てしまい、意を決しようやく髭を適当な長さに切っていく事にした。全て切らずに短く揃えると顔全体が引き締まったように見え、私と同年代程度かと考えていたが、実際は私より歳下なのかもしれない。ヴィズドムィは確かに晩年のゲイリー・クーパーの皺を増やし、顎が少しその人よりほっそりしたような印象で面影がよく似ており、もはやこれまでのホームレス然とした見てくれは影も形も存在しなかった。
そうしてシェービング剤のブラシに手を伸ばし彼の顎に塗っていくと、こめかみから顎の先まで白い泡で覆い尽くされた彼の顔に剃刀を当てていく。邪な考えは依然頭の片隅に存在していた。同様に部屋の片隅で白いブラウスを着た彼女が囁き掛けてくる。「今がチャンスだと思わない?」そう言う彼女に私は問うた。「貴女は彼に死んで欲しいのか」続けて言った。「何故自殺なんかしたんだ」
彼女は飲みかけになっていたカップに手を伸ばし一口飲んで呟いた。「手紙」と。「手紙に書いた筈」と挑発するような目付きで私を睨み付けた。手紙は確かにあの日、私が彼女の家に訪れた際に寝室のキャビネットの引き出しに遺されていた物に目を通した。今となっては朧げにしか覚えていないが、「殺して欲しい」という言葉だけが彼女の放つものとしては鮮烈で、私はすっかり恐れ戦いて逃げるようにその場を後にした。それからあの村にもあの家にも訪れた事は無い。彼女はその事を言っているのだろうか。
「何もかも忘れたいから
「分かってないわセルゲイ。あの手紙に書いた事はあなたが想像して──」
彼女が身を乗り出して何かを叫ぼうとした時ヴィズドムィが大きく身動ぎした。咄嗟に視線を下に向けると顎に付けていた泡が弾けて消えつつあった。薄く目を開けて彼が言った。「セルゲイ、終わったか?」どうやら顎が痒くなってしまったらしい。ケープの下の動きはしきりに顎へと意識を向けているように感じた。「いや。今泡を足すからまだ寝ていて構わない」とそれとなく告げておいた。ブラシで泡を足して剃刀を当てていく。
私は依然消えずにいる彼女を見ずに「近々ここを出て行くんだ」そう告げた。「街を出て、貴女の所へ」と付け足すと彼女は静かに言った。「そう」一瞬つまらなそうな表情をしてみせたが、気付いたように目を開き「でも気を付けて。あの場所は狼がいるようだから。あの子も来るんでしょ?」そう言って怪しげに笑んだ彼女は視界から消えた。
それから剃刀の歯の動きはただの一度も止まる事無かった。邪な考えはどうやら彼女と共に過ぎ去ってしまったらしい。顔全体にも軽く剃刀を入れ蒸しタオルを当て、泡が残らないよう拭き取ってからヴィズドムィを起こしにかかった私はケープを外して肩を叩いた。直ぐに目が覚めて眠気まなこを擦りつつ大きな欠伸をひとつした後立見鏡に目を向ける。
「なかなかワイルドな髭じゃねえか」
「勝手が分からなかったが気に入っていただけたかな」
ヴィズドムィは丁寧な手つきで顎髭を撫でた。顔の半分を覆っていた髭は長さを幾らか残しつつ無精髭になるよう整えてあるが、元々毛の質が柔らかだったために印象として厳ついものは感じない。
「久々にかっこいい
私はその言葉を好意的に受け止めておいた。彼はその後私の淹れたコーヒーが飲みたいと申し出て階下の営業フロアでフラットホワイトを一杯飲んでから店を後にした。
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