第八話

「久方の再会すら涙は似合わん」

「済まない。昔が頭を過ぎった」

「いいさ。お互い老いた身だろ」

 呼び鈴が鳴って最初に訪れた客は同郷から同じくラビリンスクに流れ着いた旧友のブルガーコフだった。もはや本名は忘れたが、とても長い名前だったようにぼんやり思い出される。顔貌は記憶の限り遡って今はとうに老成し、白い髪の毛も如何ばかりか見受けられた。彼は左目とその周囲にはっきりした傷跡があり、落下して中心から綺麗に割れた皿のように、その瞳には断片的に切込みが入っている。私でさえも時折不快感が勝る言い様の無い気味悪さを隠すために、普段は医療用の眼帯で隠していた。老成は私も例外ではなく、互いに老けた姿に茶々を入れ揶揄からかうのが常だった。しかしながら顔を合わせられるという事は、ひとまずお互い心身共に問題無く過ごせている証左とも言えよう。

 呼び鈴は──すなわち彼女ではなかったという訳だ。白昼夢を見るには随分時分が早かろう。寝惚けていたのかと思ったが、元来それは有り得ない。眠気覚ましに淹れたココアは甘みが少なく好みの味に仕上がっていたし、客待ちで読む本は『イワン・イリッチの死』を選んで来た。ここまでの動きに違和感は全く無い。つまり、白昼夢はおろか幻影を見る事も考えられなかったのである。

 彼女が消えた瞬間、私は戸口に立って惚けたような表情をした彼の顔を見た。涙を流す程の一大事か、と呆れて眉尻を下げる彼に対し笑ってはぐらかした後、彼から発せられたのが先の言葉だった。それから目頭を押さえ力強い抱擁をして、カウンターの対面に着いた彼にいつも通りの品を出す。キリマンジャロを深煎りして極細かく挽いたものをドリップしたもの。ブルガーコフはこれが好きで、こうして忘れた頃にやって来る頻度で店を訪れてくれる。彼もラビリンスクに来てからというもの、場末の射的屋で慣れない労働生活を送っているらしい。

 以前聞いた話はブルガーコフが射的屋に弟子入りした当初の出来事だった。彼にとって銃を触るのも見るのも珍しい事では無かったが、如何せん接客など知らない彼の就業初期は私でさえ目も当てられないほどの木偶の坊だったという。ラビリンスクに来る前は部下を幾人も抱える優秀な人間だったが、所変われば評価も変わるものである。

 そんな彼を雇った射的屋〈バッテン印スナクレスティ〉の店主はボリスと呼ばれ、ブルガーコフ曰く「非常に複雑な性格の持ち主」だそうである。それというのも、ボリスのラビリンスク以前の経歴は傭兵で、世界各地の戦場に派遣されていた所以で数々の悲喜劇を経験しているのだという。その故あってかボリスは時折ぶつぶつと独り言を繰り返し、出し抜けに射撃ブースに立ったかと思うと、上級者向け難度の設定で出てくる的に向けて無言で銃弾を叩き込んでゆく。しかしそこに暴虐性や残虐性は無く、感じられるものはただ彼の慈悲深さなのだとブルガーコフは言った。彼もまたそれを理解する程度には過去軍役に就いていた。だからこその共感や納得できる部分もあるのだろう。

 私には理解に苦しむ世界だったが、極個人的な了見に落とし込んで僅かばかり解する事ができない事も無い。ボリスに対して慈悲深いと形容するブルガーコフもまた任務地で様々な辛酸を舐めた経験は知っている。当の彼がその辛苦を受け容れているのが救いだが、やはりどこか共感し難い感傷があるのも事実だった。

「それにしてもセルゲイ」私が彼をブルガーコフと呼ぶように、彼もまた私をセルゲイと呼ぶ。「新しい舌でも生えたか? なんだか前より深みが無くなった気がするが」

 驚いた。とは言えこれはブルガーコフの洒落だろう。

「そうだな、最近は少しずつ味を変えるよう努めているよ。信じられないかもしれないが、アメリカン風にしてみたり、水出しのものを温め直したりしているんだ」

「そんな事していいのか」

「錐で海を温めようとするなって事さ。勿論売れ行きはさっぱりだ」

「相変わらず君のユーモアは恐ろしい」

「悪かった」

 ブルガーコフはコーヒーをひと啜りした。と同時に出し抜けにこんな話題を口にしてみせる。「たびたび話題を変えるが、セルゲイよ。君は巷で噂になっているホームレスについて知ってるか」

 まさか彼からもその話題が出てくるとは思わなかった。私は「知ってるも何も、この店によくやって来るんだ」と答えてみせた。

「そうなのか。これは僕の勘なんだが……噂で聞く限り、あいつはどこかしら頭がぶっ壊れてるような気がするよ」

「と言うと?」タクシーの運転手も似たような事を言っていたのを思い出す。

「戦場でも自分を壊してしまった奴はしばしば見かけたが、噂を聞くにホームレスはそれらしいように思われるんだ。人の話を聞かなかったり、施しを無視したり、見えない何かが見えたり、そいつと話したり」

 だからヴィズドムィは頭がやられていて、その結果ホームレスをやっているのだと言いたいのだろうか。それは本人を前にして至極自然な流れの会話を繰り広げた自分からして、余りにも突飛な論理と言えよう。祖国では存在しないが、他国では時折自らその道を歩み、天寿を全うする者がいるらしい。彼がその類の者だとしたら、私が彼に感じた粋のような実感は間違いが無いだろう。だからこそブルガーコフの物言いには少し反論したくなった。

「私は彼と直接話した事がある。対して君は想像の域を出ない。だから反論してしまう形になるのは申し訳ないが、彼は君が思うような人間ではないよ。それは断言する」

「なるほど。それは悪かった。ここに来てるんだっけな。僕も会ってみたいよ。幸運が訪れそうだ。そういうもんだろう」

 彼のその言い方にはふと違和感を覚えた。しかしそれは何という事は無い、この間のスラーヴァもそうだが、この街に長い人間がしばしば陥る虚無のひと時だ。私は未だかつてそのような状態になった事は無いが、意識していないだけでそうなっている時もあるのだろうか。私以外の者は、この瞬間をどう感じているのだろう。

 ブルガーコフはキリマンジャロを一気に飲みながら言った。酒ではないのに。

「大丈夫さ。だけど、たまに恐れを成す時もある。この街は恐ろしい。下らんと思うかもしれないが、自分が自分でいられなくなるんだ。だけどそれが僕達にとっては僥倖でもある。君は特にそうだろ。僕には分かるよ。親友だもんな」

「ブルガーコフ」

「そうしんみりするんじゃない。墓まで持って行くと約束しただろう。僕もセルゲイもここに来るまで失ったものは数知れず、だ。ここに来てようやくこれ以上何も失わずに済むかもしれないって、束の間の休息かもしれないが。そうだろ……」

 ブルガーコフはカップを置いた。縁を二度指で叩き、追加の一杯を申し出る。カップに注ぎ入れて彼の前に差し出すと、彼はまた不意に涙を流し始めた。こわばった表情で声も漏らさず、何かに耐えているようにも受け取れた。零れた涙がテーブルに落ちて形の定まらない跡を残し、そのまま彼は無言でコーヒーに乾いた唇を付け、苦味で我に返ったのかコートの袖で目元を拭う。ラビリンスクに来てから数回の訪問で彼が泣いた時など無かったが、この様子だと最近は平穏に過ごす事も出来ていないだろう。しかし、心休まるために日常的に顔を合わせるのは、我々にとってやはり都合が悪い。

「やあおはよう。今日も寒いな」

 そんな時ふと入口の呼び鈴を鳴らしながら入って来たのはヴィズドムィだった。音につられてブルガーコフも思わずそちらに振り向くと「こりゃたまげた」と呟く。そのままヴィズドムィはブルガーコフの隣に座り、私はカウンター下の棚に置いておいた残りのダッチキャラメルを取り出し、二人に注いでやった。

「セルゲイ、もしかしてこの人が?」

「そうだ。少し前から来るようになった。フェリクスと言うんだ」

「よろしく。おれがフェリクス。しかしなんだ、揃っておれの噂話でもしてたんかい」

「街中で噂の渦中の人間が何をか言わんや、だな。僕はブルガーコフ。セルゲイとは旧い友人なんだ」

 ブルガーコフが手短に自己紹介すると、ヴィズドムィはグラスを持っていない右手を差し出す。「よろしくどうぞ。おれも少し前からセルゲイとは友人なんだ。な、そうだろ」

 陽気な様子で笑いながら振られたので、そこは無言で頷いておいた。ブルガーコフもこの街で顔見知り以上の仲である事は貴重であるとわかっている。

「いいのか。僕にもブランデーを」

「いいよ。これはもう彼のものだ」

「そういうこった。飲もうぜ」

 ヴィズドムィとセルゲイが杯を交わし合った。昼から酒を交わし合う姿にある種の乖離感を覚えたが、ラビリンスクここではこれが日常なのであり、疑う余地も無かった。

「いや、それにしても、噂と違ってなかなか気風きっぷの良い男じゃないか」

「なんだ。おれの事知ってんのか」

「当然だ。この街でお前は名無しの有名人だからな」

「名無しとは何だ、さっき名乗ったろう」

 不満そうに言ってヴィズドムィは「もう一杯!」と叫んだ。もはやダッチキャラメルは支給品のヴォトカ同様只酒に過ぎない。私はそれでも楽しい雰囲気に水を差さぬよう喫茶店の主人として寛大に振る舞う事にした。遅れて差し出されたブルガーコフのグラスにもダブル、注いでやった。

 昼間からの酒の席、ブルガーコフとヴィズドムィとの間には不思議な友好関係が結ばれようとしていた。彼らは互いに気の合う話──好きな酒の銘柄、趣味、旅行中での出来事、文学の好み──を話し合った。そうしてわかった事は、ブルガーコフが実は幼少期に俳優を目指していただとか、ヴィズドムィが酒を嗜んでも煙草を一切好まないのは、煙草一本によって刻み込まれた現在まで後ろ髪引く経験があるからだと言う。

「煙草一本で? そいつは気になるな」

 ブルガーコフが笑い、私も気になった。

「なあに簡単な話さ。そいつはこの間の話の続きとして語った方がいいな」

「この間の話?」

 ブルガーコフは訝しげに眉尻を下げ私を見た。私はその話を簡潔に話してやった。彼が元々R国の警察官だった事、警察官として二年が経った頃、とある亡命者を保護・警護する任に着いた事、そして、その過程で様々な経験をした事。ブルガーコフは真剣な顔付きになりながらその話を聞いていた。やがて話し終えると、「なるほど。それは興味がある」とヴィズドムィを横目で見て不敵に笑った。

「お、じゃあ話してやるか」

 ヴィズドムィによる、過去の語りが始まった。

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