第五話

 開店はいつも十一時だ。それから十四時まで昼の営業を続け、三時間の中休みと夜間営業の準備を挟み、そこからさらに零時まで休憩無しに営業する。閉店はラストオーダー次第で多少前後するが、概ね半日程度の営業を保っている。ピーク時以外の時間帯は読書をする余裕もあり、営業時間の割に身体を壊さず続けられている。確かに一人で店を切り盛りするのは並大抵の事ではないが、かつては数日一切を寝食無しで過ごすような苛烈な時代もあったので、その頃と比べたら大分楽な方ではあった。

 定休日の明くる日、私はやはり十一時に店を開けていた。起床が八時で開店までに書類上のあれこれをしてきたので、コーヒーによるカフェイン摂取が無意識に推奨されてしまう。それで私は肴に昨日中途まで読んでいた推理小説を開いた──というところで来店者を告げる呼び鈴が一度鳴った。見やるとそこには一昨日も来たホームレス男、ヴィズドムィが立っていた。彼は私を見るなり気さくな様子で片手を上げてこちらに向かって来た。

「やあ、おはよう。やあ……」

「酒だろう。ほら」

「ああ、これこれ」

 この間も渡したヴォトカのボトルを取り出してやったが、もしや安酒しか求めないつもりだろうか。酔えれば何でもいいという人間は確かに少なくないし、この広い世界には工業用アルコールを薄めて飲むという一線気をたがえた者もいるらしい。午後にも満たない時分から真っ先に支給品の安酒を出されて満願成就たる表情をする人間を見るのは初めてだが、次はもう少し良い酒を提供してみて彼がどんな反応をするのかを観察するのも一興ではなかろうか。

「貴方はなぜ、この街でホームレスに?」

 そんな事を考えながらふと思い付いたのは素朴な疑問だった。ラビリンスクは地理的構造が異様なまでに複雑な事と出入りが容易ではない事を除けば、人々に福利厚生の行き届いた住み良い街だった。そのような街でホームレスになるというのは、基本的に煩雑な手続きを毛嫌いして辞退しているか、さもなければ市民権の無い侵入者という事になる。人々の間でそこそこ噂になっているにもかかわらず──手首にGPSを身に付けている限り──ヴィズドムィは前者だと考えられる。そうして出て来た質問に彼は答えた。

「人探しをしてたら、いつの間にやら身体が錆び付いていただけさ」

 得心があって溜め息を吐いた。この街は確かに人探しが容易ではない。この街ではいつも誰かが道に迷っている。そうして何らかを探し求めている間に身体が錆び付いてしまうというのは比喩表現として納得が行くし、彼の見窄らしい姿形がまた如実に再現しているのだった。それで私は思わずにやりとした。

「なかなかのユーモアをお持ちのようだが、この街で人探しは一生かかっても難しい。そう考えはしないか」

 すると彼はグラスに適当に注がれたヴォトカを一気飲みした。鼻から息を吐き出し、強烈なアルコールの臭気を逃がした。

「実に、これは誰にも打ち明けた事ないんだが……」と溜め息を漏らしつつそのように口走った。「もう自分の家がどこだったのかも忘れちまってね、それで仕方無くホームレスなんてやってるんだ。毎日毎日人探しのために街を彷徨うろついてたら定住地なんてあって無いようなもんだな」

「どうしてこの街に」

「ラビリンスクは迷宮の街だ。世界中の国を巡って、都市を巡って村を巡って、山や野を掻き分けて、見た事無い景色に辿り着いたり、野垂れ死にそうになったり、色々な事があってそれでも見つからず、最後の秘境がこの街だった」

 最後の秘境がこの街、という物言いには少なからず面白さがあり、思わず口端が吊り上がった。彼のこの街への評価はつくづく的を射ている。

「そういうあんたはどうしてこの街に」

 心中ほくそ笑んでいると、今度は彼から問い掛けられた。私がこの街に来た目的、改めて考えてみるが思い出すには難しい。私がこの街に来てから何度も季節も跨いできた。ともするとそれはたったの一年間かもしれないし、もう数十年と経っているのかもしれない。この街で時の経過を把握するのは難しく、この街で二十四時間と七日間以外に必要な時間感覚は見当たらなかった。真円のときがこの街には存在し、突き当たりはいつも夜の零時に訪れる。空の変化が実はプロジェクターで映し出されている幻影と明らかにされたところで、それを確かめる術も無い。つまり、私はこの街以外の空がどんなものだったか忘れていたのだった。

 その事を告げると彼はヴォトカを再び注いで一気に煽った。喉の熱さで嘔吐えずいたのか、大きく吃逆しゃっくりをしてみせた。そして焼け付いた嗄声させいのまま吐き捨てるように言った。「この街の人間は、どうも忘れっぽいよな」その評価も間違いではない。つい昨日、友人に対して忘れるべきだと忠告をした私が肯くような事でもないが。

「帰り道を覚えるので精一杯だから、というのは?」

 すると彼は伸び切った髭に覆われた口元に薄く弧を描いた。「そいつは面白い。でもおれはわかるんだ。この街のやつらみんな、忘れたい何かがある。そういう顔をしている」

「では私はどうだろう」

「あんたは……忘れたってよりは失ったって感じだな。思ったより間の抜けた表情をしてるよ」

 彼は三杯目のヴォトカをグラスに注いでまた一気に煽いだ。大きな溜め息で呼気を逃がし、強いアルコール臭が漂う。そこで私は気が付いた。私はこの男の洞察力に自分の何らかを見出してもらおうとしているのだと。しかしそれは正しいのだろうか。代わりに私は「朝からよくそんなに飲めるな」と男に忠告し、ヴォトカを取り上げようとした。彼は咄嗟に手を差し出して私より先に壜を引ったくると「くれたもんは返さねえよ」としたり顔で白い歯を見せて笑った。恐らく彼は一壜空けるまで立ち去らないだろう。淹れていたコーヒーと開こうとしていた本で、彼が飲み干すのを待つ事にした。しかしそれはまた彼の思い掛けない一言で中断されてしまう。

「こんな事言うのもあんだが、今日はちょっとした身の上話に聞き耳立ててくれないか」

 まるで独り言だった。呂律が少し回っておらず、酔いに任せている事が窺えた。視線だけ彼に寄せて一瞥するが、やはり私の方など目もくれていない。穏やかに開いた両目を虚空に向けもの思いに耽る老人のように頬杖をついていた。

 こういう手合いの客は彼のような人間でなくとも頻繁に見受けられる。特に夜に多く、一人でやって来ておもむろにカウンター席に座り、独り言よろしく注文してから、私が目の前にいる事を無視して勝手に独白を始める。彼らは私が聞いているものと思いながら話を進め、気の済むまで語り尽くした後、勘定だけ置いて無言で去ってゆくのだった。彼もまたそうなのだろう。ほんの少し違うのは彼がホームレスで、時分にして朝だという事だった。

 ホームレス男ヴィズドムィ家無き人ヴィズドムィとなった経緯には確かに興味があった。私の故郷でもホームレスは夢物語の冒険者あるいは現実に対する挑戦者という文化的な側面があり、つまるところホームレスは架空の存在に等しくあった節がある。存在自体が“有り得ない”ものとされ、時に面白おかしく揶揄される事もあった。しかしそのホームレスがラビリンスク以外、そして私の故郷以外においては比較的日常的に見掛ける事もあるというのだから驚きだ。それこそましてやここにあって──と考えるのは無粋だろうか。

 私は何度か瞬きだけを返した。彼は視界の端でそれを見届けたのか、静かに口を動かし始めた。

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