第十六話

 店の入り口の扉を強めに四回、それを二度叩かれた。身支度をしてブルガーコフ宅へ向かうため、店を出るのを十三分後に控えていた時だった。窓越しに街壁と騎兵を意匠に象ったラビリンスク市警のバッジが突き付けられ、招き入れた二人組は黒いコートを雨粒に濡らし怪しい輝きを放っていた。壮年と年若い男性二人はそれぞれ警部と警部補で、ルスとユラというらしい。店内に足を踏み入れながら手帳を懐に入れるとコートの置き場を尋ねる。片隅に置いている真鍮製のコートスタンドを手で示すと、彼らはぞんざいにそれを投げ掛けた。店を構える際に大枚をはたいて購入した年代物のブランド品が、もの悲しそうに雨水を滴らせた。

「朝早くからご苦労様です。モーニングくらいは出せますよ。ホットをご所望ですか」嫌味を隠さずそう言ってカウンター席の適当な位置に腰掛けさせた。「私用があるので手短にお願いします」

 人相はそこまで味覚の好みの当てにはならないが、カフェをやっていると感覚的に得られる能力もある。私は気難しい表情をした壮年の方にエスプレッソ、口元が緩んでにやにやしている年若い方にカプチーノを手早く出してやった。すると二人は顔を見合わせゆっくりと互いの品を交換し合う。それを見て冷やしてあった固形キャラメルを数個皿に盛り、彼らの前にそっと差し出した。そこでルス警部が口を開いた。

「セルゲイさんはブルガーコフさんのお知り合いですね?」

 意図せず身体が強ばった。開口一番名前を呼ばれるとは思わない。ましてやブルガーコフの名だ。

「ええ、ラビリンスク以前より交友のある親友です。どうかしましたか」 

「非常にお伝えしにくい件なのですが、昨晩未明、彼が何者かに殺害されました。遺体の損傷が激しいのでまだ断定はされていませんが、死因は現時点で胴体を何度も刺された事による失血性ショックと考えられております。入浴が済んだ直後に襲われたのか、着衣は無く抵抗した形跡もありません」

 ブルガーコフが──。

「待ってください。彼が、本当に」

「ええ、遺体は既に回収し司法解剖に回されています。ご親友という事であれば心中察するに余りありますな。大変残念な事です」

 彼はラビリンスク以前、軍人で部下を抱える優秀な人間だった。例え衣服を身に付けてなかろうとその彼が無抵抗で殺されてしまうなど想像もできない。だからその話を信じられるまで猶予を与えて欲しかった。だが、それもルス警部の一言でどうしようも無くなる。

「つきましてはセルゲイさん、昨晩のあなたの行動についてお聞かせ願えませんか」

 昨晩私は営業を終えた後、閉店作業を済ませてからは自室に籠りささやかな手紙を書いていた。遠い地の友人へ向けてこちらの近況を連絡し、まだくたばってはいないか否か、面白い事はあったかどうか、仕事はどうだ、こちらは元気にやっている、まだまだ老い先長い身だからくれぐれも無理をして医者の世話にはならぬよう──そんな内容のものをしたため予定通り届けるため、夜道へ躍り出て近場の郵便ポストに投函しに行った覚えがある。しかし、昨晩外出した記憶はその一度きりであったし、ブルガーコフの自宅へ行くには徒歩でも数時間は下らない。彼の自宅に到着する頃には日が顔を覗かせていただろう。

 昨晩の行動を正直に掻い摘んで話すと、ユラ警部補が続けて訊ねてきた。

「つまり、昨晩はブルガーコフさんには会っていないのですね」

「ええ、そうです」

「では、ブルガーコフさんは打ち損じのまま他愛無い手紙を残していました。便箋に住所が書かれているので訪問した次第ですが、同じ街にいるのに普段からそれでやり取りを?」

 私は確かに彼とも基本的には手紙でやり取りしている。無闇やたらと自由に対面できないばかりに彼には迷惑をかけているが、彼なりに手紙の面白さを見出していたのは事実だった。だから死の直前も、彼は私に伝えたい事があったのだろう。

「彼とのやり取りは基本的に手紙だけです。顔を合わせるのは気が向いた時にごくたまにする程度ですが、彼も私もそれでちょうどいいと思っていたので特別な事ではありません」

 そう伝えるとルス警部が言った。

「では最近──口頭でも文面でも構いません──ブルガーコフさんに変わった事はありませんでしたか」

「変わった事?」彼が出し抜けに涙を流したのは変わった事になるのだろうか。否、それは無い筈だ。人間ならば誰しもその時の光景を思い出さずとも、抱き起こされた感情だけが今まさに眼を開き、初めて光を見た赤ん坊のように激しくこの胸にさんざめく。誰にでもあるような経験を殊更配慮があったかのように伝えるのは刑事相手に些か具合が悪い。「変わった事はありません。ついこの間来た際も彼は冗談を飛ばして元気そうでした」

 その瞬間、ユラ警部補が飲み干したカップの淵をスプーンで軽く小突いた。鼓膜の震えが聴こえるほど甲高い音にはルス警部があからさまに嫌悪感を顕にした。

「やめろこら。はしたない真似を」

「俺がいた国ではこうやって食器を叩くのが店員を呼び付ける合図なんです、カルチャーショックでした?──ああ、お金はちゃんと払うんでもう一杯いただけます?」

 揶揄うような彼の態度にルス警部は叱責を飛ばしていた。そして、彼らの合間に立つ追加のカプチーノの湯気を煙幕スモークに現れた彼女は、赤いベレー帽と灰色の羊毛ウールショール、黒い手袋という寒い街を歩く時の出で立ちでユラ警部補の隣に立ち頬杖を着いた。

「ねえセルゲイ」

 一瞬だが胸が高鳴った。

「この刑事たちに本当の事を話してみたら?」

「どうしてそんな」

「どうせあなたの話す真実は誰も信用しないもの。でもよく考えてみて」

 彼女の問はいつも迷いの入り口だ。彼女の言葉はいつだって私を惑わせ堂々巡りを助長させる言い方に充ちている。だが、かつてもそうだったのか。

「わからない? 答えが知りたい?」

「貴女が欲しい答えは何だ。望むものは」

 すると彼女、着いていた頬杖を解くとユラ警部補のエスプレッソを刈るように掠め取り、手に持ったかと思うとショットグラスの要領で一気に飲み下した。「あなたの作るコーヒー、やっぱり美味しい」そんな独り言と共に大きな溜め息を吐いた。「セルゲイ。あなたは頑張ったわ。ラビリンスクここでの生活を」

 彼女はまた身を乗り出してルス警部に出したエスプレッソを掠め取って飲み干した。ルス警部の怒り顔を横目にしながら「これもいける」と、上目遣いで私を見つめ「答えを教えてあげる。あなたの言う事は嘘ばっかりで信用ならないけれど、その態度は紛れも無い本物。あなたは自分で纏った虚飾をいつしか本当にしてしまう癖があった。そうして自分を保って来た事を、わたし、よく知っているの。だってわたしに綺羅を纏わせてくれたのはあなたなんだもの。セルゲイ」

「いや違う。貴女への姿も声も、愛情も、全てが真実だった、偽りの無い」

「でもあなたは突然来なくなった。薄々は勘付いていた。おかしかったもの。誰でもおかしいと思う事を、あなたは惚け呆ける事で難を逃れて来た」

「しかし、私は」

「あなたはラビリンスクここで生きる事で信頼を得た。今のあなたが信頼されているからこそ警部たちはあなたの真実になんて耳を貸さないの。、あなたは身を守るための虚飾、仮の姿だと思っていたようだけど、やっぱりそれを、いつしかあなた自身の真実にしてしまった……」

 そして彼女は手袋を取り、左の人差し指を私の唇へ伸ばした。やわらかいその腹の押し当てられる感触にとうに忘れていた熱さが込み上げた。思い出すたび夜の熱さには何度身体が奮えたか分からない。暗闇にすら色めくその肌の白さには、私を騙す綺羅や虚飾など見られなかった。

 それはある夏の日だった。山間のその村は過去に例を見ない記録的猛暑を観測し、誰も彼もが半裸や薄着で過ごす日だった。仕事が一段落してようやく彼女の元を訪れた時、彼女もまた薄い肌着にレースの羽織ものという出で立ちで私を出迎えてくれた。そんな姿で私以外の人の前にも出るのかい、と問うと、彼女ははにかんだ唇の合間から白い歯を見せて笑んだ。その様子に安心して、私は彼女の出迎えに抱擁で応えた。一瞬驚いたように体を震わせた彼女だが、すぐに腰に手を回してくれた。それから鼻を鳴らして「汗と土の匂い」と囁くと、手を取ってシャワールームへ引っ張ってくれた。「野良猫さん、そこで綺麗にね」扉を閉め、足早にリビングへと戻って行った。私は服を脱ぎ、確かに感じられる汗と土の匂いに顔を顰めてから蛇口を捻った。

 備え付けの石鹸を借り一通り全身洗い終え、シャワールームを出るとバスタオルにズボンとTシャツが用意されていた。良い香りのする方へ向かってみれば、キッチンで飲み物を用意してくれている。その間、私は勉強の成果を彼女に披露した。家の周囲にある花や草の名前を当ててみせ、原産や開花時期なども言い当てる。小さな鉢植えや瓶に入れられた地衣類はそれぞれ夏に適切な日当たりの場所に移動してやった。

「とても熱心に勉強してくれたのね」

「勉強しか取り柄の無い平凡な人間ですから。貴女こそどうやって植物の勉強を。本だけではとても身に付きそうもない」

「大部分の知識はこの間貸した叔父の著作から。応用は自分で園芸を始めてから、間違いや失敗の繰り返しの中で得たの。植物と言っても生き物相手には違いない。心苦しい経験もあった」

 私にはよく分かりかねる答えだった。人間のようにはっきりした喜怒哀楽の感情を見せる相手に対して何かしら感慨を抱く事はあっても、泣きもしなければ笑いもしない植物相手に心苦しくなる事などあるのだろうか。

 例えば理科の実験のために採取される草花は悲しんでいるのか。鳥たちによって木の実を啄まれる時はやはり嬉しいのだろうか、山火事に遭って周囲の皆諸共焼失しようとする瞬間などは嘆き励まし合うのだろうか、あるいはお互い葉を擦り合わせて、たった一羽の青い鳥に助けてくれと請い願うのか──彼女はそんな問答を密やかに繰り返す私を余所に茶を淹れてくれた。自家栽培のハーブで作ったというその茶は不思議と心安らぐ独特の香気があった。何の葉なのか訊ねるとシーバックソーンという見た事も聞いた事もないものだった。実をジャムにしてお湯で溶かしているようだった。茶請けにヨーグルトを混ぜ固めた木の実入りの寒天を差し出しながら彼女が言った。

「こんなものしか出せないで、何だか恥ずかしい」

「何故です」

「だってあなたはこんな辺鄙な山間の村になんか、本当はご興味無いんでしょ? 召し物もいつも高級そうに見えるもの」

 面食らってしまった。そして次にはお腹の辺りがむずむずして、しまいにはついつい笑いが込み上げてきてしまった。

「そんな事はありませんよ。異文化を知るのは良い事と思っていますし、下界暮らしの長い私にとってはここで知るもの全てが興味に溢れています。仕事も仕事ですし、シャツもスーツもひと月節制して過ごせば買えてしまうような安上がりの既製品です。所詮は見栄張り、虚仮威こけおどしですよ」

「ええ。でもそれが、時に真実になる事もあるのでは?」

 瞬間、頬が引き攣ったような感覚になった。実際に引き攣っていたかもしれなかった刹那の彼女の表情は、いつもと同じ朗らかな微笑みを湛えていた筈だ。

「思い出した?」

 彼女の問いに私は頭を振った。思うように動かないぎこちなさは首の骨が錆び付いたかのようだった。

「そう」

 そして彼女はあの時と同じ、とても満足した笑みで私に顔を向けてくれた。彼女は席を立った。冬の街を歩く出で立ちを翻して出口へと向かって行く。

 ふと、尋ねたい事が頭を過り背に向けて問うた。

「すみません」

「何でしょう」

 出口に向かう刑事たちに声を掛けると、彼らは訝しみながらも振り返った。

「フェリクスを知っていますか」

 刑事たちは眉を顰め答えた。

フェニクス不死鳥? どういう意味ですか」

 私は適当にはぐらかしそのまま刑事たちを見送った。

 これからブルガーコフの自宅へ行っても規制線が張られ中に入る事はできない。向かったとしても怪しまれるだけだ。犯人は現場に戻る、とは警官のみならず広く一般的に知られたジンクスであるし、二人が見せてくれた警官バッジは本物だったようにも思う。昨晩未明に彼が殺され発覚したのが早朝だとして、こうして警官が店に訪れたのは私を被疑者として十分見込んでいるからだろう。任意同行は無かったが今後また話を伺いに来たり連行される可能性はある。そして彼の死によって惹起される気持ちは疑いようの無い私の本質だった。その可能性の事実によってブルガーコフは確かに死んだのだ。何者かによって、残虐な方法で。

 私はふと、二杯分の代金の横の、カウンターに置き忘れていた本を見た──『微笑を誘う愛の物語』。

 君はこれを伝えるために私の前に現れたのか?

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