第十七話
〈
代わりに犯人と目され拘留されているのは〈
先日の彼女の来訪の瞬間、私にある種の直感めいたものが働いたのは偶然ではなかったのだろう。顔見知りがいるというだけでこの街に生きるのは幸運な事だった。この狭いコミュニティで特定の何者かを狙いすましたように手に掛けるとすれば、自ずとその人脈も動機も狭まってくる。つまり私は直感ながらも確固として、親友を殺害したのはヴィズドムィなのではないかと睨んでいた。
いつものようにブリヌイとクヴァースのセットに舌鼓を打ちながら、また亡きブルガーコフへの祈りとヴィズドムィへの疑念に頭を巡らせて、スラーヴァと気休めに他愛無い会話を重ねた後、私は気になる事があって彼に尋ねた。スラーヴァの前に現れる妻子の亡霊。
彼女らは相変わらずふとした折に目の前に現れては彼を冥府へと手招きするのだという。ところが最近は手招きしても彼の臆病な性格の故あって意味が無いと感じたのか、優しく語り掛けるようになった。それは恐ろしい事だった。とうに現実には存在しない彼女らが、今現在の境遇に憂いて態度を変化させている事が彼には信じられなかったのだ。しかし同時にそれが幸福であると気付いたのは、死者と生者が現世で確かな意思を持って行き違う事だった。神秘的かつ運命的だった、とスラーヴァは言う。
「まるで本当に生きていて、俺をもっと幸せなとこに連れてってくれるみたいなんだよ」
あんたは信じられないだろうけど、俺はもう半分くらい、妻と娘に一緒について行ってみていいんじゃないかって思い始めてるんだ──。
私は黙った。私はスラーヴァの妻子を知らなかった。家族で撮影したという唯一の写真は難民ボートと共に沈んでしまったらしく、文字通り身一つでラビリンスクに辿り着いた彼の身の回りの話はここで彼から聞いたものばかりが真実だった。それ以外は皆目知りようが無かった。私がブリヌイの追加を申し出ると彼はまた言った。本当はここでの生活を楽しむのは違うのではないかと。ラビリンスクは流離人の街、であればまた、ここからいずれ離れる事になるのは必然なのではないか、と。ここは迷える旅人たちの巨大な宿場街に過ぎず、ここで仮に一生を終えるのだとしても、それは流離人の街という通称に相矛盾はしないものなのだ。
「スラーヴァはこの街から出て行きたいのか」
「そういう訳じゃないよ。ただ妻も娘もそこまでして俺を連れ出したいなら、そこも案外と悪い場所じゃないかもな、と思って」
「よく分からないな」
すると彼は笑った。精神的に参っている時のユーモアはささやかな救いになるのだろうか。
「なあ、ひとついいかな」
「ん、何だい」
ひとつ深呼吸を挟んでから、親友の死について話した。ブルガーコフとスラーヴァは知り合いではないが、名前はこれまでの会話の中でしばしば口にしていた。スラーヴァもまた彼の死を心から悼んでくれた。そうかい、大切な人をあんたも亡くしたのか、と。
「この世の死はどんなものでも、どうして悲しくなるもんだね」
ゆっくりと静かに頷いた。しかし、私においてはそれ以上の感傷が胸中に拡がった。何故たった一度の死の原因をあのホームレス男に求めたのかは分からない。それこそある種の神秘的な感覚、運命的な巡り合わせの由縁なのかもしれない。が、あまりにも危険な巡り合わせである事に異論を唱える者もまたいまい。
私はスラーヴァに教えた。見知らぬ人は危険と韻を踏むらしい。それは他でも無くヴィズドムィが放った言葉だった。元難民の彼であれば見知らぬ人は必ずしも危険ではないと知っている筈だ。彼が生きていられるのは見知らぬ人々の援助あってのものなのだ。だからその言葉を彼が根っから守ってくれるとは思ってはいない。それでも彼は頷いて続けた。
「俺らは親友さ。それは分かってるしセルゲイの言葉が間違いだった事も無いよ。万に一つもね」
「亡霊の妻と娘は?」
「話し合ってみる。君らも未練があったからこうして会いに来てくれるんだろって。馬鹿げちゃいないだろ、セルゲイ」
彼はこちらに歩み寄ってとうに食べ終えていた食器を手に持ち、厨房に片付けるために背を向けた。
「人は頭のなかでならどんな人とも本心を打ち明けあって対話ができるんだよ」
そう言って彼は店の奥から鳴り響いてきた電話の音に、あっと弾かれたように身体を揺らし消えて行った。私もまた勘定をテーブルに残し席を立つ。
店を出ると空は鉛色に塗りたくられ、頭上から行き場を失ったそれが音も無く舞い降りていた。着ていた上着のボタンを閉じ首が埋まるように着込むと幾分か寒気も和らいだ。
人は頭のなかでならどんな人とも本心を打ち明けあって対話ができる。
その言葉を頭の中で何度も繰り返し、私は足早に帰路へと着いた。
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