第二十三話

 清掃業者を招き入れ〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉の片付けを終えてから、エリューシュカと共に移動し〈六番街の海賊ムーンドッグ〉へ腰を落ち着かせていた。以前と同様カウンター席に着いた彼女はオペラケーキとカプチーノのケーキセットを注文しその出来上がりを待っていた。対して私は注文の品を作りながら店前に掲げる看板の文言を考えていた。

 誠に勝手ながら店主都合により閉店致します。心身共に営業を続ける気力無く店を閉める運びとなりました。旅に出ます、探さないでください。最後の文言が的確と言っても店じまいのそれとしては些か配慮に欠けるだろうと感じ、無難に最初の言葉を採用する事にした──誠に勝手ながら店主都合により閉店致します。これまでのご愛顧、本当にありがとうございました。またどこかで会える事を願って。〈六番外の海賊ムーンドッグ〉店主、セルゲイ──店を開いてから数多くの常連客を抱えてはきたものの、近しい友人たちが次々と殺害されている手前、彼らとて危険が及ばないとは限らない。無論、ヴィズドムィの本当の狙いが私なのだとしたら、この街に留まろうと思い留まってもいけない。

 私はケーキとカプチーノをエリューシュカの前に出した。「どうぞ」彼女はそれを受け取るとまずはコーヒーを一口してからケーキにフォークを入れた。大きく切り分けられたそれは大口を開けた彼女に吸い込まれるように消えていった。「大仕事の後はやっぱ甘いものに限るよね」ほくそ笑みながらそう言う表情からは、保護されていた時のような神経質な様子は伺えなかった。それでも宿に残されていた血の跡などを見た時はさすがに涙目になりながら顔を顰めていたが。

「それでいつ出てくの。まだ決めてないとか?」

「清掃業者の日程が決まった時に街を出るための準備も日取りも決めておいた。一週間後、ここを発つ」

「そうなんだ。ちょっとはゆっくりできると思ってた」

 その点は私も少し考えていた。エリューシュカはビザを持っておらず発行するにも最低一週間は掛かってしまう。いくら何でも準備から出発までが性急だと思われてはいけなかったからだ。それに、彼女はこの街の出身だから問題らしい問題が無いとは言え、当の私が出入管理の適性検査を突破できるかは未知数だった。

 この街を初めて訪れた時も適性検査はあった。W国内に難民を装って入ってから短期の滞在場所に市外の安ホテルの一室を与えられ、筆記試験対策としてこの街の最低限のルールや規範を教え込まれた。未成年者は次いでエゴグラムを受けラビリンスク内の学校に自動的に籍を置く事になるらしいが、成年以上の者はそれに加えて自身の半生をできるだけ精確に思い出し、口頭で面接官に述べなければならない。窓の無い独房のような狭い部屋で、マジックミラー越しに情け容赦無く投げ掛けられる質問によく考えて答えるのだ。一ヶ月の間にランダムな日時を指定され、これを三回繰り返す。もしも前回の質問と異なる言質の受け答えをした場合、直ちに不適格と見なされ門前払いを喰らう羽目になる。W国政府を差し置いて〈清潔な国チスタャ・ストラーナ〉を自称するこの街に至っては、自らが語りうる事、そして与えられる名に自負を持って誠実に行動する事を市民としての最重要規範に位置づけているのだった。だからこそラビリンスクでは普段から事件や事故など起きないように人々は平穏に暮らそうと努めてきた。その平穏な街に人間の顔をした皮を被って紛れ込んできた獣がヴィズドムィなのだ。

 エリューシュカが食器を私に手渡してきた。ケーキのひと欠片、コーヒーの一滴まで綺麗に平らげた彼女を見てふと思う。私の無意識の癖を見抜いた彼女でさえヴィズドムィの振る舞いには何らの直感も働かなかったのだろうか。それを訊ねてみると彼女は、変な所は何も感じなかったと言った。彼女にとってはヴィズドムィはおろか、ホームレスと実際に知り合った事すら図書博物館での偶然の出会いが初めてだからだ。それも無理からぬ事だろう。

「あ、でも待って」

「どうした」

「学校の社会科の授業でビデオ見せられた事あるの。世界には貧困がどうとかで、だから皆で頭捻ってホームレスを生まないようにしたり、どうやって社会復帰させるべきなのか考えよう、みたいな」

「それがどうかしたのか」

 曰く、そこでホームレスをやっている人のインタビューが印象的だった。拾った古着を幾重にも重ね着した襤褸を身に纏い、リヤカーやカートに荷物を満載させ、錆び付いたトタンと埃まみれのボール紙と、ビニールシートの切れ端を組み合わせただけの簡素な荒屋あばらやに住むという人だった。彼はそのインタビューにこう答えた。

「今さら娑婆なんか戻りてえかね? こんな生き方が染み付いちまったらどこもかしこもまともに取り合っちゃくれねえさ。豚は豚でも一度クソの味を覚えた野良の豚は人間様にも食えやしねえってよ。なあ、あんた今どんな目えしてるか分かるかい? あんたもクソ食って生きられるかい? オレらみんな陰では言われてんのよ、ホームレスなんかクソ喰らえってな。上等だ」

 エリューシュカが気になったのはその時の彼の瞳だった。生活を失いながらも爛々と輝くその瞳は決して生きる活力を失っている訳ではなかった。しかし翻ってヴィズドムィに至っては、同じように爛々とした双眸を湛えつつも、そこに感じるのはどこかに諦めを纏った輝きだった。彼女はそのように感じた。

「単刀直入に聞きたいんだが」

「どうしたの」

「私とフェリクス、君ならどちらを信用する」

 彼女は確と私の目を見て言った。「どうだろう。実際のところ二人ともよく分かんないよね。胡散臭さで言えば殆ど同類だよ。ま、それはおじさんたちに限った事じゃないけど」

「どうすれば彼より信用してもらえる?」

「え、何いきなり。キモいよ?」

 眉間に皺を寄せ身動ぎして距離を取ろうとする彼女に、私は意を決して答えた。「こうなってしまった以上、私の過去を君だけには教えておこうと思って」

 その言葉に彼女の目はあからさまに丸くなった。知り合ってから今まで誰に対しても頑なに忘れたと言い張っていた私の過去だ。しかし、残念ながら人はそう簡単に自らの過去を忘れられない。ひとつ言えるのは、私の過去は今以て忘却の過程を継続しているという事だ。自身に対してだけでなく人々の無意識下に収められたそれさえも、極力浮上させないように努めてきた。鳴りを潜めてしがないカフェの店主マスターなんぞやっているのはそういう所以だった。

 案の定、私の言葉に彼女は身を乗り出して食い付いてきた。ただし条件付きで、その過去を話すなら決して嘘や脚色を織り交ぜてはいけないし、物語的な緩急は付けず、記憶の限りありのままを詳細に語って欲しいとの事だった。何故かと問うと、私が少しでも嘘を吐いた時は、あの無意識の癖によってその真偽を判断するからだそうだった。信用して欲しいのならそれは言うまでもなく当然の事だと彼女は言った。なるほど、それもまた彼女の言い分の通りだろう。私はポットで淹れた新しいコーヒーを彼女の前に差し出し、自身も椅子を用意して腰掛けた。追加の一杯が欲しいならいつでも申し出るように一言添えてから、静かに口を開いた。

「彼が生まれたのは……」

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