第九話

「そういやこの事件はこの間話した要人Bにも絡んで来るんだが、直接関連するのは要人Cだ。要人Cは若い女だった。Я国では諜報や暗殺を生業としていたらしかったんだが、その女がR国の元軍人と恋仲になっちまった。禁断の恋ってやつよ。それで要人CはR国に亡命して来たらしいんだ。とは言えその女に殺された奴、嵌められた奴は国内外でも数多い。亡命なんぞ以てのほかの連中もおれの国には多かった」

 禁断の恋──というのはよく分からない。人を好きになったのならそれは全て正統な愛の形だろう。不倫や浮気が云々といった話は俗世での印象に過ぎない。何をすれば愛した事になるのかは結局人それぞれの判断に拠るが、少なくとも祖国では愛はただひとつの象徴を成していて、皆その愛を実践していた。要人Cとやらの場合は、その愛には追手がいて、逃避行によって守らなければならないほど崇高なものだったのだろうか。

「ま、それでもおれの国は亡命者の扱いには慣れてる。情報を聞き出すのもしっかり警察の役目だったしな。それで、丁度おれの上司の女警視正殿がその交渉役として買われる事になった」

「R国の当時の女警視正殿と言うと、アストリッド女史か」

「よく知ってるな」

「当時の国際ニュース番組では連日取り上げられていた事件だからな。アストリッド女史はR国でも指折り付きの交渉術者だったと」

「そうそう、警視正殿のお陰でおれの交渉術は鍛えられたんだ。彼女は怒らせるとプロレスラーすら縮み上がる。舌が縦横無尽のナイフになるんだ」

 ヴィズドムィが喉を打ち鳴らしながら笑った。

「滞在中は要人Bの爺さんとは別のホテル。おれは爺さん側に付いていた。だからこれは後に彼女から聞いた話と、同じ時に起こっていたおれの経験とを照らし合わせた話なんだが……」

 その日の朝、部屋の中で警護任務に就いていた際、ふと要人Bがヴィズドムィに囁いた。「Я国の奴らに惨たらしく殺されるくらいなら、君に頭を撃ち抜かれて一息に死んだ方がましだ」と、それを聞いたヴィズドムィは「馬鹿言うなよ。この時間は子供向けのアニメに面白いのが始まるんだ、そいつでも見て気を紛らわせろ」テレビを点けチャンネルを回した。それは私の祖国でも放映されていた外国のアニメだった。他所の世界からやって来て囚われの、NY在住のハードボイルドなアヒル探偵が、ふとした事件をきっかけに宇宙を股に掛けた大冒険をする、そんな荒唐無稽な話だった気がする。渋々ながら要人Bも見ていると、時折漏れる笑いにヴィズドムィも安心した。

「時に爺さんよ」

「何だね」

「あんた何で今までЯ国にいたんだ。囚われの身って訳でも無かっただろ」そう言うと要人Bは言った。

「建国以来、あの国の政府首脳には理性があった。だがV国の崩壊と共にV国からの資源や物資の援助供給が途絶えると、元々乏しい資源下で民衆の生活は苦しくなった。すると、ある一人の平凡な男が呟くように唱えた。後世歴史書にも載らないだろうそんな男が、R国は我々と同じ民族、同じ歴史を辿って来たはずだ、だから我々は再び一つになって共に繁栄の途を歩むべきではないのか、と」

「んだそりゃ、意味わからん」

「君がまともで良かったよ──我々穏健派は当然それに反対した。それはどちらかの国がどちらかに併合される事を意味し、R国の存続は論理的に有り得なかったからだ。必ず衝突する。命に危険が迫るまであの国に留まろうと決めていた」

「なるほど、おれたちは今もЯ国に狙われてるって事か」

「そうだ。しかし亡命者を要人として生かす事自体が彼らに口実を与える事になる。あらゆる手で併合の算段を繰り出すだろう」

「下らねえ」

 Я国はそこまで野蛮だっただろうか。要人Bの言い分は真偽の判断がし難いものだと思った。ヴィズドムィもまたそう思い、結局彼は老耄爺さんだから要所要所記憶が飛んでいるか勘違いしているのだろうと思った。ヴィズドムィはなればこそ不可解に感じたらしい。国家としても民族としてもルーツは確かに同じだと学校で学んできたのに、隣国の事は、そう言えばそれ程気にした事も無かったな、と。

 同じ頃、アストリッド女史は要人Cと別のホテルの一室で朝食を摂っていた。

「この国の名物は山菜、それと川魚。ポルチーニ茸と鮭のムニエルはどこの国でも食べられるけど、ここのは特に絶品なの。Я国ではどう?」

 そんな当たり障りの無い会話で相手の出方を伺っていると、要人Cは料理を見つめながら呟いた。

「鮭は苦手なの」

「あらそう? 気の毒ね、じゃあポルチーニ茸とパンだけでもお食べなさいな。殺されるかもなんて気を塞いでいるとお腹も空いちゃうでしょ」

「そんな悠長に考えられたら良かったわ。平和主義者の呆けはこれだから」

「平和主義……そうね、でも呆けってのは少し見当違い。あなたの国は徹底した秘密主義でいつも腹の内を探られないようにしているけど、それがきっとあなたの亡命判断のきっかけの一つなのよ。人を愛する事が追われる理由だなんて。あなたは暗殺者だもの、上辺だけでも人を愛さなければならない場面なんて沢山あったでしょう」

 そう言ってアストリッド女史は微笑み、頬杖を付いた。要人Cを見据え、こめかみを人差し指で小突きながら茶に舌鼓を打った。

 要人Cには缶入り煙草を差し出し、少しでもリラックスできるようにしてやると、彼女はそれを受け取り火を点けた。「気の利いた言葉だけじゃどうしたって心に響かない。あの人は……私に心をくれた。言葉と一緒に心をくれたの」

「詩的ね」

「逆に聞くけど、あんたには居る?」要人Cがそう繰り出すと「いますとも。ここだけの話、昔は結婚してて腹に据えかねて離婚した。心がもう一度擦り寄ったって夫婦には戻れない」

「何故離婚を」

「息子が家を出て行ったから」

「どうして」

「それさえわかればいいけど。当の息子は居ない」

「迂闊な事聞いてごめんなさい」

「いいの──私も吸う。平和の名前を冠した煙草、高いんだけど餞別」

「……気の利いた言葉ほど心には響かない」

「そうだった」

 アストリッド女史と要人Cは朝食には殆ど手を付けず、煙草を一本味わうのに終始した。

 これが終わったら楽しく暮らしたい、要人Cが語る幸せな未来に肯くアストリッド女史は、安堵しながらも複雑な心境にならざるを得なかった。身をなげうって人を騙し、殺し、陥れた人間が素朴で幸せな未来をあけすけに語る現実には、やはりどこかで憎む人間がいるのだろうか、と。

 昼頃になってヴィズドムィは要人Bと首相官邸へ向かい、首相と直接会談をする事になっていた。亡命者に対しては異例の措置だったが、ここでは要人Cも呼ばれる予定だった。不穏な動きを見せるЯ国の内情は隣国として看過する訳にはいかない。しばしの間は監視付きと言えど、目立った行動が無ければ自由は約束するとの合意を取り決めていた。

「あんたその脚、拷問の後遺症らしいな」ヴィズドムィが移動の車中で尋ねた。「そうだが、何か」と要人Bが返し、ヴィズドムィは次いで尋ねた。

「後遺症が残る程の拷問するЯ国てのは一体どんな国なんだ。閉鎖的な国だってのは知ってるよ。でも美味いものとか観光地とか、あるなら行ってみたいもんだ」と敢えて神経を逆撫でする訊き方で内情を探ってみた。

 しかし要人Bには筒抜けのようで「そんな訊き方せずとも教えてやるとも」と呆れた声で応えた。

 Я国はR国と違いV国の文化を色濃く受けた国だった。「歴史絶えなく光り続ける国へ」──そんな名演説を唱えたのは初代大統領ロマン・ヴォストロチンだった。街中には革命時代の名残であるリアリズムと未来学派たちの意匠光る細密画や建築物が点在し、それだけで観光するには申し分無い。Я国の人々はV国の国教信者が多く、教会もシュプレマティズムが顕著に表れていた。唯一至上の愛を定義され、国と家族に尽くし、禁欲的で厳格かつ義理堅い。その生活ぶりは傍目で見るには平穏で牧歌的だが、彼らの内的心情は常に燃え滾る焔のようだった。だから時折揶揄も込めて「焔鎖す草の民」と呼ばれる事さえあった。それはV国の崩壊尚、独立後も革命は今だ途上にあると信じていたからだった。Я国民にとって革命は夢物語ではなく地に足着いた現実の道だった。

「爺さんのお勧めスポットは?」と訊くと「〈黄金の針ゾロタャ・イグラ〉という巨大な尖塔だ。大理石造りで表面にはやはり光のように直線的なデザインで金箔があしらわれている。夕陽に当たるとそれはそれは美しい輝きを放った」と懐かしむ声で答えた。対しヴィズドムィが「そいつは未来学派の考え方と違うんじゃねえか」と問うと「貴重で豪奢な素材だけを見たらそうかも知らん。だが大理石も金鉱石も深い地の底で地熱によって精製された逞しさの美しい象徴なのだ。耐え忍ぶ日々を経てようやく手に入れた崇高なものには、違いない」要人Bは言う。

「爺さんよ。あんたЯ国とは付き合ってられんと亡命して来たんだよな。甚く感傷的じゃないか」

「一理ある。しかし全てではない。私はあの国で今以外の人生の全てを過ごした。もはや美しい思い出はこの老いた身にしか存在しない。祖国と同様この身もいずれ潰える。心配するな」

「嫌に予言めいてるな」

「革命の道を着実に歩んでいる国に、“予言めいてる”という物言いは些か品が無い」

「悪かったよ。亡命しても生まれ故郷だもんな」

 要人Bは眉間に皺を寄せ車外の風景を眺めながらそれきり何も語らなくなった。隣に座るヴィズドムィはその姿を横目で見ながら、確かにいつ潰えても間違い無さそうだな、などとふと思った。

 一方でアストリッド女史たちもまた移動を開始していた。首相官邸へ向けて走る道は有料の高速道路だった。「道が整備されていて走りやすい」誰とも無しに呟いたのは要人Cだった。「高速道路が整備されているのは当たり前でなくて?」アストリッド女史が答えるとそっぽを向き「そうだった」と答えた。

 彼女はそれだけでЯ国の事情の一部を感じ取ったらしい。元々民族が同じで緩やかな友好関係を結んでいたЯ国とR国だが、こと経済発展に関しては差が付いている側面があった。もしかすると彼国ではあまり良い生活ができていなかったのかもしれない。経済発展や開発推進を掲げる国の権力層だけが甘い蜜を吸うのは、開発独裁国家では顕著な兆候だとアストリッド女史は聞いた事があった。

「そう言えばこの前、家の近くの広場でお祭りがあったの。まあお祭りって言っても小さな感謝祭みたいなもので、屋台出して料理を振る舞うだけなんだけどね。向こうではそういう庶民的なお祭りはあるの?」

 アストリッド女史もまたЯ国内情を探るために問い掛けてみた。「馬鹿にしないで。それくらいある」車外に顔を向けていた要人Cが弾かれたように振り向いた。「どういうお祭り?」すると要人Cは再び車外に顔を向けた。「V国の先進的革命成功を祝うの。広場でパレードをして、農業労働者たちの作った食べ物で飲めや歌えやの大騒ぎ。昔は華々しかった。楽しくて、夢に溢れていた。今は……」そこまで言って要人Cは不意に言葉を止めた。窓に映るその表情は雷雲が覆ったように険しく、負の感情の全てをぶつけるかのような表情で、鋭い光を放つ瞳はЯ国の方角に向かれていた。アストリッド女史はその顔を見てようやく、要人Cが諜報目的でなく真の意味での亡命を望んでいる事を知った。諜報員、暗殺者として国に仕えていた彼女がそこまで祖国を恨む理由は、だからこそ知っておかなくてはと考えた。

「こんな席で聞くのも何だけど」

「何」

「Я国の内情を掴みたい。それは私だけの問題じゃない。この国の政治家たちの野心でもある。お金を受け取っている。でも今向かっている先は」

「首相官邸」

「その通り。そこで話して貰う。あなたの祖国の悲惨さを、民衆の苦しさを」

「もう喉まで出かかってる」

「それは良かった。協力に感謝する」

「でも何故?」

「何が」

「Я国は遅かれ早かれ跡形も亡くなる国だから」

「どうしてそう言えるの?」

 アストリッド女史が問うと要人Cは目を細めた。

「祖国民の感情」

「祖国に亡くなってほしい?」

「──もう死んでる」

 観念した声だった。

 アストリッド女史はその声の調子に聞き覚えがあった。数十年前、学校の課題でV国の革命成功を経験したという曾祖父の話を聞いていた時の事だった。

 アストリッド女史の曾祖父はV国人だった。彼を含む労働者たちは皇帝の宮殿を取り囲み、革命を叫びながら皇帝一家を農具で惨殺した。国を新しく建て直すにはこれまで搾取していた側から取り戻す以外に方法が無い。それは貴族や地主らの財産と資産とを奪う事であり、同時に田畑にその血を吸わせる事を意味していた。腐敗が進んだものほどさらなる成長のための堆肥として申し分無かった。

 労働者総出で彼らを探し、発見しては拘束し、その場で身ぐるみを剥がして裸に鋤を突き刺した。衣服、装飾品、調度品、屋敷、高価な食べ物、地下に隠された金銀財貨、これまでの労働者たちの働きの全てだった。そして全てを取り戻すために日夜血眼になって殺戮を繰り返した。全てを取り戻す。首を刈り田畑の周囲の柵に並べて刺し、皆で成果を誇り合った。やがて柵に刺さった頭は肉が削げ落ち干し首になった。その頃には貴族も諸侯も惨殺されるか国外逃亡してほとんど国内にはいなくなっていた。労働者たちは遂に勝利を収め、革命成功を喜んだ。

 しかしアストリッド女史の曾祖父は不可解に思っていた事があった。取り戻したものはどうやって使おう。誰が管理し、その使途を決めるのか。管理も使途も、決めるのは御上であったからその辺よく分からない。まあいいか、それもこれから決めるのだ、と。

 革命成功後、秘密部屋に隠れていた貴族一家が発見された。直ちに広場に近辺の労働者全員が集まった。雪が散らつく厳冬の季節、やはり身ぐるみを剥がして拘束し、鋤や鍬、鎌や鎚を差し向けた。誰が殺すのか話し合い、やはりここは全員で一斉に突き刺すのが良いと決まった。そして振りかぶった時だった。待て、と誰かが叫んだ。よく見ろ、皆が咄嗟に指された方を見た。貴族一家らは頭を垂れて微動だにしない。そこでアストリッド女史の曾祖父が前に一歩躍り出て一人一人確認した。

「──もう死んでる」

 アストリッド女史はその記憶を思い出した。結局革命は成功したのだろうか。V国が崩壊した今、やはりV国は革命の道半ばで倒れたという事なのではないか。そしてV国のようにと心の底から望んだЯ国の人々も、また。

「あなたの国の事情はあなたの言葉だけでは判断しかねる部分もある。でも、あなたが何を発言してもこの国であなたは自由よ。何を考えても、何を言っても、奪われるものなんて無い。それだけは安心していてほしいの」

 何が彼女を苦しめているのか、様々な話を聞いてもアストリッド女史にはついに理解しかねた。ともするとそれは、風土も文化も異なる彼国で生きてきた人間だけがわかる感傷なのかもしれない。

 要人Bと要人C、ヴィズドムィとアストリッド女史は、首相官邸に向かっていた。

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