第七話

 ショットグラスの底を覗いて透かして汚れを確かめていると、不意に向こうから光が飛び込んできた。と、同時に呼び鈴の音。来客らしい。グラスの底から顔を逸らして扉を見ると、にわかには信じ難い人の姿があった。

「久しぶり」

 もはやいる筈の無い者の姿がそこにはあった。かつてのままの麗しい姿で、素朴で柔らかな印象を与える淡いカスタード色のワンピースを翻しながら私の元へ寄って来る。

 咄嗟に声が出せなかった。言語化不可能な彼女の姿。ラビリンスクに来てからというもの片時とて忘れた事は無かった。常に思考の傍らには彼女の見つめる姿があった。頭の中で彼女は、時に麦わら帽子を被り、時に楽しげなステップを踏み、時に目元に優しさを湛え、深い色味を湛えたヴィオラの花弁に自身の唇を寄せながら、声の出ない口を通して何かを囁こうとしていた。私の頭の中の亡霊。彼女は消えた。目の前から。死んだ。時の中から永遠に。何故?

「どうして惚けた顔しているの? こっちを向いて」

 向いているじゃないか──しかし視界の中心に彼女の姿を捉えられない。目を向けると必ず、一歩か二歩ずれた位置にその姿が音も無く移動した。焦点の合わない影。

 私はグラスを置いた。カウンターから出て視界の端に映るだけの彼女の姿を目印にそちらへと歩みを進ませた。君に今、触れられるかい。触れられるのなら、また抱き締めさせてほしい。

「それはだめ。あなたにはまだ夢を見ていてほしいの」

「どうして……」一体どういう了見で、彼女の言っている意味がまるでわからなかった。

 その場で不意に歩みが止まった。足が重く動かせない。視界の端で彼女を見ると、その表情は心做しか愛おしげで、そして名残惜しそうに私を見つめているようだった。どうしてそんな愛らしい、後ろ髪引かれるような表情を見せるのだ。彼女は私の事が嫌いだったのか?

 彼女と出会ったのはある春先の、太陽の光が穏やかな日だった。家の前の庭に花壇を造っていたその人は頭の中の彼女と同じ白いリボンをあしらった鍔の広い麦わら帽子を被っていて、丁寧な手付きで植えた苗に土を被せていた。「それは何の花でしょうか」思い掛けずその姿を見つけ興味深く後ろから訊ねると、彼女は肩を震わせてこちらを振り向くなり、怪訝な表情をしてみせた。「御機嫌よう」古風な言い回しの後「月見草です」と答え、土に向き直ってしまう。「好きなのですか」と問うと、「ええ、まあ」、「煮え切らない返事ですね」、「不躾で済みませんが、何方どなたですか?」

「生命の樹に参らんとする名も無き旅人だとしたら?」我ながらきな臭い返答が出て来たものだった。「聖書も捨てたものではないですよ」

「変な人」と驚いた表情でこちらに振り向きつつ「苗に恋してしまうなんて」と笑った彼女の表情は屈託無く、ただならぬ無邪気さがあった。それで私は身震いした。恐れによるものではなく、蠱惑的な彼女の心馳せによって。

「私にも手伝わせてくれませんか」

「お手を汚させるなんて」

「謙遜は要りませんよ」

「花の扱いには?」

「教えてくだされば……」

「そう。もし本当に手伝いたいのなら少し勉強して来てくださいな。園芸用の植物図鑑、お貸ししますから」

「よろしいのですか」

「必ず返してくだされば」

「なるほど。恩に着ます」

 彼女は立ち上がった。カスタード色のワンピースが振り向きの勢いで可憐な姿を一層際立たせた。そして一旦家に入り、一冊の分厚い本を手に戻ってきた。燕尾色の表紙を綴じる糸がところどころ飛び出しており、小口から見える紙の色も酷く色褪せて茶色に程近くなっていた。表紙には筆記体で『With Rapture』と副題のエンボス加工、植物の蔓のような繊細なパターンが金の箔押しで浮かび、優雅と言う他無い。中を開いて少し見てみると、印刷されたものではなく手書きらしい文字と絵、顔料の香り、それと綺麗に押された花弁が窺えた。かなり古いもののようだった。

「これは?」

 彼女は一瞬の間の後、懐かしげにはにかみながら言った。

「大叔父が執筆した著作です。この辺りで知らない人はいないくらいなんですよ」

「手書きのようですが」

「生原稿を手製本したもので」

 そう言って彼女は目を細め、また屈託無い笑顔を見せた。無意識の表情ならここまで無防備な女性もまた珍しい。有名な作者の生原稿ともなれば相当価値あるものだろう、この手の古書は過去には一〇万ドル以上の値が付いたものもあると聞いていた。しかし、ここまで安易に見知らぬ人に手渡すというのはどうにも胡散臭い感じがした。

「もしかしたら今後二度とここには来ないかもしれない、そんな不安はありませんか」

「苗に恋した方が? 面白い。ねえご存知? 花に足は無い、って。大風や嵐に吹かれない限りどこにも行かないの。種は鳥に気の向くまま行かせて、枯れるまで、じっと動かず、何があっても、そこにいる。だからあなたは吹雪になっても土砂崩れになっても、またここに戻ってくる。もしかしたら花が咲いてるかも、種が生っているかも──そんな風にね」

 彼女の無邪気ながら詩的な物言いもまた、私を如何に身震いさせただろう。一目惚れとも虜になったとも言い難い。金の矢に心身共に射抜かれたなどと言うのは、彼女を相手にしていながら野暮が過ぎる言葉だった。あの身震いする感覚は今となってはよく分からない。もし仮に今、その気分を表現するなら端的に言って“望み”かもしれなかった。恐れでも恋煩いでもなく、あの身震いは未来からの啓示だったのかもしれないのだ。

 ともかく、私と彼女は一旦別れた。視察のために滞在しただけの僅かな時間ではあったが、内心酷く充実した気分になった。もし次の予定が無ければ夜まで話したいと願ってしまっていただろう。そして、そんな何時かの姿の彼女が私の目の前にいる奇跡だった。

「覚えてる? 思い出したの。あの日の事。初めて会った日」

「当然だ。覚えている、思い出した。貴女は金糸梅を纏った太陽の娘だった。新しい朝の光のような女性だった。私の人生でただ一つ輝く星だった。貴女は、どうして消えてしまったんだろう」

「本当にそうお思いで? もっと頭を柔らかくして、そんな風に考えてはいけないの……。人の事を、花や太陽に見立てたり、余計な感情を挟んでは駄目」

 彼女は立てた人差し指を口元に当て、内緒話をするように僅かに屈みながら見詰めてきた。その瞳の淡い青は彼女の言わんとしている事に反して宝石のように輝いている。小ぶりで端正な唇はふっくらとつややかかつ伸びやか、しかも明瞭で、唇の端まで桃色に彩られていた。

「やっと向いてくれた」

 いつの間にか彼女の麗しい立ち姿が間近まで迫り、微笑みを浮かべた表情が目の前にあった。その視線はもはや私など捉えてはいない。背後にある店の天井でもなく、そのずっと先にある何かを見据えているようにも思えた。

「貴女が好きだった。貴女だけが世界で一番大切だったんだ。あの気まぐれなひと時は神が誂えたのだと勘違いしてしまう程に。それでも貴女は消えた。何故だ。答えて欲しい。私は未だ抜け出すべき場所から一歩も動けていないんだ」

「わたしは虚飾。わたしに綺羅を飾ってくれたのはあなた。それが全て。あなたがわたしを花や太陽に見立てたり、余計な感情を挟んでしまっては、わたしはどうしても本当のわたしではなくなってしまうの。それってとっても、わたしにとっても不本意でしょう」

「さっきから何を言っているんだ。分かるように言って欲しい」

 遂に堪えきれず叫んだ。彼女はいつも独自に編み出したかのような表現で私を戸惑わせてきた。特定の宗教や流行りの思想にも依存せず、自由気ままに思った事を率直に話す様は、だからこそ魅力的ではあった。しかし今、彼女を失った現在では彼女の本当の姿などこの目にも焼き付ける事は叶わない。すなわち、やはり彼女の言う通り、私に今見えている彼女は、確かに実在していた彼女に纏わせた虚飾に他ならないのだろう。

 しかし、それでも私は彼女の言葉を信じたい。虚飾によって生み出された泡沫の言だとしても、そこにはやはり幾許かの真実も紛れ込んでいるに違いない。彼女と私の間にあるものは何だろう。土壁か、高い尾根か、三陵鏡プリズムか。

 貴女はどう思う。と訊ねようとして再び彼女に向き直ろうとした時、その異様な姿に気付いた。いつの間にかカスタード色のワンピースは埃を被って黄土色に褪せてしまい、髪の毛は酷く乱れ、眼窩の青は白く濁り、顔色は生気を失ったように灰色になっていた。手脚は骨まで痩せ細り、それは私が何度目かに彼女の家を訪問した際、目に飛び込んできた姿と同じだった。

「どうして」と、それだけしか呟けなかった。そうして彼女は何も言わずに折れそうなほど細い足でこちらに歩み寄ってきた。痩せこけた顔と濁った瞳が眼前に迫り、思わず目を瞑り身退みしりぞいてしまう。しかしそこから一歩も動けず、背伸びして耳元に唇を寄せたらしい彼女が囁いた。

「別れてしまった相手は、一層慕わしく感じるものね」

 そして彼女の亡霊がそのまま消えゆく感覚を肌で感じながら、私はゆっくりと目を開いた。

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