第四話

 会話も途切れしばらく大通りを道なりに進んだ後、路地に入って何度か六つ辻を曲がり、橋を渡ってタクシーはようやく目的地に到着した。

 〈古い思い出の宿亭〉は五番大通り北側の一二一番地に位置しており、煉瓦と石造りを主としたラビリンスク建築の中でも異質な藁と木組みの土造りをしている。女将のニューシャはアジアの遊牧民族の出身だからこれは大いに頷ける。

「こんな珍しい建物があったなんて」窓を開け見上げるようにその建物を観察した運転手がそう呟いた。

「友人が経営してるんだ」

「宿屋かい?」と運転手は窓から顔を背け、今度は肩とシート越しに私を見た。会社支給らしい制服と制帽でわからなかったが、その横顔は私より随分若く見えた。二十代前半か、下手をすると十代の半ばにも見える童顔だった。この街に来てからそれ程日が経っていないのかもしれない。

「民宿だな。女将が食事を作ってる」

「へえ。ぼくも後で一泊しようかな」

 そこでほんの少し魔が差して「ここだけの話、この店に入って開口一番『神の賜物フェジューシェニカに乾杯!』と叫ぶと夕食と一泊が只になる」などと口から出任せを言ってみた。この街に慣れていない若者の心を擽るには、一杯食わせる事もまた持つべき大事なユーモアだろう。

「それあんたの名前か?」運転手が訝しげに問い、私は即答した。「違うよ」

「なんだよ。でも一度は試させてもらおうかな」

 私は運賃を支払い車を降りた。背後でタクシーが走り去り、店の扉をくぐった。「エリューシュカ。ご無沙汰だ」

「久し振り。元気してた?」

 ニューシャは不在らしく、代わりにエリューシュカが店番をしていたらしい。目の前にある受付カウンターの向こうに座って手持ち無沙汰な様子で爪の手入れをしていた。年頃の女の子は自身の見かけを気にして自分磨きに精を出し始めると言うが、彼女もそうした年頃を大いに楽しんでいるに違い無い。だが、爪を手入れしている彼女の様子は真剣そのもので、近づき難い印象すらあった。「そんな横柄な態度で客を待つものじゃない」と忠告すると「本読んで呼び鈴鳴っても見向きもしない人に言われたくない」と辛辣な指摘が飛んできた。「カフェは孤独で、孤高の場所だ。歴史的にもそうなんだよ。あらゆる議論の発端であり論争の火種になりうる。皆が集まりつつも決して相容れない、然るべくして個我が独立する唯一の空間だ。君はカフェの何たるかを知らない」

「出たよ、口だけ達者な堅物が」彼女はうんざりした様子で私を一瞥してから「そんなんでよく永住権取れたよね」と言い放ち、爪の手入れに戻った。

 確かにラビリンスクの永住権を取得するには幾度と無く適性検査を経なければならないが、現にこうして永住できてしまっているのだから仕方ない。私は彼女に、君の方こそそんな態度で看板たる店番を任せられるとはね、と言うと、ママ買い物に出かけてるから、と憮然とした声で告げられた。なるほどニューシャが不在なのは今晩の夕飯の材料を買いに行ったという事らしい。彼女の背後の壁に掛けられた鳩時計は十五時を回ったところだった。散歩をしていると時が経つのをどうも忘れてしまいがちになる。朝をクヴァースとブリヌイの軽食で済ませてからだいぶ経っているあたり、気付けば小腹も空いているように感じた。

「折角来たし何か食べて行こう」

「何も無いよ。昨日の夕飯の残りもお昼で全部食べちゃったし」

「じゃあそうだな、君の手料理なんかどうだ」

「爪いじってる相手にそれ言う?」と呆れた顔で言うエリューシュカ。それもそうかと思い、しかし小腹の空く感じは不愉快でもあった。その時、不意に後ろの、私が入ってきた扉が開く音がした。

「あらま」振り返るとそこには待ち望んでいたニューシャが食材で満載の荷物を両腕に抱えて立っていた。「お久し振りです」そう言って私は彼女を手助けしようと荷物の一つを持つ。「お元気そうで何よりだ」彼女は荷物を下ろして手を二度はたき鳴らし、ひと仕事終えたような声で挨拶した。「まあまあ、来るなら来るって連絡くらいしてくれりゃ良かったのに。こんな馬鹿娘が一人で店番してたんじゃさぞかし不安になったでしょ」

「いえ、いつお客さんが来てもいいようにこうして受付で座り込みなのですから、我慢強い子ですよ」

「そうかねえ。エリューシュカ、ちゃんと挨拶した?」

「いらっしゃいとは言った」

「これだからこの娘は」

 それから、こんな時間だもの、何か召し上がって行ってちょうだいな、と提案するニューシャに私はこれ幸いと言わんばかりに頷いた。元より小腹が空いていたのだ。それに、ニューシャの手料理はいつ食べても唸るほど美味しい。

 連れて来られた食堂には他にも数名の宿泊客がいた。ティーカップを傾けつつ新聞に読み耽る青年風の男性、パソコンを開きつつ熱心に打ち込みをしている眼鏡を掛けた女性、ラビリンスク観光に来ているらしい熟年夫婦がテーブルで向かい合い、街のガイドブックを間にして和やかに談笑している。平日昼間だというのになかなかの盛況ぶりだった。私も一角の空席を陣取ってメニュー表から蜂蜜ケーキメドヴィクを選びニューシャに告げた。作り置きがあったのかすぐに持って来てくれた彼女に感謝しつつ、内心さりげ無く“神の賜物フェジューシェニカに乾杯!”と呟くと、サービスでコーヒーも付けてくれた。それからニューシャは夕飯の支度を始めなきゃいけないからゆっくりして行ってねと言い残し、厨房の方へと踵を返して行った。なかなかどうして、口から出任せの合言葉が効力を発しているじゃないかとコーヒーを飲みながら思った。

 彼女が淹れるものはインスタントをドリップした物だ。それでも最近の物は香りが良く立ち、酸味もきちんと感じられる本格志向になりつつある。カフェを経営する身としてはこうした進歩は警戒しなければならないが、そもそもこの街で豆から挽いて淹れるものを提供できる店はさほど多くも無く、支給品を提供しているだけの安易で拙劣とした店もしばしばだった。確かに美味しいし香りも豊かだが、この程度の質に背後を取られる訳にはいかない。そしてコーヒーに反し蜂蜜ケーキメドヴィクは手作りらしく、蜂蜜の甘く優しい口当たりがさすがニューシャと言うべき完成度だった。故郷の天山蜂蜜を利用しているのかもしれない。

 程無くしてケーキも食べ終わり、私は席を立った。厨房の入口へ向かいニューシャへと一声かける。ありがとう。久々に食べられて嬉しかったよ。すると彼女、忙しいのか作業しながら叫ぶように答えた。こっちこそありがとうね、またたまに覗きに来てくれるとあたしも嬉しいよ。その言葉を聞いて私は食堂を後にした。受付には爪の手入れを終えたエリューシュカが相変わらず呆とした様子で来訪客を待っており、その手ではキャストラビが弄ばれていた。ラビリンスクでは暇潰しとして最も愛される知恵の輪だった。裏表に異なる図面の迷路が刻まれたコインからC字型のリングを脱出させるパズル。

「それ、解いた事があるのか」

「何回か。でもしばらく経ってもっかいやってみると忘れてるんだよね」

「今日も?」

「うんまあ」

 そうしてしばらくキャストラビを弄り回してやってみるが、やはり忘れてしまったのか彼女はだんだん険しい顔になっていった。しまいには「あーもう!」と叫び力尽くでリングを外しにかかる。恐らく彼女の腕力はラビリンスクが生んだ歴史的プロレスラーであるブーク・ヴルクの十分の一にも満たない。そのうち「解き方メモっとけば良かった」負け惜しみを放ち、ついには知恵の輪を投げ出してしまった。

 投げ出されたキャストラビを手にしてしげしげ眺めてみると、聞くだけでは分からない意外と簡単そうな作りに私も挑戦してみたくなった。「これ、借りてもいいかな。もし解けたら解き方と戻し方をメモして返そう」と提案してみせた。「マジで!」と突っ伏していた顔を起き上がらせて彼女「じゃあ貸すから、絶対解いてメモって来てね」と試すかのような満面の笑みを浮かべた。この程度の挑発に躍起になるつもりは無いが、謎を解くのは楽しいし良い暇潰し材料を手に入れたと考えたら、少しずつ解いていこうという気にもなる。解くのがいつになるのかはわからないが頑張ってみるよ、と言うと、ママも解けたしそのうちできるよ、と激励の言葉をいただいた。取り組んでからどれ位で解けたんだと問うと、一日一時間くらいで大体一、二ヶ月かなと答える。最短でも一ヶ月で解かなければ私の地頭が如何程のものか彼女に知られよう。

「それはどうでもいいけどマジで頑張ってよね。もやもやしたままなの嫌いだから」

「善処しよう」

 そうして私は〈古い思い出の宿亭〉を後にした。帰りの道で歩きながらキャストラビを触ってみるが、これがなかなかどうして難しく、表側では通れる道も裏側では行き止まりであったり、反対に裏側で通れる道も表側では角にぶつかったりと散々だった。本当に表裏で正解の道などあるのだろうかと訝るが、それはこれ、地道に取り組むしかないだろう。

 帰路、ふと何か忘れているような気がした。深く考えつつ歩いてみると、そう言えばわざわざ遠出したのもメルボルンの友人のために一肌脱ごうと思い立ったからだった。すっかり忘れてしまっていた。

 まあいいか、別に急ぐような事でもない。そのように決め、私は歩を速めた。

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