第十一話
見た事も無い愛だけが
見た事も無い愛だけが 私の中にいつまでも
凍り付いた
小さき胸の
爪先立ててとどまりつづける
その痛みたるや 痛みたるや
今日はか弱き足の平で 霜の柱を踏み付けた
貴女の顔を見たかのように
「爺さんよ」
「護衛君か」
「その詩、何て言うんだ」
「〈
「悲しいな」
「それは袂を分かつ我々の背後にあるものの違いだろう」
「あんたがスパイだったのか」
ヴィズドムィが控え室に戻ると、そこには二本足で
「煙草なんて普段吸わねえんだ」ヴィズドムィは眉間に力を込め険しい上目遣いになって挑発した。
「行動で騙すのは難しい」
車椅子を必要としない要人Bはヴィズドムィよりも身長が高かった。車椅子の彼はいつも猫背で口角と眉尻を下げ気味にし、脚をくの字に曲げ、さも二本の木偶の坊を下半身にぶら下げた半死人かのように振舞っていた。
ヴィズドムィは拳銃を抜いて問うた。
「いつから?」
「いつからだと思う」
「質問に質問で返すな、感心しねえ」
要人Bは肩越しに痩せた頬で深い笑窪を作った。ゆったりとした足取りで倒れる他の護衛の一人に近付き、その場で屈んで首筋に指を這わせた。張り付けた笑顔を崩しもせず、彼はそうして一人ひとり確かめて回り、最後に拳銃を掲げて向けるヴィズドムィに近寄った。しかしヴィズドムィは近付く彼を威嚇する事もできず、手に持つ拳銃は優しく退けられてしまった。お互い殊更な敵意は無い事が窺え、僅かに肩の力を抜いた。
要人Bは部屋の中を彷徨き始めた。両手を腰の後ろで組み、失くし物を探すか物思いに耽るように首を傾げていた。しかし背筋は伸ばされ、車椅子を必要とする人間にはとても見えなかった。
「私は確かに若い頃激しい拷問を受けた、脚には酷い障害を負った。急拵えの車椅子と悲しみの果てに暮れながら、しかしもう一度歩かねばと密かな場所で決心した。苦しみと腑甲斐無さとに幾度も巡り合うその道行きは数十年と、人ひとりの人生にあって決して短くはない。だがそれは甘い焼き菓子に包まれた胡桃のひと欠片のように、ささやかに与えられた
「あんたが失うのは祖国なのか。それともあんた自身なのか」
ヴィズドムィが問うた。意識は下ろした拳銃に向かっていた。
「我が祖国、祖国こそ我。人間は真実だが、国家は時に真理である。失われゆくあるのは祖国と共に過ごした肉体と、内に宿された記憶の全て。或いは人はそれをこそ〈
「要人Cは。彼女もスパイなのか」ヴィズドムィは続けた。「その車椅子は相棒じゃないのか」
「R国の人間はうんざりする質問ばかりだ、訊ねたところで知りようもない事を次々と」要人Bは溜め息を吐きながら車椅子を押し、部屋の中央まで行くとそれに身体を預けた。ゆったりとソファに腰掛けるように、深い笑顔を張り付けたまま。「護衛君の性格、それとも職業病かね」
ヴィズドムィは口を噤んだ。
「本当は会談の場で披露しようと思っていたが、君にだけは教えよう。私の体は起爆剤だ。この腹にものが埋め込まれている。これが少々重くてね、車椅子でのカモフラージュはとても上手くいった。それに知っているかね。子どもの腰に爆薬を巻き付けて、大人に抱き上げられた時起爆させたり、飛行機を乗っ取って任意の場所へ墜落したり──実に世界には様々な方法があるが、私の場合は一世一代の大勝負だ。代役や換えが利かない」要人Bは笑った。
ヴィズドムィは下ろしていた拳銃を再び両手で構え引き金に指を掛けた。ここで彼を撃つべきか、それとも捕らえるべきか、彼の言う事は信じるべきか、どこまでが真実で、どこまでが嘘なのか。虚構を着飾った己を貫き通した彼の強靭な意志に、ヴィズドムィは自分自身の一切の勘が信用できなくなってしまった。しかしこのまま会談場所へ向かわせる事もできない。時間を稼げば来ない事を訝しんだ他の護衛が来るだろうか。
「銃口が震えているな、君はそれ程聡明ではないようだ。これ以上君たちに時間は与えない。私は私の脚で歩き、もはや助力を必要としない。君たちが止めようと、私の歩みは止まらない」
要人Bは再び立ち上がった。長旅に労いの言葉を掛けるように車椅子の肘掛けを愛おしげに撫でた。超然とした態度で全てを決意した表情はヴィズドムィなどとうに見えていなかった。彼に見えていたのは亡びゆく過去と再構築される未来だった。
そうして要人Bが近付き相対すると胸元から何かを取り出した──〈PARTNER〉。彼はヴィズドムィの胸ポケットに差し入れると流れるまま二度肩を叩いて別れを告げた。そのまますれ違い、彼は扉へと向かった。ここで要人Bを行かせてしまってはもはや彼を止められない。ヴィズドムィはそう思った。思ってはいたが行動に移せない。彼を止めなければならないのに、彼の強靭な意志が成し遂げる結末を見てみたいと思ってしまった。
ヴィズドムィはじっとりと汗で濡れるグリップを握り直した。要人Bが行おうとしているのはЯ国によるR国侵略だ。何故わざわざR国内で自爆テロを引き起こす事でそれを全うできると踏んだのか。要人Bの物言いは他者を煙に巻き、理解不能な事もあるし、十全には判断しかねる事もあったが、彼は自爆テロを止めてもらいたいのだろうか。しかし、車椅子から立ち上がった様子は決意した人間のそれであって止める者は容赦しないと、自らが望んだ結末を手繰り寄せようとしている風だった。本来なら歩ける事を、ここに至るまで何者にも打ち明けずこの日を迎えた要人Bは、一体何を生み出そうとしているのか。
ここでふと、アストリッド女史は何を言っていたかヴィズドムィは気になった。要人Cと共に行動している彼女が先程話していた事。革命に生きる者は革命を愛そうとする、革命の理念に相反する事は命を懸けてでも退けようとする、そして情熱は死を恐れない。
愛している事実を、愛さなければならない。
その時扉の開く音がした。ヴィズドムィは音に反応するように振り返った。扉の先には要人Bを見上げる要人Cの姿があった。その背後にはアストリッド女史の姿。
「会談直前だが私に用事でも。レイラ・パノーヴァ」
「そう、あんたに用がある。アルカジイ・レゾンスキー」
何が起こっているのかヴィズドムィは理解が追い付かなかった。要人Cがアストリッド女史と共にいるのはまだ分別がついたが、そのアストリッド女史が拳銃を構え、要人Cの肩越しに要人Bの頭を狙っていたのだった。頭の悪い夢でも見ているかのような光景に絶句する他無く、ヴィズドムィは拳銃を構える事も忘れてしまった。
「用件は、何かね」レゾンスキーが問うた。
「あんたを止めに来た」パノーヴァが答え、アストリッド女史が続けた。
「彼女がЯ国から亡命する際、知人の閣僚補佐から伝言を預かった。大統領令乙種第一五六号が秘密裏に発令されたと」
「それは何だ」
「パブロヴァツク市への強襲を企図する命令。少数精鋭で、ほぼ準備が整ってる」
「下らん。大した軍事力も無いのに」
「軍事力の差で勝つつもりは無い。それにR国内には既に複数の諜報員が紛れ込んでいる。内側からR国を併合へ導こうとする存在と、両国の関係を今まで通りに保とうとする存在」
「それならば」レゾンスキーが問うた。「我々はどちらになる?」
「愚問を」パノーヴァが言い放った。「あんたがやろうとしてる事は両国を不幸にする」
「不幸? 今まで私が味わわされてきた辛酸をお前如きに分かるまい。体制に与して甘い蜜を吸ってきたお前なぞに」
「体制に与する? あたしが? 自分を虚妄に閉じ込めて現実が見えなくなった耄碌
レゾンスキーは
「質問に答えないか、小童が……」
背後で待つアストリッド女史が険しい表情を浮かべ拳銃を強く構えた。
「万が一私を止められるとするなら、それは護衛君だけだぞ」
不安定な笑みを浮かべたレゾンスキーが肩越しにヴィズドムィを見た。パノーヴァもアストリッド女史も彼に視線を向け、怪訝な表情を見せた。そこで彼はようやく我に返った。未だ理解の追い付かない頭でヴィズドムィは必死に考えた。
要人B、即ちレゾンスキーが車椅子を使うのは演技だった。彼はそうして自らに虚仮を纏い、自ずから立てる事を他者に隠して今日まで生きてきた。彼はこの機に乗じて自爆テロを引き起こそうとしている。他でもない、祖国Я国がR国を侵略する口実を作り出すために。翻って要人C、即ちパノーヴァは反対にЯ国の行いを止めようとしている。レゾンスキーの企みに気付き、それが誤ちであると踏んで彼の凶行を止めようと。
「パノーヴァとか言ったな」
「ええ」
「R国人の元軍人と恋仲に落ちて、そいつと安心して生きたいから亡命したんじゃなかったのか。本当の目的はそっちだろう」
パノーヴァが驚きに目を見開いた。そして彼女もまたアストリッド女史に肩越しで視線を送った。アストリッド女史はまた跋の悪そうな顔をしてヴィズドムィを見た。
「あなたには話した事無かったわね。私が警視正の地位に居る理由。私が元軍人なの。仕事の一環で警官たちにも近接格闘術や銃の扱い方を教えていた、その伝手で。レイラに出会ったのはリガの独立戦線が展開した時、支援国のひとつとしてR国軍派遣が閣議決定されたのがきっかけ。彼女にはこれまでも色々な面で助け、助けられてきた」
「冗談きついぜアスティ。あんたもスパイだったのか」ヴィズドムィが溜め息混じりに吐き捨てた。「それと今のЯ国に何の関係があるんだ」
「私同様この二人も身の振り方を弁えなければならなかった」
レゾンスキーがパノーヴァから両手を離し、慮ったように言った。
Я国で愛と呼べるものは体制によって定義付けられている。つまり、体制が愛と認めないものは人々にとっても愛ではなく、時に罰せられる事もある歪なものだった。様々で多様な愛の形が許されていたのはヴォストロチン大統領が病に臥せられるまでの事だった。
革命の理念は国民同士で共有されていたが、新たな国と生まれ変わる際に理念だけでは擦り合わせの利かない部分も生じた。些細で感情的な軋轢を調整するには法律を決めて守らせれば良かった。しかし、Я国政府は余りにも安易に物事を進め過ぎた。ともするとそれが受け容れられてきたのは革命理念を共有していたからなのか、あるいは擦り合わせる事によって生じた軋轢を人々が気付いていなかっただけなのか。革命よりも複雑で細やかな事実が、長い時間をかけていつの間にか変質してしまったという巨視的事実そのものを、人々はなかなか認識できないでいた。見た事も無い愛を望むのが革命理念の原点であった筈なのに、知らずの内に冷めてしまった愛を偏愛しなければならない状況に陥っていた。
──もしも他の者たちも、あなたや、あなた方と、同じ夢を見たいと感じたなら、それはもはや夢ではない! それは
ふと脳裏に浮かんだそれはヴォストロチン大統領が革命成功二十五周年記念式典で放った言葉だった。
「お前ら、自分を騙してまで訪れもしない未来を手に入れたかったのか」
すかさずレゾンスキーが反論した。
「それは違う。恐らくこの二人も。我々は生きたい。ただ明らかな未来を生きていたい。見た事も無い未来を生きるには、我々自身が未来を編み出し、その生き方を模倣する事だ。尊く健やかで汚れ無い毎日を。しかし私にとっては、祖国が完膚無きまでに打ち滅ぼされようと、今まさにこの日々が少しばかり自らを騙す事になろうと、問題は何一つ無いのだ」
ヴィズドムィはレゾンスキー、次いでアストリッド女史とパノーヴァを見やると苦渋の表情を浮かべた。「……俺にこんなもん押し付けやがって」懐から取り出した〈PARTNER〉を手の平に乗せ、見詰めながら「俺がどちらに付くのか気になってるみたいだな」そう言い、躊躇い無く握り潰して部屋の隅に放り投げた。拳銃を構え直し、銃口はアルカジイ・レゾンスキーに向けられた。
「護衛君。君は何故そう考える」
「爺さんの脚、ずっと空回りしてんじゃねえのか」
彼はゆっくりとヴィズドムィへと体を翻した。諦めのような速さで。
「本来なら憎むにすら値しないものを、憎まざるを得ない境遇を。万民よ鋼鉄の命あれ。皆と声高に叫んだあの日の胸の高鳴りを。護衛君……然れば君には永劫わかるまい」
ヴィズドムィはその言葉に一瞬だけ違和感を覚えた。しかし直ぐに雑念を振り払い、彼はひと息に引き金を引いた。
弾丸は彼の心臓を撃ち抜いた。
アルカジイ・レゾンスキーは八十九歳、即死だった。
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