第六話
「おれは西の山脈の麓の国の生まれなんだ。何にも無くて平和で、小さな国で、実際おれも長閑な田舎で育った人間のひとりだった。何もかもが牧歌的だった。事によるとこの世の楽園て言われるほどだったとか……」
その国は私も覚えがあった。当時はR国と呼ばれ、独立後に教育制度を根本から見直し、世界随一の高い教育水準となった小国だったはずだ。独立報道と共に語られる国際社会における良心的な印象の数々には辟易すら感じたものだった。
「おれはそこの小学校で落ちこぼれだ。馬鹿だったんだ。好き勝手にして生きてたさ、見放されない程度にな」
「よく今まで生きてこられたな」
「糞ガキは糞ガキなりに頑張ったって事だ。必死こいて勉強したよ。長いこと勉強したのが念願叶って、おれは警察官の端くれになった」
「へえ」意外だった。どこの国でも警察官と言ったら公務員で、基本的に食いっぱぐれる事は無いし、身内の不祥事ならそのまま揉み消されるケースも多い。そんな警察官がホームレスに転落するなどといった話は私の長い人生でも聞いた事が無かった。見窄らしい見た目で正確な年齢は推し量れないが、声の様子からして五十代か六十代そこそこといったところだろう。ラビリンスクでの在住は長いようだし、言わんとする内容は昔話だった。「興味あるよ。警察官になってから、どんな事件に携わったんだ」
「平和な国だったしな。殺人はおろか物盗りもほとんど無い。たまに道端で喧嘩の仲裁に入るくらいか。その喧嘩も警棒を二人の間に滑り込ませるとすぐに止まった。おれの顔を見て我に返って、お互い謝ってはい終了、だ。そんな訳だから警察官て言っても誰でもできちまう簡単なお仕事さ」
「だが勉学は当然必要な職業だったろう」
「そりゃそうだ。そうなんだがまあ、その頃やり甲斐はあまり感じなかったな。そういうお前さんはここに来る前は何してたんだい」
「それが……」ラビリンスクでの生活が楽しいのなら過去を忘れてしまうのは無理も無い話なのだろうか。必要の無い事をいちいち覚えている道理も無い。いわんやここで姓名登録してからというもの、本来の姓名さえ思い出せずにいた。ラビリンスクでは永住する際、全ての住民の名前がスラヴ系で統一される。それは旅行観光者も例外は無かった。とするとヴィズドムィにも付された名前があってもよかろう。「残念ながら忘れたんだ。しかし、この街で顔見知りになれたのは幸運だ。私の名前はセルゲイ。貴方は?」
「藪から棒とはこの事だ。おれはフェリクス。フェニックスと語感が似てるからわざわざ入管に頼み込んだんだ、かっこいいだろ」
「フェニックスというと英米名だが、そちらの血縁が?」
「そういう訳じゃないが、不死鳥だからな。名は体を表すというか、体こそ名を表すというか……」
「なるほど」
不死鳥、フェニックス。灰から復活して空を舞う雄鳥。ラビリンスク永住権の獲得と共に選択し、与えられた名前。移住して一念発起、とするにもホームレスの手前そうとは考えられない。確かヴィズドムィ──声に出す時だけフェリクスにしよう──は、この街で人探しをしているのだと言っていた。世界中を旅して最後に訪れた秘境でこの姿、どうやらまだ灰から復活してはいないらしい。
「ああそうそう、思い出した。そういや警官時代の話で幾つか面白いのがあるんだ。聞いてくれるかい」
「いいとも。興味ある」
私は景気付けに棚から一本の酒壜を取り出した──ダッチキャラメル。甘くもフルーティで飽きの来ないフレーバーで会話には持ってこいのヴォトカだった。
「いいねえ」調子付いたヴィズドムィが酒壜に見蕩れながら溜め息を吐いた。「飲みたいか」と問うと「おいおいつまらないぞ」との言。次いで「持ち合わせは」と言うと「高いかどうかはおれの舌でな」と気丈に返す。高かろうと安かろうと元より一杯しか提供しないので問題無い。しかし一体彼の自信は何処から湧き出ているのだろうか。
自信家と言えばそうだった。三兄弟の末子の私は上二つの放蕩息子と違って将来を有望された身で、つまるところ父の跡継ぎとして、躾はとりわけ厳しく叩き込まれてきた。あらゆる規律と作法と定義を繰り返し繰り返し、執拗なまでに教え諭され身に付いた事は、確かに今でこそ毎日やり過ごすのに役には立ったが残念ながらそれだけだ。以降、私は虚仮を纏ってしがないカフェの店長なんぞやっている。ここでは、そうした半生など他愛無いものだったと思えるほど想像以上に楽しくやっていけているのだった。
ともすれば私が大事にしていた者達は──そこまで考えて私はふとした違和感にヴィズドムィを見た。「隙ありだ」彼は笑う。手にはダブルのグラスを持っていた。してやられたな、と苦笑いする私を尻目に彼は昔話を語り始める。
「ありゃあ、そうだな……もう二十年以上前の話だ。おれが赴任二年目の頃。あのときゃ建国以来稀に見る犯罪の少ない年で、実際犯罪白書見ても目に見えて件数が少なかった。ところが元々人口の少ない国だったから重大事件が起こると人員不足は否めない。赴任したてのおれも現場に駆り出されて犬っころ使っての証拠探しに明け暮れた。その事件ってのが要人亡命者の保護だった」
要人亡命者の保護という言葉で察しが付いた。その事件なら私も覚えている。R国に亡命した要人数名が同国内で突如失踪したという事件。その事件に彼も一任していたとは驚きだった。
R国はその地域では政治的に安定していて、同時に不安定な近隣諸国からの者が数多く亡命していた。他国もその事を既知の事実としており、故にR国にはスパイや暗殺者が頻繁に出入りしていると専らの噂だった。それでも表向き平和的な国家であったのは公安の手腕ゆえか、はたまたそれすら察知できない無能だったのか、いずれかだ。要人捜索ともなれば相応の人数も動員されることになるのだろう。
「警察犬と言えばシェパードやドーベルマンが有名だが、おれの国ではプードルだ。だから時には面白可笑しく“
「血統書付きのアシェラなら。父親が猫好きで」
「そうか、おれは昔も今も犬一筋だなあ。──ま、そういう訳でおれらは割り当てられた区に向かった。一組に当てられた捜索範囲は半径一キロ。普通の国ならこう……人海戦術で隅々まで探せるよう配置すると思うんだが、さっき言った通りおれの国は万年人手不足でさ、代わりに練度が高められていた。おれたちゃ新人だったが気張って歩いたよ。ペチカもやる気は充分。山中なんぞで見つかる品も無かろうと御上が判断したんだろうが、おれたち舐めてもらっちゃ困る。後に泣く子も黙る説得劇をやってのけるおれだぜ」
そこで引っ掛かる言葉があった。「泣く子も黙る説得劇」
「まあそいつはその後の話さ。……目えひん剥いて鼻鳴らして、地面にある手掛かりを見つけてやろうと躍起になった。しかしまあ事はそう上手くいかんもんで、やがて日も落ちようとしていた時分、おれはふと夕日に延びて気味悪くゆらゆら揺れる細長い影を見た。樹木の立ち姿とは違う。よく見るとそいつがよ、首吊って死んでる
「つまり、貴方はずっと首吊り死体の下をぐるぐる歩き回っていたと」
「そうだ。で、その死体がどう考えても自殺するには高過ぎる位置にあったから、他殺だろうってんで第一発見者のおれも次の捜査に参加する事になった」
連邦制が崩壊してからというもの、周辺諸国は混乱に混乱を来たした。だからこそ比較的安定していたR国には多数の亡命者が流入したが、当然ながらそれを快く思わない国々もある。同じ宗主国を頂きながら小競り合いが絶えない国もあり、宗主国の崩壊に伴って国際問題と化したり、そのまま民族紛争に突入した事例も数多存在した。体制崩壊から数十年余り、未だに解決の糸口が見い出せない地域も多く、既に地球から消えた国家もまた存在した。反対に、新生国家も。
ヴィズドムィが関わった要人保護の件にもその類いの背景が絡んでいたのだろう。彼の話から察するに、俗にポリヴィト刎頸だとかアトラントの惨劇とか呼ばれるようになった出来事に違いない。早い話が国際スキャンダルだった。Я国から亡命した穏健派政治要人が、同様にЯ国から送り込まれた暗殺者に次々殺害されるというものだったと記憶している。体制崩壊後、小国ながら既に先進国として諸国に認識されていたR国が、その事件によって国際社会を全面的に味方に付けたのも想像に難くない。それがまた周辺国の感情を逆撫でする事態になったとしても、かの国は知らぬ存ぜぬでいたのだろう。最悪の状況が水面下で進んでいた事も知らずに、だ。
「事件は一朝一夕で解決するようなモンじゃなかった。最初に殺されたのが要人Aだとすると、おれの国にはあと数人ほど別に亡命者がいて、そいつらも狙われる可能性が高いと目算が立った。そう、次の任務は護衛だ。ホテルに匿われた要人Bに四六時中張り付いて保護するんだ。八十歳も超えるような爺さんだった。手も声も震えて、歩くには車椅子が必要な爺さん。何でもそいつは若い頃、Я国で激しい拷問を受けたとかで脚に障害が残ってたんだとよ。酷い事するねえ。で、その爺さんが言ったんだ。──自分を生かしていい事なんて無い、ってな。何事かと思ったさ。守ってもらってる奴がそんな事言うもんじゃねえって言ってやったな、おれは。すると爺さん、このままじゃ良くない事が起こるって。馬鹿にすんな、おれの国がンな阿呆くせえ事するかって怒鳴ったよ。それきり爺さん黙っちまった」
そこでヴィズドムィは残りのダッチキャラメルを一気飲みした。焼け付いているであろう喉から細い息を吐き出した。思いのほか思い出語りに熱が入っていたらしい。「水をくれないか」と言う彼に私は差し出す。受け取った彼は大きな溜息を吐きながら情けない声を出した。「済まねえ、何だか眠くなってきちまった。続きの話は後でいいかな」
「いいとも。ここに来るなら時間はたっぷりある」
「恩に着るぜ。ええと勘定は……」
「土産話と等価。付け無しだ」
「そうかい、ありがとよ。じゃあな」
「また後で」
彼は店を後にした。ダッチキャラメルの微かな甘い香りだけが残り、すぐにブランチを摂りに来た婦人方の来店に気を逸らされた。おすすめ用のメニュー表を手に彼女らの元へ向かう。
「ご注文をどうぞ、ご婦人」
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