第二十四話

 彼が生まれたのは旧Я国首都グロムゴルスクの一等邸宅の一室だった。軍人家系で由緒正しき名家の三男坊としてその生を受け、体重は概ね平均値、遺伝的疾患も皆無の彼は健康体として親戚一同介して盛大に祝福された。彼の記憶は定かでないが、彼が語るに生まれたその時の様子は家のさらなる発展と拡大を有望視する視線の一方、如何にその家の財と地位とを掠め取ってやろうかと目が爛々と輝き厭らしく舌舐めずりをしているかのようだったという。彼の出産は披露宴さながら数多の目の晒されながら行われていた。彼が思い返す事のできる最古の記憶は、ともすれば儀礼的な由縁の垣間見えるものだったという。

 幼少の頃の彼は両親の愛を一身に受けて育ったとは言い難かった。既に家督の継承権や遺産の相続権を任されていた兄弟に合わせて彼は年不相応な躾と教育を余す事無く施され、精神的な苦痛を度々感じる事はあってもそれが彼を蝕む事は無かった。彼は兄弟たちが万が一失われてしまった時の保険として生まれてきたに過ぎなかったからだ。だからこそ彼は上二人の兄弟よりは幾分自由に動き回れる環境に置かれ、その分だけ軍閥の家柄としては些か粗野でものの知らない子と世間に評価されていた。いつしかそんな目を逃れるように、両親は彼を家に閉じ込めるようになった。ところが、多感な年頃になるにつれて彼は何かと理由を付けては家に鎖そうとする両親に反感を抱くようになった。乳母に訊ねればやれ主人に許されていないだの、家から出すなと言い付けられているだの──彼は時折両親が折檻で家から兄弟たちをつまみ出すのを目撃していたし、その様子を見て妬んでもいた。それどころか兄弟たちが羨ましいと感じる事すらあった。彼が家に鎖されるには偉大な冒険心に反して家が狭すぎるのも一理あったが、大きな理由としては、彼の知る世界が広すぎる事もあった。

 彼にとって外の世界は全て未知の舞台だった。その日の家庭教師の時間割を全て終えた後、夕食までの課題をこなしている間、彼は休憩として茶を持って来た侍従にふとした思いで訊いてみた。「どうしてパパやママは家でばっかり教えようとするの」と。彼女は言った。「御主人様や奥様だけでは教えられない事もありますゆえ」と、言うまでも無く回答の意図を図りかねた彼はますます本を読んでいった。本を読めば両親の意図が解るのだと思って。しかし、その言葉が侍従の機転に基づく方便なのだと知るには年月が掛かり過ぎた。本をどれほど読み深めても両親の考えや意図の答えはどこにも載っていなかったし、それを推し量る事もまたできかねた。その代わり本を片手に家の庭に出る事を生業とし始めた。彼は家の敷地内で可能な限りの冒険を始めたのだった。

 家の敷地には温室や庭園の他に湿地を模した沼、雑木林などがあり、敷地内を棲家としている生物たちも多かった。理科や科学の時間ともなれば教師とフィールドワークへと赴き、水場を求める生き物たちを観察しスケッチする時間は彼にとって至福の時だった。何者にも咎められる事無く名も知らぬ生物に歩み寄り静の時間を共有するのは面白く、また不思議と幸福感に満ちていた。彼らは時に必要以上の怒りを顕にし節度と儀礼を強いる両親とは全く別種の生き物であり、当時はそこに惹かれたのかもしれない。野外での観察は彼にとって至福の時間だったが、彼の性格や行動をますます世間的に屈折させてしまう事になった。

 当時、彼が執心して読み耽っていた本は『ドン・キホーテ』、『三銃士』、『ガリバー旅行記』、『ロビンソン・クルーソー』と冒険小説が多かったが、特に気に入っていたのはヴェルヌの『地底旅行』だった。彼は地球の内部を冒険活劇として自由に描き出す作風に心を奪われた。安直な事に、いつしか彼は地球について知りたいと思うようになってしまった。幼少期に敷地内から見えたジラント連山は氷漬けの巨大な竜の鋭い背骨のように峻厳な様相を呈しており、その姿が子ども心に空想を掻き立てられた。

 両親は彼に対して確かにある程度の行動上の自由は保証してくれていたが、オットー教授のように荒唐無稽な発想を追究する道に対しては取り付く島も無いというのが全く相応しい態度であった。両親たちは彼が図書室に入り浸り自由に本を読む事や、敷地内の限りで安全に散策する事を許してはいたが、人生上の岐路を自ら選び取る事や、その道行きそのものをどのように歩むべきかという点については一切許してくれなかったのである。彼の幼少期は児童文学で描かれるような無限の可能性を秘めてはいなかったのだ。

 それでも彼は家庭教師たちの努力も相まって高等学問領域へと進学し、選択科目で物理と地理を専攻する事にした。ビッグバン仮説から知られる宇宙と地球の誕生や今日へのあらましから、それを探る地層の話題へと移り、考古学的な知見から化石の年代や死亡原因の読み取り方へと移る。そこから地球全体を襲う火山噴火や地震の到達速度、大気の変化などへと話は変わり、大気変動の話から地球の自転へと単元が変わる。それからは銀河系の自転・公転の論理から星々の距離、ケプラーの法則などそこそこに対象は系外惑星まで拡がり、一年生も半ばを過ぎる頃にはますますスケールが大きくなっていくのだった。無論、彼はその全てを興味深く履修したものの幼い頃の衝動を忘れずにいた。彼は自室から見えるジラント連山の山影に夢馳せずにはいられなかった。幼少期に彼が調べた限りでは、ひとつの島ほどもある巨大な竜が地に埋まり今ではその背骨だけが見えているのだという記述の他に、ある書籍では南北に横たわる巨大な姿のどちらが頭なのかを明らかにすれば、その者は永遠に語り継がれるだとか、金銀財貨を手に入れるだとか、魔法が使えるようになるだとか、子供騙しのような夢物語も書かれていた事はあった。確かに彼はそれらに心躍らされたが、目的はただひとつ、ジラント連山が本当に竜の亡骸の背骨なのかを明らかにする事だった。

 大学領域や院に進んでも両親たちは敷地外への勝手な外出は許してくれなかった。学問は全て両親たちと懇意にしている血の気の失せた教授たちに任せていたのだった。既に学問を修了した兄弟たちは高価なスーツに身を包み、めかし込んでは外出し夜遅くにへべれけになって帰って来る。彼らが毎日何をしているのか彼に興味があったとは言い難いが、もはや家に縛り付けの軟禁状態が二十数年余りも続けば、何も不思議には思わなくなってくる。自室に閉じ籠り暇さえあれば調べ物をしている彼の事を兄弟たちがどう思っていたかについてももはや定かではない。同じ家に生まれ落ちたという事実以外は殆ど接点が無かったまま、今や兄弟たちは昔の存在になっている。

 そういう訳で、君のご想像の通り彼はおよそ交友関係というものを有していなかった。家の内部では侍従たちと、「モリスのティーカップはどこだっけ」とか「その本を開架の本棚に戻しておいて。整理番号を間違えないように」と二言三言ささやかに交わすような事はあったが、基本的に会話と呼べるような会話は本で得た技術だけであったし、それによって他者とのやり取りにおいて不便と呼ぶ他無い事態も多々あった。無論これも両親は矯正を試みた。だが、そこでふと疑問に思った。家に鎖し他者との関わりを避けるよう彼に仕向けている両親が、何故他者と円滑なコミュニケーションを図れるよう会話術を矯正するのだろう。そこで彼の犯した過ちはそれによって尚も両親の意図を探ろうとした事にあった。決して理解し得ない対象を彼は理解しようと躍起になってしまった。ここでひとつ古くからの諺を引用しようと思う。青白い狼はどんなに飼い慣らしても森ばかり見てしまうのだ。

 子どもたちが成人すると元々少なかった家庭内交流はほぼ皆無になってしまうのも致し方あるまい。月に一度あるか無いかの家での食事の席以外には、彼は疎か兄弟たちともその席を共にする事は無くなった。子どもに手の掛からなくなった分、両親とも俄然仕事を優先するようになったのだろう。父は軍人官僚で常に政界の厄介事に巻き込まれたり、その渦中の人となる立場にいたし、母に至っては社交の場でそんな父を如何に擁護し引き立てるかに全身全霊を使っていた。兄弟たちは相変わらず毎夜毎朝へべれけになって帰って来るし、彼は自室に籠って調べものばかりしていた。彼ばかりは何かがおかしいと思ってはいたが、両親の意図を掘り当てようと言わば節穴の眼しか持ち合わせていなかった彼にあってこればかりは気付けない。全ては彼らを取り巻く機能の中にあった。機能が彼らを生かしていたとも言える。歴史の中の、Я国の中の、政治の中の、官僚機構の、彼の家系の、家庭の中の、生まれ落ちた順の、個人の優劣、不可視の序列、社会に遍在するあらゆる機能。そんな彼らの意図などいくら尋ね歩いてもだという事がここで容易に分かるだろう。そして翻って彼自身はどうだったのかと言うと、彼もまたその機能の檻に鎖されていたと言っても過言では無かった。

 余りにも多くの事実に目を向けられずにいた彼に転機が訪れたのは、父の部下の男への同伴だった。地質ごとのケースに蟻を投入し、彼らがどのような巣を形成するかの観察記録を付けている頃だった。ジラント連山中腹に新しく建設される施設──山を貫く鉄道の電力施設と耳にしていた──の地盤調査の為に彼が長らく勤しんでいた地質学の知見が必要だったらしい。ここまで聞いてきた君にはこれが願っても無い話だという事が分かる筈だ。彼は父から尋ねられたその同伴任務に頷く他無かった。「頼りにしているぞ」その言葉が同じ響きで脳内にずっと残っている言い知れぬ感触は、如何にも親の愛に恵まれず飢えた人間の感ずるところだったに違い無い。地盤調査の為に近隣の村を宿場とし、そこを拠点に調査地を転々としながら数ヶ月程度過ごすと聞かされた。彼は早速準備に取り掛かった。

 その村はジラント連山の中でも特異な地形を有する場所に位置していた。人間の頭蓋骨で言う所の外耳孔に当たる部分かもしれないし、仙尾部瘻孔ろうこうのような部分かもしれない。竜の頭尾がどちらか、即ち山の形成年代が明らかになっていない状況下では無論それは間に合わせの表現という意味の他は無い。冠雪が解け小川となる春先に訪れたその村にはまだ雪が幾分残ってはいたものの、寒さは強い太陽熱によって穏やかとなり、外に出て田畑の耕作や薪割りなどに従事している者もいた。ふと見ると、本来なら家々の横に積み重ねられている筈の薪はこの山の冬の寒さを物語るかのように減っていた。

 彼は荷物を下宿の一室に預けると村の散策を始めた。簡易な調査道具を鞄に詰めて外へ繰り出し、目に付いた場所の土や緑地のサンプルを採取してゆく。雪解けを感じ取って這い出てきた僅かな虫たちもプッシュバイアルに入れ野帳に観察記録をメモしていった。家の敷地内とは異なる野性を思わせる静寂と吹き抜ける風が、次第に彼の足を村の外へ外へと向かわせた。それと言うのも、数ヶ月間と聞かされていた現地調査の中で単なる研究の素人も引き連れての行動には限界があったのだ。素人というのはその多くが兵士で、山の登攀と野営地の設営、調査計画に係る雑用等の務めであったが、下手な動きをしてしまえば当然お咎めを喰らうし、行動も制限されてしまいかねない。それでも彼は未知の場所、新しい発見、山の地質、竜の頭尾、知的好奇心、探究心、それらによって醸成された偉大な冒険心を彼自身知らぬ間に秘めながら、逸る気持ちの赴くまま突き進んでしまった。

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