第二十五話

 雪解けによる泥濘ぬかるみと土に埋まった岩石に幾度と無く足を取られながら、山の高みへと向かった先に辿り着いたのはひらけた台地状の地形に構えられた一軒家だった。村が胡麻粒ほどに小さく見える離れた位置に佇むそのログハウスにはどうやら家主がいるようで、一見してすぐ煙突から煙が出ているのがわかり、周囲には田畑のように掘り返し耕された土が広がっていた。そして、その田畑の片隅にひとりの女性が蹲っていた。白いリボンをあしらった麦わら帽子から黒い髪を垂らし淡いカスタード色のワンピースに身を包んだ姿に、まだまだ肌寒さの感じられる時期にあの姿で平気なのだろうかと彼は訝しんだが、ふと改まって見れば彼もまたジャケットを脱ぎシャツの袖を捲くっていた事に気付いたのだった。そこで彼はようやく情熱によって囚われの身となっていたある種の従属状態からひと時抜け出す事ができた。

 彼はその女性に声を掛けた。顔を上げた彼女の表情は驚きに満ちていて、不可思議で不明瞭な生き物に相対した時のような戸惑いが見え隠れしていた。山間の狭いコミュニティの中では見知った仲で日々過ごすのが当然であり、そこへ全く見知らぬ異邦人が唐突に現れたのだから無理も無い。言うなれば彼女は怯えていたのかもしれない。当時、Я国とR国は既に戦争下に陥っており両国の国境を担うジラント連山の覇権を握る事が如何に重要か、彼以外の者にとっては明々白々の事実だった。Я国軍司令部はR国に先駆けて山の地の利を得る事で序盤の戦況を有利に働かせようとしていた。確かに事前に彼が聞かされていたように電力施設建設の為の地質調査と言う側面も後世の歴史を見るに揺るぎない事実であろうが、より重要かつ喫緊の側面はR国攻撃の前線基地建設の為というのが専らの理由だった。

 ここでひとつ君に誤解しないでもらいたいのは、彼は電力施設建設の為の地質調査が目的だという事に何らの疑いを持っていなかったという点だ。彼はこの地質調査計画が戦争に伴う基地建設の一環だとはつゆとも思わなかった。そしてそれ故に自身が何者かという部分に如何に無頓着であったのかを知らなかった。想像に難くないだろう。彼は幼い頃から世間をよく知らずに好きな事に没頭して周りが見えていない人間であったし、そもそも両親は厳格で彼を家に鎖し社会的な交流など皆目させてはくれなかった。無論この計画はЯR戦争が激化するにつれ一旦白紙となったが、両国の併合と同時に正真正銘の電力施設建設計画となって蘇り、今日ではかつての負の歴史を乗り越えたかのような鉄道が両地域を繋いでいるようだ──話が逸れてしまったようで済まない。ともかく話を続けよう。

 他愛無い会話を二言三言交わしてから、彼は彼女から一冊の植物図鑑を手渡されてその日は帰る事にした。村の宿で食事と入浴を済ませた後、自室でその本を開いてみるとどうやら押し花を作っていたようで、それは淡い紫色をした一房の小さなウィステリアだった。本に挟んだまま忘れてしまったのだろうか。その時の彼は深く考えてはいなかったが、その印象的な押し花は後に彼にとっての過ちの象徴になってしまった。それから彼は登攀調査から村に戻る度彼女の家へと通うようになった。基本的には一、二週間に一度の頻度だったが、それでも足繁く通う事で最初は警戒していた彼女と次第に打ち解けていき、もう何度か顔を合わせる頃には共に花壇に並び花の種や苗を植える関係になっていた。彼が彼女に初めて会った時に彼女が植えていた月見草がやがて見頃となり、鉢植えに移して夕暮れにゆっくり花が咲き淡く赤色に色付いてゆくのを眺めていると、二人してその魅力に心色めいてしまった。そうして彼らはそのまま花が萎む朝まで肩を寄せあって過ごし、その日は忘れられない夜になった。それ程までに深い場所で繋がった仲になってしまっていた。しかし、先に言ったように彼は彼女にとって異邦人であり、当時Я国とR国は戦争下に陥っていた。それが何を意味するのかは君には是非知っていてもらいたい。まるで出来の悪い、彼と彼女は敵国の者同士でありながら愛し合ってしまっていたという事実だ。恐らく彼女はその事について大なり小なり後ろめたさがあったまま彼との関係に興じていて、それについて彼は遂に思い至る事が無かった。

 月見草の夜を過ごしてまた数週間が経っていた頃だった。早朝彼が彼女の家へと向かうとリビングにその姿は無く、寝室へ向かうとベッドの上で身体を丸めてシーツに包まれた彼女がいた。植物や花の世話で元来早起きの彼女が寝ているのは珍しい事で、彼は彼女の肩を揺すって起こしに掛かった。すると彼女、起きていたようで身体を震わせ彼に振り向いた。顔は酷く荒れていて、その眼は真っ赤で目の下には暗いくまと泣き跡が残っており、髪の毛はぼさぼさで目も当てられない有り様になっていた。一目見て只事でないと感じ取った彼は何か声を掛けようとしたものの、何故か喉が引き締まって声を出す事ができない。愛の言葉は何時如何なる時も優しく掛けてやる事ができたのに、どうやら相手を心配し思いやる言葉を彼は持ち合わせて来なかったらしい。彼女の視線はそれでも彼を向いており、その目は彼の言葉を待っていた。しかし彼からその言葉が出てこないと分かった時、彼女は僅かにその双眸を伏せて口を開いた。「今日はごめんなさい」と。彼というのは不甲斐無さと無知とによって事実とても薄情な男だったのだ。そして、そのまま何もできずに彼は彼女の家を後にした。

 既に彼は時という不可視のベールによって秘された数々の失敗を犯してしまっていた。今になってそれと分かるのは、彼が山頂手前の九合目に滞在する第七回登攀調査から村へ帰投した後の事だった。調査には全ての兵士を連れていく訳ではなく当然待機する者たちもいたのだが、夕食の時間に間に合うように宿の食堂へと赴くと、四名の兵士が長テーブルの一角を陣取って食べ終えた配膳を前に何事か話し合い笑い合っていた。この調査においても素行の良くない兵士として度々上官殿から叱責と懲罰を受けていた輩たちだった。何となく気になった彼は彼らが陣取る一角から少し離れた別のテーブルに座り、持ってきた本を開いて読書している振りをした。いやしくも高名な軍人家系の三男坊として生を受け厳しい教育を経た彼が、兄たちの呂律の回らぬ独り言より下級低劣な兵士たちの談笑に聞き耳を立てるなどというのは、それだけで彼の変化が伺い知れるかもしれない。早い話が胸に妙な引っ掛かりを覚えたのだった。それと言うのも、彼ら兵士の会話は此度の調査の不満や上官殿への愚痴、やれ宿の飯が不味いだの遊びが少ないだのといった凡そ国家の先兵としての深い思考や思慮の皆無な言葉の端々の中に、村の者たちへの蔑視や差別感情を露にする者もあったからだった。無論そのような言葉は聞いていて心地の良いものでは無い。しかしその時の彼は、兵士たちが愉快平気に話しているのを見て何となく焦燥に駆られてしまった。彼らの言葉には村の外れにある彼女の家の事が語られていたからだった。

 曰く、彼女の家が村の外れにあった事と周辺に畑の柵が張り巡らされていた事から、当初は村の者さえ近付かない不気味なR国人が暮らしているのだろうと考えていたが、周辺警備の休憩の折ふと近くに散策に出かけた所、畑にЯ国人の一流女優と見紛う程の美しい女性が仕事をしている事に気付いらしい。言うまでも無くこれは彼女だが、そこで話題を繰り出した兵士が彼の方へ目配せをした。そして、彼らは元々狭苦しく座していた食事卓に身を乗り出したものの、先程と全く変わらない声量でこんな言葉を口にした。「あれ程までに美しい女性が独り畑仕事などさぞかし退屈だろう」と。それから兵士たちは時計を見て気付いたように声を上げると、各々配膳をそのままに立ち上がり食堂を後にする。夜間の周辺警備に赴くのだろう。そこで彼と同年代らしき若い兵士が彼へ近付き気さくな声を掛けた。「俺たちの話は聞いた事にも無かった事にもできるからな」と。そう言って彼の肩を二度叩いた兵士もまた食堂を後にした。彼は少なくとも兵士のその言葉に何ら理解を示す事は無く、そしてそれは不可視のベール、秘された失敗の数多いひとつだった。彼女がベッドでシーツを被り涙の跡を残していたあの日から彼は両脚に見えない重石を付けてしまっていて、その事に気付いたのが兵士たちの去った後だというのは今日に至っても救いようの無い彼の愚かさに違い無い。したがって彼が取り返しの付かない過ちに気付くのもまた、第十回登攀調査が終了した後だった。

 最後に彼女に会ってから一ヶ月以上が経過していた。脚の重い感覚とは別にして、この間なぜ一度も彼女の家へ向かわなかったのか理由は分かっていない。ともすれば不吉な予感が鎌首をもたげていたとでも言うのだろうか。第十回登攀調査における山頂付近はより峻厳で切り立った崖が連なっており、ここの登攀と下山にはそれぞれ正味丸一日掛かっていた。それで疲れ切っていた彼は村の宿屋に戻ってから泥のように眠ってしまい、次の朝に不意に調査仲間に叩き起された。眠い目を擦りながら歳上の調査仲間に憮然とした声で訊ねると、「首都が空爆を受けている」との返答が来た。一気に覚醒して麓を向いた窓に飛び縋ると、遠くに見える首都のグロムゴルスク中心部から無数の火の手と黒煙が上がり、時折粉塵が大きく舞い上がった。さらに首都の向こうの丘へ視線を向けても見える景色は似たようなものだった。首都の上空に目を向けると爆撃機らしき数個の黒い影が飛んでいるのが見えた。「ここにも斥候部隊が来ているらしい。即時撤退だと隊長が」彼の後ろで仲間が言い放って返事も聞かず足早に部屋を離れた。彼は微かに反響して届く爆撃音と騒々しく廊下から響く怒号を聞きながら街が崩壊してゆくのを見つめていたが、そこでふと思い至って寝巻きのまま部屋を飛び出した。愚かな事に彼は彼女と共に村から逃げ出したいと思ったのだ。

 宿を出て整列する調査隊の面々の横を駆け抜け、背後に呼び止める声をとどめながら比較的柔らかく穏やかな地面を登っていくが、細かい岩石の破片や石ころはあるもので、裸足は傾斜を踏み込むたび血に赤く染まっていく。それでいてなお底の硬い靴を履いていた時には感じ得なかった草の葉の鋭さや喉が詰まるほど締め付けられる肺の苦しさに気付いて顔を顰めながら、彼は彼女の家へとひたすら邁進していった。

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