第三十一話

「ママ!」

 後ろから叫ぶ声と押し退けて来る感触で再び我に返った私は咄嗟に手を伸ばした。いつの間にか梁にぶら下がっている彼女がニューシャへと姿を変え、エリューシュカは泣き叫びながら必死に彼女を下ろそうと奮闘していた。周囲にヴィズドムィの気配が無い事を確認しながら私も中へと入りニューシャを下ろす作業に加わったが、下ろしている作業の最中でも否応無しに感じられた。ニューシャは既に息絶えていた。

 冷たくなった身体に覆い被さり、何度もママと叫びながら激しい嗚咽を漏らすエリューシュカに掛けてやる言葉が見付からなかった。ここに至っても私は気の利いた言葉ひとつ掛けてやる事ができないのか。

 一頻り泣いたエリューシュカはようやく顔を上げた。その眼は真っ赤に充血し瞳の黒は暗く沈み込んでいた。その目が私にゆっくり向けられ全身が硬直する。「済まない」口から出た言葉は謝罪だったが彼女は力無く首を振った。「おじさんのせいじゃない」そして顔付きも声も悲嘆から疑念に一変させ私の後方を震える指でさした。

「ねえ、あれ……」

 振り向くと玄関扉には金毛のプードルが立っていた。かと思えばまばたきの早さでその姿は赤毛に変わる。ペチカ──ヴィズドムィが話の中でそう呼んでいた可愛げもクソも無い犬──は、こちらへ駆け出すなりエリューシュカに向かい顔を舐め始めた。涙の跡は長い舌で舐め取られ代わりに唾液がまとわり付く。その犬はとうの昔に死んでいて然るべきで、この犬は二代目か三代目に当たるのだろう。てい良く懐かれ擽られるエリューシュカにも僅かながら笑みが戻った。私は一層精神を研ぎ澄まし周囲に気を配る。やはりここにはヴィズドムィがいる。だが今は外出しているのだろうか。

 ペチカの舐め回し攻撃から解放されたエリューシュカも幾分気を取り直し、ニューシャの遺体に目を向けた。地べたに寝かしたままでは忍びないと言い出す彼女に理解を示し、奥の部屋にベッドがある筈だと告げてやる。かつての記憶の通りに彼女を運んで向かったベッドには、何者かが既に寝入っているような厚みがあった。一瞬ヴィズドムィかと身構えたがそうではなく、真白く綺麗に整えられ寝かし付けられた一体の白骨死体だった。

「おじさん、この人」

「ああ、そうだろう」

 実物大の標本のようにも見えたがそれは彼女の遺体だった。家の前に空いていた大きな穴は土葬されていた彼女を掘り返したもので、骨を丁寧に洗浄漂白し再びこのベッドに寝かし付けたのだ。

 その時背後に彼女の気配が生まれたが無視した。ベッドの白骨死体は金属糸のような細いもので骨と骨が繋ぎ合わされており、通常胸の前で手を組む姿勢ではなく、両腕の肘から先を持ち上げ手の平で空を仰ぐ奇妙な姿勢になっていた。骸を恐れる余裕など無いがその形をなるべく崩さないよう両手でゆっくりと床に置き、代わりにニューシャの遺体をベッドに寝かし付けてやる。締め跡を隠す為にシーツを首元まで寄せて見えないようにすると、それを見るエリューシュカの表情がまた少し落ち着きを取り戻した。ヴィズドムィがいつやって来るかの脅威は消え去っていない。エリューシュカにはここにいるよう伝え、ひとり入って来た部屋へと戻った。

 彼のペチカはどうやら動く者に反応するらしい。今度は私に無邪気な顔で付いて来てしまった。だから「何故笑う?」適当な位置で身を翻し訊ねた。行儀良くお座りするペチカを優しく撫でる仕草をしながら彼女は満足そうに口元に弧を描き私を真っ直ぐ見つめていた。唇を彩るヴィオラの青紫色は首の周囲にも同様に浮かび上がり、気味の悪い洒落っ気をこれ見よがしに見せ付けながら初めて光を見たばかりの赤ん坊と遜色無く暖炉の火が写り込む双眸を煌めかせていた。「やっと帰って来られた。ようやく会いに来てくれた」彼女は私の内なる声を代弁し両目を閉じた。その声を聞いて私の胸中には忘れかけていた郷愁の感情が溢れ出してきた。ここが、この温かさと彼女の声こそが本当に帰るべき場所だった。たとえ彼女が死んでいようと理想の幻が見せてくれるものは何より正しい再生の都ニューフに他ならない。「ああ、会いに来たよ」彼女は最後に会った日と同じ柔らかな笑顔をした。彼女が歩み寄り、私も近付いて行く。手を伸ばせば触れ合える距離になり今一度その姿を真っ直ぐに見据えた。あの日の太陽の輝きは永遠に失われた、青白い顔に青紫の唇と首飾りは死装束と変わりないのに、存在しているだけでそれが今も尚生きているという願いに取り憑かれてしまう。「今なら貴女に触れる気がする」そう言うと彼女は、「貴方はその気になればいつでも触れた筈」と悪戯を企む指で招いた。両手を伸ばして肩口に手を乗せる。腕の線に指を這わせてその輪郭を感じ取った。触れている。彼女が亡霊となって現れてから一度だって触れた事の無い身体、想像通りの滑らかな肌によって、情熱が蘇ったかのようだった。目を閉じて抱き締めた身体は冷たく、それが余計に心地好く感じられて、私はつい腕の力を強めてしまった。すると、雲を掴むのと同然に彼女の身体が薄く軽くなった。腕は空を切り、目を開けると彼女は消えていた。手の平に温かさを感じて見ると水のようなもので濡れている。そして、後ろから声が聞こえた。

「こりゃ珍しい客人だ」この声には覚えがあった。振り向いた先にいた声の主は防寒具を着込み大量の薪を背負って玄関に立っていた。傍らに座り込んでいたペチカが立ち上がり犬らしく尻尾を振り回しながら嬉しそうに駆け寄って行く。「足跡が二つあったから誰か来ているだろうとは思っていたが、ここまで来るのは大変だったろ。今温かい飲み物を出すから適当に寛いでてくれ」

 私は殆ど突然の事に身動きが取れずにいた。しかし当の彼はペチカを撫でた後、薪を暖炉の近くに下ろしながら不思議そうに見てくる。まるで他者を求めながら孤独を愛する優しい巨人であるかのように、この男が三人を殺した残虐な殺人鬼とは思えない心配を露わにした。

「どうして泣いてる?」

「いや、本当に、ここにいたのかと思って」

 咄嗟に切り返した言葉は自分でも意味が分からなかった。ここにヴィズドムィがいる事が半ば分かりきっていた筈なのに頓珍漢な物言いだった。ところが彼は明らかにおかしな言い方には一切気を向けず、軽く受け流してキッチンに立ち、飲み物の準備を始めた。余りにも普通と呼ぶほかない対応が過ぎて警戒心も呆気に取られ、彼に言われるままテーブルの椅子に腰掛けた。相手が殺人鬼だと分かっていて丁重にもてなされる者がどこにいるのか。しかし、振り返ってみれば彼が殺人鬼である確固たる証拠はここまで来ても存在しない。単に私が状況証拠から推測して彼が犯人だと推察しているだけだ。何を企てているかまるで予想が付かない者を相手にするには、今一度警戒心を最大限に高めなければならない。

 ヴィズドムィが温かいインスタントコーヒーを淹れたマグカップを私の前に置きつつ、対面の椅子を引いて座った。「店で作ってくれたのとは比べ物にならんが、無いよりマシだろ。どうぞ召し上がれ」

 人を三人も殺しておいて何故違和感無く冷静でいられるのだろう。そんな風に思う私も傍から見たら、ヴィズドムィと同様に焦るべき状況で平静を保っている狂人なのだろうか。「ここに来るのは大変だったよ。慣れない雪山登山だったが君は慣れているように思うな、ここは長いのか」

「いいや」彼は首を横に振った。「仮宿みたいなもんだ。言っただろ。おれには帰るべき家が無い」

 確かに彼は人探しの過程で家の在処を見失ったと言ってはいたが、家が無いと言い張るにしてもこんな山奥で周囲に何も無い場所を仮宿と称するのはどう考えても無理がある。私はなるべく日常会話をする軽いトーンで単刀直入に問い質した。「いつから私を追い掛けていた」と。しかし、ヴィズドムィは真顔のまま眉ひとつ動かさず答えた。「もう二十、いや三十年近くになるか。忘れちまったな。R国軍として従軍してたんだ、息子共々徴兵されて」

「子どもがいたのか」

「二人、男の子を。十五と十七さ。戦闘で死んだと知ったのは戦争が終わってからさ。酷いもんだ」

 知らなかった。私がこの家に来たのは開戦直前だったが、彼女に家族がいたという痕跡が全く残っていなかったのだ。写真の一枚くらいあっても良かった筈だが、それさえも私が目で見た記憶には残っていない。

「妻がベッドで死んでいるのを見て、その死に姿を見て、おれは目の前の現実が信じられなかった。戦争から帰って来たら守るべき人間が死んでるんだ。戦場じゃない、ベッドの上で、安らかに。冗談みたいだろ。前から言ってたんだ、ここは山地でもЯ国との国境沿いで危ないから麓に逃げよう、内地の方がまだ安全だって。妻は頑なにここがいいんだと言って憚らなかった」

「もしかして不仲だったのか」

「ある意味ではな。特にR国内が誰の目にも分かるほどきな臭くなってからは喧嘩が絶えなかった。どうせ家の物も捨てたんだろ、普段は温厚だが意外とそういう癇癪持ちの部分もある。嫌な事があった時は古いものを捨てて新しいのを揃えるんだ。あんたは知らないだろうけどな。花壇の花や植物は季節が変われば一新できる」

 ヴィズドムィの言葉には信憑性があった。私に見せた事も無ければ想像させた事も無い彼女の一面を彼は知っているのだ。それは彼が彼女の夫であり十数年以上を共にした伴侶だったからだ。それに引き替え私は数ヶ月の間のたった十数日足らずの時間を共に過ごしただけだ。その中で夜を共にした事は何度かあった。あれは彼女が彼と喧嘩別れした傷心を私で慰めようとした結果だったのだろうか、それとも本当に私の事を愛してくれての行動だったのか。

「なあ、手紙の事は知ってるか」

「手紙?」

 何の手紙の事を言っているのか分からなかったが、次に出て来た言葉で思い出した。

「『君の場所は未来を感じさせるけど、どこか窮屈そうに思う時もある。こんな風に思うのも私がそちらを訪れた事が無いからだろう。近々そちらへ旅行にでも行こうかと思ってるよ。異文化交流ってやつだよな。今は仕事が忙しくて行けそうにないけど、頃合を見つけて絶対に行くから楽しみに待っていてくれ』」

 その手紙の存在を私は確かに知っていた。「ああ……」

 ヴィズドムィは椅子の上で身動みじろぎし姿勢を崩した。「昔から知ってたさ。あんたの事はずっと探してた。メルボルンに住んでる設定で実際にそこに滞在して旧い友人と称して手紙を送り続けた。我ながら大胆なやり方だしこんなので引っ掛かるかと思ったが、あんたは信じた。傑作だ」

 それもまた虚を突かれる事実だった。彼の言う通りなら私はずっとヴィズドムィに日常生活のあれこれを綴った手紙を疑いもせず送り続けた事になる。私にとって旧い友人と呼べる些細な人間は同じ調査隊で軍人だったブルガーコフと、斥候部隊が来るからと寝坊していた私に逃げるよう部屋まで来てくれた彼だけだった。だから私の過去を知っているのはその二人だけであり、ヴィズドムィはその一方を騙り私に接近して情報を仕入れようとした。腹の底から怒りとも不快さとも知れない何かがふつふつと込み上げてくる感覚がした。

「フェリクス、もう嘘は吐かなくていい」

「何言ってるんだセルゲイ。嘘なんか吐いてない」

「それも嘘だろう。身なりから行動、生き方まで。ホームレスじゃない、家もある、私を陥れる為に悪意を脱色した善人の振りをして近付き仲間を次々殺したんじゃないか」

 そう言うとヴィズドムィは憑き物が落ちたような真顔になり、すぐに破顔していつもの穏やかさで笑い始めた。

「ああ、殺したよ。調査隊の生き残りはみんな捕まえてやった。初めは国の作戦で、途中からは独断で」破顔していた表情も笑いも止み、彼は言った。「あんたは特別さ、セルゲイ。だから仲間を殺してやった」

「どうして」

「おれは嘘は吐かない。おれは自分に正直に生きてる。最初からおれはあんたの鼻っ柱に唾を吐き掛ける為に今まで生きてきた。正義も嘘も過去にあった事も全部引っくるめてあんたと対等になろうと努力した。そうさ、おれたちは仲間だろ? あんたがそう言ったんだ。自分を偽っていい気になって同じ女を愛して、好き放題に抱いたよしみだろ?」

「言うな、気安く……」

 彼は頭の後ろをぞんざいに掻き大股で歩み寄って隣に立ち言い放った。

「なあセルゲイ、ヤナはどこだ。すぐ近くに見えてるんだろ。どこにいる?」

 胸が高鳴った。彼に見えている筈が無い。彼女は死人でこの世にはいないのだから、見えるとしたら亡霊か、私がその想像を信じきっているだけの幻でしか有り得ない。だから私はひとつの可能性に行き当たった。「まさか、君にも」

「見えてるとも。──なあ?」ヴィズドムィは私の後方へ向かって気さくな声で呼び掛けた。振り向いてみても当然その姿は見えない。そして振り返れば彼女がヴィズドムィの後方に見えていた。

「おれたちは幻を見てる。二人揃って狂った現実に理想の姿を見ちまうのさ」

 視界に入る彼女の顔がにっこりと笑うのが見えた。

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