第十話

 両者の移送車が首相官邸に到着した。要人BとCが相見え、互いに言葉を交わした。

「久し振りだな。最後に会ったのは確か」

「リガの独立戦線が展開した時、Я国内であんたを仲介に戦線派の政府役人と繋がりを得た」

「あの時か、そうか、あの時の娘が……」

「そういうの苦手なの。やめてくれる」

「年寄りならではの郷愁だがね。望みとあらばいつでも」

 それと同時にヴィズドムィとアストリッド女史も互いに状況を報告し合う。

「無事に官邸に着いて良かった」

「しかし、乗車の護衛が一人ずつってのは妙な指令だな。片やベテラン、片や素人なんて」

「そうね。でもそれについては総監の意向もある」

「と言うと?」

「既にこの国には顔も性別も判らない侵入者が潜んでいる。単独か、複数か。内通者がいる可能性もある。私たちは信頼されたからこの任務を任された訳じゃない。むしろその逆」

「何時でも監視できるように敢えて手元に置いてるって事か。そういや運転手もやたら重装備だった。何様なんだ」

「それでもこの任務はR国の名誉に関わる。私たちは無事にやり遂げるだけ」

「同感だ」

 四人は官邸付の護衛に付いて行った。物々しい雰囲気に包まれた通路では誰も口を開けず、赤絨毯を擦る靴音と要人Bの車椅子が軋む一定の旋律ばかりが鳴り響く。やがて廊下は二つに分かれた。要人を同じ控え室に置いておく訳にはいかない。その場で別れ、それぞれの部屋へと向かった。

 控え室に着くと要人Bが言った。「済まないが、誰か車椅子の調子を見てくれないか」上半身を肘掛けから乗り出して車椅子の様子を窺っている。

「車椅子?」

「先程の廊下では音がうるさかったろう。車輪の部品が外れかかっているのかもしれない。この場にいる者で自転車の修理をした事がある者は」

 ヴィズドムィの他に護衛は三人。その誰もが目を合わせるだけで挙手には至らない。そこでヴィズドムィが手を挙げた。

「ほう、君が」

「馬鹿兄貴が壊してたのをよく直したんだ。しかし車椅子なんて直した事ないぞ。自転車とは勝手が違う」

「この車椅子は自転車を改造して作った。急拵えの品だが数十年と修繕を続けて今では立派な愛車だよ。部品も自転車のをなるべく利用しているんだ。大丈夫」

 屈んで見てみると、確かに部品は自転車によく使われる類の物が見受けられた。「車椅子の後ろのポケットに工具が入っている。それを使ってくれ」と上から呼び掛けられ、彼は言われた通りにポケットを探った。すると鞣し革のケースに入った取り外し交換式の工具一式が入っていた。手入れはされているようで錆一つ付いていない。

「調子が悪い時直せるようにそこに入っているんだ。と言っても直すのはいつでも付き人の者だがね」

「まさかЯ国には車椅子も無いのか?」

「愚にもつかん問だな。私は祖国を失った。永遠に。愛すべき大地は色を喪い、伴侶はもはやこの車椅子だけだ。脚が不自由になってからというもの、片時も離れる事の無かった車椅子を買い換えろというのは、ともすると育った母国を異にするからだろうか」

 ヴィズドムィは押し黙った。跋悪く頭を掻く。

「悪かった。こいつ直したら機嫌直してくれるか、爺さんよ」

「考えておこう」

 Я国の人間は皆かくも回りくどい話し方を好むのだろうか。彼はそう思いながらも工具を取り、部品の修繕に取り掛かった。

 思いの外細かな部品が傷みやすりを掛ける必要が生じたため、車椅子の修繕には三十分かかった。終わってみれば大手術だったなと一息吐くヴィズドムィ。少し移動してみてくれと試験運転を申し出、要人Bが頷いて車椅子を動かすと、甲高く響く音はつゆとも鳴らなくなった。

「恐れ入ったよ。椅子を引く力が少し軽くなったようだ」

「気分の方は?」

「とっくの昔に。そうだ、少し表へ出て休んでくるといい。首相との会談にはまだ時間があるだろう」

「仕事中だ。それに他の奴らも」ヴィズドムィは突然の申し出に他の護衛を見た。すると、他の護衛たちも車椅子の修繕を労いたいのか、快く休憩中の仕事を引き受けてくれた。皆一様に頷き彼への休息を促した。「じゃあ行ってこようかな。ちょうど用足しにも行きたかったんだ」

「それはいい。お礼に愛煙の煙草もプレゼントしよう。Я国では有名な葉巻だ」そう言って要人Bは煙草を寄越した。見た事も聞いた事も無い銘柄だったが、中央二つのダイヤモンド型の箔押しと青いラインが爽やかな印象を与えてくれた。

「気が利くな。ありがとよ」

「私の方こそ。愛車を直してくれてありがとう」


ЯR


 手洗場を出た後、出入口に向かいアプローチに腰を掛け、受け取った煙草に火を点けながら口当たりの軽さに煙を燻らしていると、ふと官邸の外の喧騒が気になった。救急車と警察車両のサイレンが喧しい。ヴィズドムィ以外の同僚は要人警護の任をさて置き日常業務に勤しんでいる。

 確かにV国の崩壊後、R国は西欧諸国のような民主主義と高等教育に力を注いできてはいたが、どうやらそれだけでは如何ともし難い禍根がR国には依然残っているようだった。それこそ同じ国から袂を分かったЯ国もまたその一つなのだろう。あるいはV国が束の間見せてくれた淡い未来への夢と希望が、後を引いてこの世代に負の遺産を遺している。Я国の件と言え亡命者の件と言え、きな臭い時代になってきたものだった。

 死んじまったもんを頭ごなしに責めるのもな──見えない力が吐き出した煙をそよいだ。この煙草にあってさもありなん、余韻も何も感じない。しかしけったいな、ずっと吸っても飽きのこない味。要人Bが感じているものもこの煙草の味わいと似たものなのだろうか。遠い昔に過ぎ去った理想郷を望むものか、それとも哀れむものか。ヴィズドムィは車椅子の修繕をしている合間の事を思い出そうとした。しかし、何を考えていたのかただ我武者羅に作業に夢中になっていた。熱中している間なら知らず後頭部を撃ち抜かれても気付かない。要人Bが気付いてしまったのは、だからこそ自身に宿る焔が消え失せた事なのだ。口の中に残る余韻だけが今はささやかなこの人生──とでも言うように、それでも振り返っては美しかった頃の夕日を思い出してしまう寂しげな日々の事を。

 夕日。

 太陽は水平線の彼方に消える際、ほんの一瞬眩く煌めいて沈む。しかし何の事は無い、水面への光の反射と雲を通した薄明光線によって見かけ上そのように見えるだけの事だった。

「あら、こんな所で」

「お疲れさん」

 その時現れたのはアストリッド女史だった。

「あんたも休憩しろって言われたか?」

「こんな時に要人の傍を離れるなんてと突っ撥ねたけど、他の護衛たちにも任せてくれと言われて」

「ふうん」

 アストリッド女史も胸ポケットから紺色の箱を取り出し、クロムメッキ輝くV国陸軍製オイルライターで煙草に火を点け吸い始めた。「あなたの煙草は何て言うの」、「知らねえ。Я国の有名煙草なんだと。二つのダイヤモンドの箔押しと青いラインが書かれた箱だった」そう言って箱を取り出して見せると「〈PARTNER〉ね」との返答。

「〈PARTNER〉?」

「相棒って意味」

「相棒……」

 ヴィズドムィは尚続くサイレンのハーモニーを聴き流しつつ煙を吐いて訊ねた。「なあ、黄金の針ゾロタャ・イグラって知ってるか」

「Я国の観光スポット。それが?」

「車中で爺さんに聞いたら思い出の地なんだと。夕日に当たると綺麗らしい」

「あのデザインならそうかもね」

 アストリッド女史は一度大きな溜息を吐いて煙草を携帯灰皿で揉み消す。アプローチの手摺に半身を預け追加の一本を吸い始めた。

 黄金の針はЯ国の慰霊碑、それも革命の際に命を落としたたちのものだった。私兵と銃火器を有する貴族相手に鍬や鋤で立ち向かうには必ず犠牲が出る。彼らを弔うにはその名を刻み続ける事、記憶の内に忘れず留め、ふとした折に再びその名を思い出せるようにする事だった。彼等が憎しみを糧に革命へ針路を向けたように、果てしなく歩み続ける旅路には犠牲となった者たちの願いが必要だった。しかし何が契機か、その願いさえも忘れ去られようとしている。

 アストリッド女史は車中でさらにЯ国内情について要人Cに探りを入れていた。彼女が車中と控え室で語ったのは、Я国では革命期を代表する植物学者及び作家であるローベルト・クラーギンが九十歳で逝去した後、彼の借家から大量の未発表原稿が発見されたという件だった。その原稿の一部には黄金の針の鎮魂詩と同様のものもあった。クラーギンは黄金の針建立の立役者であり、第一人者だったという。

 ラビリンスクで生まれた彼は現地での高校卒業を機に単身Я国の大学に渡り、そこで級友らと共に勉学に励む傍ら、秘密裏に革命を支援する方法について日々語り合っていたのだという。そもそもЯ国民として人々に認識されていたクラーギンが、ラビリンスク出身である情報そのものが驚きを持って人々に迎えられたためであった。

 今日Я国内でクラーギンの詩は幼子すら諳んじる事ができる。しかし、彼が未発表原稿の中に含ませていた遺書らしき手紙に書かれていたのは、華々しい経歴とは裏腹の陰鬱とした苦悩だった。

 善きにおいては共感に満たされた読者に過剰に持ち上げられ、悪しきにおいては政治的批評が付き纏い地の底まで叩き落とされる。クラーギンが死の淵に吐露した苦悩はそれだった。同胞は経典の諸文の如く無神経に崇め奉り、諸外国のジャーナリストは革命が齎した国家と国民の歪な関係を嘆いているのだとあげつらった。彼はそのどちらも否定した。時代の社会情勢や感情の趨勢によって作品が評価される事ほど作家にとって屈辱的な事は無いと彼は語っていた。そうなればこそ、彼が書くものは必ず現代の、それも現在を扱うものだった。

 彼は運が良かった、と要人Cが言った。

 空白の時代が終わりを迎えた、と。

「過去でも未来でもない、どっちつかずで宙ぶらりんな現在いまの事をクラーギンはそう表現した。過去は既に決定していて未来は望めば描けるのに、今この瞬間だけ、決定されていなければ望んで描いている訳でも無い」

 アスティから聞いたが、現在ってのは鉛筆の芯でも油性ペンの線でもないんだってよ、ヴィズドムィが酔いに任せるように呟いた。

「だからこそクラーギンは現在を真摯に、丁寧に生きようとした。消えるかもしれないし残るかもしれない、未来を切望してもなお不確かなその時代を。その姿がЯ国の人たちにとってはますます狂信に足るものだったけど」

 要人Cは続けた。Я国内に蔓延しているのは、時代を象徴する人物の死による一時代の終焉と絶望感、そしてそれに伴い人々の間で表面化するようになった決定的な愛の喪失だった。V国の革命以後、Я国の人々は数十年ぶりに、心までも共にした愛すべき仲間の存在を未来永劫喪うという事が何であるかを思い出したのだった。革命に熱狂し前へ前へと歩みを止めなかった人々が、ここでようやく一つ振り返る機会を得た。扉を叩くたび耳をそばだてて向こう側の返事を待つ事。革命とは、過去とは、同胞とは、それによって我々が愛しているものとは何であるのか、その答えを見出すために。

「愛している事実を、愛さなければならない」 

 私はその言葉を放つヴィズドムィと要人Cが重なって見えた。見た事も聞いた事も無いその人間の姿を。

 Я国に奇妙な思想の流布が現れ始めたのはそれからだった。革命期のような熱が民衆に伝わり、挙句の果てに「R国と再び一つになろう」という者まで出て来る始末だった。そしてどういう訳か、その輿論が急速に沸き上がり始めていた。両国が分離する以前を知っている者は健在していたが、分離時にどのような感慨を抱いていたか覚えている者は殆どいなかった。V国崩壊や分離独立でさえЯ国民にとっては革命途上の些末な出来事に過ぎなかった。存命の限り、離反した者は同胞ではなかった。

「Я国の人々は奪われ続けた過去と同じように喪失する事を恐れている、だからあたしが一線を越えないように止める役を買って出るんだって。彼女そう言っていた」

「大層な事だな。爺さんも、あの歳でよくやるよ」

 そこでアストリッド女史は不思議なものを見るような目でヴィズドムィを見た。

「彼らは革命に生きる人たち。だから革命の理念と相反する事は命懸けで退けようとする」

 そして続けた。

「情熱は死を恐れないのかもしれない」

 一息吐いた煙は流されず留まった。そして、そんなもんかな、とヴィズドムィは思った。要人Bからは情熱というより怨嗟のようなものを感じた。

 ふとヴィズドムィが腕時計に目をやった。休憩を貰ってから十五分が経とうとしていた。「そろそろ戻らねえと」

 アストリッド女史は、私はこれを吸い終わったら行く、と告げ二人はそこで別れた。

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