第二話

 「ラビリンスク」という名前だった。由来は「彷徨い人の街」もしくは「流離い人の街」。大昔から流離の旅人たちが自然と吹き溜まって出来たから、というらしい。だからここには色々な人間がいる。肌が黒ければ目が青い人もいるし、家の魔ドモヴォイのように小さければ巨人のように大きい人も。大抵は標準的な人間サイズで身体の大きさや特徴を気にするような人はいない。さすがに足が蛸になっている人がいたら驚いてしまう。

 男が店を訪れてから、私は定休日を利用して久々に晴れ間の見える穏やかな街を散策する事にした。ここでも日が差せば人々に喜ばれる。石畳の向こうではバドミントンや道路遊びをする褐色の子ども、日差しを利用して洗濯物を干している肥えた夫人、犬を散歩させる黒人の若い夫婦、ラジカセで社交ダンスの練習をする白い青年──日差しの下ではあらゆる人が思い思いの自由になれるし、私もその一人として大いに休日を楽しんでいた。私同様散歩のために外に出た人も少なくないのか、既に大通りは人で賑わっていた。

 ラビリンスクは円形の城塞都市で、中心市街地から放射状に通りが伸びている。パリほど計画的な造りはしていないが、それでも充分芸術的で文化遺産も多い。十字軍遠征の際には、免罪を求める罪人ばかりを集めてしまった間抜けな騎士団長に率いられた遠征軍がこの地に迷い込み、あまりの居心地の良さにここで一生を過ごしたとも語り継がれている。いかめしく街の周囲を囲う城塞はその時に造られた彼らの名残だが、この街が侵略の標的にされたり攻め入られたりした歴史的記述は過去に一度もないと言われている。文化的には成熟しているものの、持ち帰るものが無いからだろうか。それこそ武人が役目を放棄するほどだ。

 大通りから脇道へと逸れ、路地裏を辿る事にした。建ち並ぶ石造りのアパートメントが巨大な壁のように連なっている。大通りこそ直線的でわかりやすい道が続く一方、路地裏は複雑に入り組んでいて立体交差も多く、道幅も狭いため迷いやすい。地元生まれの者でも慣れない地区では迷う事があるので、この街にいる者は全員GPS端末を持ち歩く事が義務付けられている。それでも年に数十件の遭難や失踪事件は、ある。

 折角の晴れの日だし、と私は路地裏の風景を横目にふと思いついた。この街には知り合いが多いが、中でも仲間が経営している行き付けの店には冬に入ってから一度も赴いていなかったのだ。

 GPSの地図機能で現在地を確認して歩き出した。ふらふらと宛て無く散歩していたいた割に目的地はここからさほど遠くなかった。

 その仲間が経営する店は私と同じ飲食系で、業態はレストランだった。レストランと言っても大層な店ではなく、言わば場末の大衆食堂スタローヴァヤ。〈味彩軒フクスラースカ〉と名付けられたそこは客入りもそこそこで地元では有名だ。

「いらっしゃ──あんたか。すぐ用意するよ」

 ブリヌイとクヴァースのセット。〈味彩軒〉に来て一番初めに注文するのは決まってそれで、時間を問わない。前菜のような存在価値となった今では、私が訪れた時には必ず最初にそれを出すまで馴染んでしまった。朝の九時と開店は早いため、軽食としては持ってこいだ。

 店の扉を開けた瞬間、気前よく料理の準備を始めた店主はスラーヴァという。ここラビリンスクに辿り着くまではイスタンブールで中古車卸売会社の社長をしていたらしい。どうやら気が付くとこの街にいて、空き家となっていた場所を借り受け、大衆食堂を開いていたのだという。顔見知りから常連へと印象が親しくなった頃、ここに来るまでは中古車販売一本だったのかと訊くと、そうなんだ、敏腕経営者ってやつだ、と誇らしげに語った。当然ながらそうである事を辞めたのは深い理由があるらしく、ずっと前にそれについても尋ねた事があった。

 いわく、政変があったという。それも難民にならざるを得ないほどの大規模な政変で、とてもではないがあそこでの商売は金輪際ごめんだとの結論に至った。いざ出国となった際に難民ボートが沈められ、妻子は溺死で命からがら辿り着いたのがラビリンスクだった、という次第である。沿岸から川と下水道を通って来たのだとしみじみしながら彼は語った。妻も子供も失ったけど、ここはいいね、色んな事があったのに全部忘れられそうだよ──どこか気の抜けた声だったのを覚えている。

 先に出されたクヴァースを二、三ほど口にしてブリヌイの登場だ。ブリヌイは文化さえ違えばパンケーキとかクレープと呼ばれ、かの地でポピュラーなようにここでもごく一般的に食される。軽やかな食感が軽食にちょうど良い。〈味彩軒〉では生地にチーズやシナモンが練り込んであったり、フルーツ類の具材も豊富でデザートとしても申し分無い。私のお気に入りはポピュラーなツナやイクラを具材としたシンプルなブリヌイだった。サワークリームを挟むともっと美味しい。

 食事中、スラーヴァとの会話は淡々としていた。日々の生活、起こった事、笑い話、どこそこの奴がえらい目にあった、あの店の仕立ては腕が立つ。いつもの事で気にするものではない。もともと私が口数の少ないものだから、彼もそれに合わせてくれているのだろう。クヴァースでブリヌイの一欠片を流し込んで私は席を立った。

「もう行くのか」

「引き止める理由が?」

 問い返すと彼は唇を捲りながら口をもごもごさせた。顎に付いた余計な肉がぷるぷる震えた。

「これは、もしかすると俺の杞憂かもしれないんだが」

「ああ」

 黙ってしまった。まるで出かかっている言葉を喉元で押し留めるかのように俯いた。随分長い付き合いだが、こんなスラーヴァは見た事が無かった。淡々としつつも言うべき事ははっきり言うのがスラーヴァだから、余計に気に掛かる。

「大事な隠し事なら私でなく通りがかった野良猫の耳でも引っ掴んで囁いた方がいい。ああいう手合いは秘密だけは死んでも守る。翻って私は……」

「そんな事言うなよ悲しくなるだろ。俺をこれ以上苦しませないでくれ」

「言い過ぎた。ごめん。それで?」

 そしてスラーヴァは眉間に皺を寄せつつ意を決して放った。

「幽霊を見たんだ。妻と娘なんだ。優しそうに手招きしてるんだよ。こっちおいでって、どうしよう。行くべきかな、行かないべきかな。家族は大切だよ、今でも、死んでるのに。だから余計に苦しいんだ、こんな事で悩んでしまうなんて」

 白昼夢──そんな言葉が頭を過ぎった。この街に住む限り珍しい事ではない。事実私も似たような経験は幾度と無く経てきた。この街特有の迷宮構造が見せる幻影に過ぎない。あるいは道に迷って彷徨う住民や旅行者が亡霊のように見えてしまい、たまに徘徊する幽霊を見たなどと騒動になる事もしばしばだった。だからスラーヴァも街を歩いていて助けを求めて手招きする何者かがそのように見えたのだろう。確かな事実は、根拠も無しに死んだ妻子が冥府へ手招きしていたと語る彼の弱り果てた精神状態そのものだった。

「スラーヴァ。今言った事は全部忘れるべきだ。野良猫に言うのも無しだ。囁くのも、心に思うのも。思い出すのも。結局自分自身を苦しめているのはスラーヴァ、君自身じゃないか。私じゃない。誰でもない。忠告だ。今すぐ忘れるんだ」

「この街は楽しいもんな。生きてて楽しい場所だ。そうだよな。ここは墓地じゃない。楽しい墓地かもしれないけど」

「ああそうだよ」

「ごめん。忘れるよ。本当に。悪かった。忘れてくれ」

 スラーヴァはそれきり何も言わなくなって食べ終えた皿とコップを洗い始めた。どこかの国の軍歌や行進曲のようなメロディーの鼻歌が彼の方から聴こえてきた。彼はまた陽気な様子で太めの身体をゆらゆら揺らし、先程までの事はすっかり忘れてしまったようだった。

 私は勘定分をカウンターに置き、黙って店を後にした。

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