共犯者の死せる影-Ты-

籠り虚院蝉

第一部

第一話

 文学は「狼が来た! 狼が来た!」と少年が叫びながらやって来るが、その後ろには狼なんかいなかったというその日に生まれた──だがもし、少年が叫び続けた虚構が出し抜けに凍り付き、途端に冷酷な現実となってしまったなら。

 或いは望まれて生まれ得ない者こそ、皆多かれ少なかれ狼になってしまうという事だろうか。決して愛されない筈の存在がこの世に生まれ着いた時、そいつは餓えを満たそうと愛を求めて彷徨うのだろうか。

 見た事も無い愛だけを。

 見た事も無い愛。

 見た事も無い愛だけが。

「見た事も無い愛だけが……私の中にいつまでも、凍り付いたしるべとなって……小さき胸の最奥さいおうの深い轍のくぼみの傷に、爪先立ててとどまりつづける……その痛みたるや、痛みたるや……嘗て躍った熱情の……今日はか弱き足の平で……霜の柱を踏み付けた、貴女の顔を見たかのように……」

 今日、私を殺人者にした。

 しかし罪には問われない。

 事実──真実。想像もつかない真実の積み重ねが時として無意識に見ず知らずの他者を殺めたとして、咎められるのは何者なのか。

 ほんの二ヶ月前まで、私はただのカフェのオーナーだった。それがひとつの真実だ。

 私はゆっくりと顔を上げた。

 だがもうひとつ、遡れば、真実は──。


 ЯR


 最後の客が赤ら顔をして出て行って数分後、入口の扉に付けた呼び鈴が二度鳴り来訪者を告げた。音につられて読んでいた推理小説から顔を持ち上げると、そこには顔も身なりも薄汚れたひとりのホームレスらしき男が立っていた。襤褸切れ同然の色褪せたコートを身に纏って呆然と立ち尽くし、何が彼をそんなに駆り立てているのか、荒々しく繰り返される呼吸も熱を帯びているようだった。真冬の夜の街には、確かに胸躍らさなければ凍りついてしまう寒さもあるが。

「いらっしゃい」

 その声には幾分か嫌悪感のようなものが紛れこんでしまったと思う。どうせコーヒー一杯買う金も無いだろう。暖を取るのは結構だが店内を汚されるのは好きではない。さっさと出ていってくれた方が双方とも心中穏やかなまま今日を安らかに終えられる。片方は暖かな毛布に包まれ、もう片方は土と段ボールと麻布に包まれるばすだ。気に入らない相手に殴り掛かるのは信条ではないし、元よりそれは弱いものいじめをするような矮小な精神の人だけだ。

 しばらく呼吸を落ち着かせたのち、ホームレス男は暖炉の近くへ向かっていった。やはり暖を取りたかったのだろう。私は読みかけの本へと視線を戻した。すると途端、男が口走った。

「ヴォトカをくれ。寒くて死にそうなんだ」

 暖炉に手を翳したままこちらを見向きもしない。無礼な輩は山ほどいるが、生きるだけで必死な手前存外そうとも言い切れない。ヴォトカはちょうどいい物を仕入れていたもののおいそれと見ず知らずの人に譲れるほど安物でもなく、奇跡的にもこの時代、カフェを過不足無く自営できることがどれほど貴い事なのかを男は──知らないからこそホームレスヴィズドムィなのだろう。

 私は仕方なく身分証さえあればどこでも手に入る支給品の安ヴォトカを開けショットグラスに注ぎ入れた。カウンターに置き、ようやくこちらを向いて恐る恐る近付いて来た男に渡す。

「暖炉に翳して温めてから飲むといい」

「ああ、まさか酒が只で飲めるなんて。有難う」

 ふと想像してみれば不思議な空間だった。夜も更けようとしている場末のカフェに見窄らしい男が暖を取りにやって来て、只酒をせびる。そしてよくよく見てみるとこの男、顔貌や風貌がどことなく普通ではないように感じられた。言い方を変えれば巨大な監獄のようなラビリンスクにとって所属が明らかに判別できない異邦人は珍しい。外的には清潔な国チスタャ・ストラーナを自称するに至ってはまさしく実在しない存在になるだろう。だからと言って手首にGPS端末が巻かれている手前、追放される訳でもないのだが。

 男はヴォトカを必要なだけ温めたのか、濁った目でしげしげそれを見つめてから意を決して飲み下した。それから名残惜しそうにグラスを手で弄び、再びカウンターにやって来てグラスを律儀に手渡してくれた。

「本当に有難う」男が笑い、隙間から欠けた白い歯が見え隠れした。どうやらその生活は長いらしい。受け取りながら「安酒しか出せなくて申し訳無いね」と答え、グラスをシンクに置いた。

「いいさ、物珍しい人もいたもんだ」

「と言うと?」

 胸が鳴った。物珍しいとか奇妙だとか、そういう類いの評価は心臓に悪い。美男を女神だと思うなんてなんという奇妙な勘違いだろう──名前を忘れた作家はそう書いたし、世の中から変人とか奇人などといわれている人間は、案外気の強いが度胸のない、そういう人が自分を護るための擬装をしているのが多い──名前を忘れた文豪がこうも述べていた。詰まるところ男の評価は酷く野暮で、しかも私を大いに怖がらせた。

 幼い頃は不思議な子と言われていた。事によると親類の人々から気味悪がられるほどに。今は亡き両親は至らない私を何度も矯正しようと試みたようだが、少なくとも彼らの存命中はついぞ治らなかった。自分自身危機感が無かったせいだが、それ以上に私は世の中の事をあまりよく知らずにいた。物事を頓珍漢に理解し、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考え、数分後に決まってそれを実行に移すとか、独裁的で、他人が自分のことをどう思っているかについては無関心であったとか──大昔に処刑され忘れ去られた冷血皇帝の御息女さながら、身内には愛されつつも時には忌み嫌われていたのだった。

「なあ。何度かここへ来て酒を貰ってもいいかな」

 男は私の言葉を知らん振りして言ったが、先立った言葉のせいですぐには応えあぐねた。悪意が脱色されたホームレスの姿をしてターゲットに近付き、明け透けな会話の中で必要な情報を自白させる手口もあったと記憶している。

 過去には、そう──秘密の集会があるからとついて行った先で待ち受けていたのが銃殺隊だったとか、仕事の会合先で椅子に座ったら電気椅子だったとか、他人を信用して生きるのを辞めたくなるほど凄惨な都市伝説も細々と語り継がれている。それを忘れずにいられたのはほとんど幸運だ。

「気が向いた時に来るといい。定休日は月曜と火曜」

「恩に着るよ」

 男は頭を軽く下げ、指で帽子を取るジェスチャーをした。

 そんな光景も、いつだか見かけたものだった。

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