第三話

 路地裏に入り込んでからしばらく経って、場所はもう把握しようがなく、日も昇り切って私はGPSを確認する事にした。どうやらここは三番大通り西側をさらに下った場所らしい。自分のカフェからも〈味彩軒〉からもかなり離れた頓珍漢な場所だった。徒歩で帰るにしても骨が折れるし、ここは一旦大通りに出てタクシーを拾った方がいいだろう。私はそちらへ向かって歩き出した。そうして歩き出したところ、どうやらこの辺りの住民は花を愛でるのが好きらしい。アパートメントの壁際には長方形の茶色い煉瓦造りの鉢植えが並び、季節柄鮮やかな花は咲いていないが、雪割草や鈴蘭といった小ぶりな冬の花たちが、晴れてなお霜の張った土に抱かれながら慎ましやかに街角を彩っている。

 運良く日光に照らされた花たちを眺めつつ歩いていると、ふとまた不思議な想いに胸が疼いた。撫でるような懐かしさと刺さるような胸の疼きだった。そしてその根源は恐らく、私の、過去にあると思う。しかしそれがいつの事なのかまではわからない。とうに忘れてしまった事実だった。確かにあったとわかるのに、それが思い出せない事、既視感、未来予知、エトセトラ、等々。幾らでも呼び名のあるであろう感覚と感情は、しかし私の胸をこれ見よがしに燻らせてやまない。

 私はいつの間にか止まっていた歩を再開させながら考えた。この感情はいつどこで抱いたものであったか。花を見れば疼いてしまうこのざわめきは恐らく胸を駆り立てられたものだ。まさか花のたおやかさに心ときめくなんて事があるのだろうか。もしかすると花ではなく、花に似た何かと記憶が混同しているのかもしれない。花は美しいが焦がれるものはついに無く、花壇から目を離し再び歩き始めた。

 しばらくGPSを頼りに歩いてようやく三番大通りに出た。四車線ずつの大通りは物流の要であり、乗用車も軽もトラックもゆったりしたスピードで往来し、傍らの歩道や上方に張り巡らされた立体交差の歩道橋には人々が行き交っている。

 ラビリンスクに永住する事を決め荷物も解いて落ち着いた頃、外国に住む友人に街並みを移した風景写真付きの便箋を出した事があり、同じく便箋でやって来た返信にこう書かれた事があった。

『君の場所は未来を感じさせるけど、どこか窮屈そうに思う時もある。こんな風に思うのも私がそちらを訪れた事が無いからだろう。近々そちらへ旅行にでも行こうかと思ってるよ。異文化交流ってやつだよな。今は仕事が忙しくて行けそうにないけど、頃合を見つけて絶対に行くから楽しみに待っていてくれ』

 確かに所構わず張り巡らされた立体交差は未来を感じさせ、ほとんど迷路のような複雑な街並みは窮屈に感じるかもしれない。だが、それ以外は外国の友人の住むメルボルンのように都市部には高層ビルが建ち並ぶし、市民が日常的に携帯端末を持ち歩きもし、SNSに写真を投稿したりと──至って普通の都市だ。ただラビリンスクだけがここW国内でも異質な文化を有しているに過ぎない。そしてある意味でこの街はそのあまりの特異性のため自治区として認められ、国から干渉をほぼ受けない独自の法律やシステムが多いのも事実だった。あるいは友人はその面を指摘した可能性もある。ともあれそのメールを受け取ったのはもうずっと前の事もあり、友人が来る頃合とやらがいつになるのかは今もよく分かっていない。

 いつか友人のラビリンスク観光に付き合うからには自店の新メニュー開発や名物店の発掘、観光しがいのある場所なども下調べしておく必要があるだろう。こうして定休日にはしばしば散策に出かけるのもそうした所以あっての事だ。宿泊場所は私の住家の客間があるので問題無い筈だ。

 そこまで考えて、タクシーを拾って帰ろうかと思っていた考えが変わった。午後はこのまま街を散策して、いつ来るかわからない友人のために一肌脱ごうと思ったのだ。私は近辺のタクシー乗り場へと向かう足を翻して大通りを遡り、中央街へと歩を進ませた。

 中央街はラビリンスクの中心部であると同時に、特区としての官庁街でもあり、経済としての心臓部、空港、地下鉄、バスの路線が完璧に整っている生活の足、旅行者の玄関口だ。あまりにも重要な場所であるが故に呼び名は必要に応じて様々であり、この城塞都市で真中心に位置しているのも俄然頷ける。平日でも昼間は人で溢れ、夜はまたバーやレストランが活気付く。私のカフェも昼はコーヒーと軽食だが、夜は酒も提供する二刀流なのでそこそこ儲かっていた。

 見渡せば歩道の人混みは人種の坩堝だった。黒髪、赤毛、金髪、茶髪、坊主、黒目に青眼に碧眼、黒色肌色黄色白、身長も大人から子ども、ピンからキリまで。モザイク都市と呼ぶには構成が複雑過ぎるし、多民族地域と呼ぶにしても規模が違う。とある国家の地方都市がここまで多様なのも、やはりラビリンスクが流離い人の吹き溜まりだからだろうか。

 行き交う人々を観察してから程無くして私はタクシー乗り場に着いた。平日の昼下がり、台数はさほど多くなかった。前から順番に乗り合う形のロータリーで最前列に停まっている臙脂色のセダンに近付いた。

「〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉へ」

「〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉ね」

 名も無い運転手は復唱してカーナビに打ち込むとアクセルを踏んだ。どうしてこんなに恥ずかしい店名にしたのか意図は不明が、ここで働いている者もまた私の友人なのだという事を抜きにして言えば、口にするたび文句のひとつも吐きたい気分になろうものだ。

 この街で友人と呼べる者は数多い。その中でも永住を決めた直後から付き合っている者は今では親友とも言うべき間柄になっていた。多くはこの地で開業するために様々な指南を受けた相手で、経営のみならず生活上のアドバイスも貰ったり、たまに一緒に食事したりもする。〈味彩軒〉のスラーヴァもそのうちの一人で、〈古い思い出の宿亭〉はいわゆる女将、女友達だった。

 タクシーに乗って目的地へ急ぐ合間、私は通りの風景を眺めていた。ゆったりとした速度の乗り物はそれだけで観光タクシーになってしまう。初乗り料金が手頃な価格なのも嬉しい制度だった。

 そんなタクシーの車内で些か居心地が悪くなったのか運転手が不意に話題を放った。

「お客さん、あんたニュースには敏感なたちかい?」

「いや」ニュースに触れられるもの、例えば新聞やテレビはおろかラジオさえ点けない性分としてはそのような問いは愚問でさえあった。携帯端末やパソコンでさえ極力外部の情報を仕入れないよう設定している程だった。「何か面白い出来事でも」

「いやあさ」と運転手。「最近この街におかしなホームレスが出没するって噂で持ち切りなんだ」

「おかしなホームレス」一人だけ覚えがあった。「どこがおかしいんです」

「頭だよ頭。脳味噌だ」運転手は赤信号を利用して右手でこめかみを小突いて見せた。「話はまるで通じないし、善意で食い物やっても無視するらしい。一人で誰かに話し掛けてるみたいで不気味だし、半ば都市伝説みたいになってるって」

 私としては都市伝説で片付けられる話では無かった。元よりラビリンスクでホームレスを見掛ける事自体が非常に稀であり貴重でもある。それを都市伝説と形容するには間違いないだろう。話が通じない事も浮世離れした社会的落伍者ならば納得が行く。問題はそうした存在自体が稀なホームレスが、この運転手の言う事と多大な類似点を以て思い出される点にあった。先日、酒をせがんで来た男。

「ホームレスなら私も会った事がある。酒が欲しかったらしい。支給品のをやったら美味しそうに飲んでいた」

「じゃあ違うかもなあ。色んな人が出会ってその都度食べ物を恵んでやろうとしたみたいだけど、突っぱねられてるってさ。シャワーや服も同じで拒否される」

 生活柄、彼らのような人々は使える物を何でも手元に置きたがる習性がある。そうして身が破滅するまで手元に置こうとした結果、愛想を尽かされて何もかも失っていく。金をさらに儲けようと無謀な投資を続けた結果、目測が外れて破産してしまうとか、配偶者や子どもを無闇に束縛して夜逃げされたりだとか、何らかの罪を犯した者が身分を棄ててまで生き永らえようと自らホームレスになったという話も耳にした事があった。ラビリンスクでホームレスが存在しないのはラビリンスク都市評議会が定めた条例に則って必要な手当を受けられるからであり、それによって住家や収入や一定の生活必需品が支給されるからに過ぎない。

「まあホームレスなんてこの街じゃ滅多に見られないんだから、会えた時には施した方がいいと思うよ。もしかしたら美女と野獣の老婆のように、醜悪な見てくれは仮の姿かもしれない。きっと相手を試してるんだ」

「そんな馬鹿な」と運転手を笑ってはぐらかし、私は窓の外を見た。相も変わらず人の群れが歩道と立体交差に連なっている。もしも運転手の言う事が真実なら、この複雑ながら小綺麗な街の人間は皆全てその内面に醜悪な何かを隠していると、そういう事になってしまうではないか。

 ラビリンスクへは、永住をするにしろ観光をするにしろ、出稼ぎするにしろ、適性検査を幾つも経てようやく出入りする事ができるというのに。

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