第三十二話
そして、その笑顔は私に向けられてはいなかった。
「セルゲイおじさんから離れて」
エリューシュカの声がした。立ち上がっていたヴィズドムィが先に動き彼女の方へ向かうが、すぐに動きが止まった。見ると彼女は私が預けていた拳銃を構えヴィズドムィに向けて立っていた。唯一教えた構えと違うのは引き金に指をしっかり掛けている事で、しかもその指にはいつでも発砲できるよう明らかに力が込められていた。
「お嬢ちゃん、そいつは人に向けるもんじゃないぞ」
「おじさんみたいな人に向けなきゃ使えないでしょ」
彼は一瞬目を見開き、真一文字だった口端に僅かに弧を描いた。「確かに、こりゃ一本取られた。ちゃんと使い方は教えてもらったか、なんならおれが教えてやってもいい。これでも警察官だったから銃の扱いには慣れてるさ」
目尻を垂れ誰にでも優しく見えるような表情で彼は一歩踏み出した。エリューシュカは体を大きく震わせ拳銃を構え直した。引き金を引いたら確実に彼の体のどこかに弾丸が当たるように。しかし、彼は歩みを止めなかった。見え透いたはったりだと気付かれているのか、死んでも構わないとでも思っているのか、彼の歩みは尚止まらなかった。だからエリューシュカは彼が一歩踏み出す度に呼応するように後退し、肩を震わせ拳銃をちらつかせたが、掴み掛かられたら何をされるか分からない、その恐怖心には勝てなかった。
「来ないで!」
エリューシュカの指が引き金を引き、乾いた破裂音が狭いキッチンに響き渡った。ヴィズドムィの両目が見開き視線が右肩に移ってゆく。身に付けたジャンパーには小さな穴が出来ており、彼はまたそこからゆっくりと視線を戻した。我々の緊張感など知る由も無かった脳天気なペチカが音に驚いて部屋の中を一目散に駆け回る。勢いで椅子や食器棚にぶつかったペチカはそのままテーブルの脚に顔面を強打し床に伏せてしまった。拳銃を向けられているヴィズドムィがエリューシュカからペチカへと進路を変え、当たった箇所を優しく撫でてやった。「ああ痛かったな。撫でてやればもう大丈夫、ほら痛くない。後でおやつ食おうな。だからそんな悲しそうな声で鳴かないでくれ」自身さえ怪我をしているはずのその声は三人を殺した人間のものとは思えないほど慈愛に満ち、そんな彼の手をペチカは愛おしそうに舐めていた。そしてエリューシュカは、私と彼の両方に視線を交互させ問うた。
「どうして」拳銃に弾は込められていないと嘘を吐いたのか、銃撃を受けた彼は呻く事もせず平然としていられるのか。「痛くないの……?」
「痛いさ。多分血も出てる」ヴィズドムィが立ち上がり彼女に近寄った。しかし拳銃を奪い取るような真似はしなかった。彼はただこう言った。「今なら分かるんだ、セルゲイ。爺が言っていた事が」
エリューシュカに視線を向けるが彼女の目もまた困惑の色を湛えていた。ヴィズドムィは続けて言う。
「本来なら憎むにすら値しないものを、憎まざるを得ない境遇を。全くあいつの言う通りだったよ」
それは彼が語ったかつての話、自分だけの虚妄に憑かれテロを企てたアルカジイ・レゾンスキーが最後に放った言葉の筈だ。その企みは結局ヴィズドムィその人によって未遂に終わってしまったが、ここで同じ言葉を放つという事は、やはり彼にはまだやり遂げていない事があるという事だろうか。
「多分お前らには、おれに怒りと憎しみが渦巻いていてそれがおれを突き動かしているんだと思うだろうな」彼はペチカの傍らに座り込み、頭を撫でながらさらに続けた。
怒りと憎しみはやがて義憤へと変わった。初めは最愛の者たちが理不尽な暴力によって亡くなった事実にその矛先を向けていたが、それは時とともに彼女を自殺に駆り立てた何者かを暴く事に
そして私を見つけ出した。最初はメールによって、次に、店に実際に出向く事によって。彼は私が何の疑い無しに只酒を与えてくれる事に驚いた。まるでメールに書かれていた通り旧知の仲であったとでも言うように気さくなやり取りをしてくれた。その後も店に向かうたび酒を奢ってくれた。身の上話を聞いても腹の傷を見せても彼女の名前を出しても一向に尻尾を見せない私に、彼は自身の感覚を疑い始めた。本当にこんな奴が彼女を殺した人物なのか自信が持てなくなっていった。しかし同時に、その優しさこそが彼女を絶望させ死に至らしめる程の惨い行為に結びついたのではないか、そう思うようになっていった。
「おれにもあんたにもお互いに対する優しさはある。身の上を俎上に載せて細切りにした経験を肴に、楽しく語り合う事だってできる。だからこう思わないか。最後には血だって流し合うべきだ」
肩口の弾痕を左手に作った拳で叩きながら、最後のその言葉を言い終える頃にはヴィズドムィの声は明らかに低くなっていた。獣のように唸る声に慈愛など一切感じられなかった。気付けばエリューシュカは再び拳銃を両手で構え彼に銃口を向けていた。
「ママを殺したのはセルゲイおじさんへの復讐の為?」
するとヴィズドムィは鼻で嘲笑った。
「そんな出来損ないの見世物みたいな動機でママが殺されるべきだったと思うか?」
エリューシュカの肩が震えた。銃口を彼に向けたまま視線を私に向けてきた。疑念の含んだ目を、私に。
「勘違いしてもらっちゃ困る。おれがセルゲイと何度か会って感じたのは、その他には何も要らない唯一無二の友情だ」
その言葉にはエリューシュカも黙った。友人と呼ぶべき者がいなかったエリューシュカにとっては、たとえそれが想像であっても重く大事なものであると分かっているのだろう。
「勿論最初はブルガーコフとあんただけ始末できれば良かった。地質調査に関わった二人だけを。ところがどうした、ブルガーコフを手に掛けた日から様子がおかしい。二人だけで済ませる気なのか、そんな囁きが耳元に聞こえてきた。おれとお前、家族と親友、少なくとも対等な関係になるにはあと二人はやらないとどうしても数が合わない。だからスラーヴァもニューシャも殺した、命の重さは均しくあるべきだ」
エリューシュカの目から光が消え、消えた光が目尻から零れ落ちた。ゆっくりと膝を折り背にしていた扉に身を預けて拳銃を手放し、三角座りになって顔を伏せる。本来ならニューシャもスラーヴァも私とブルガーコフが抱えていた過去の問題とは全く無縁の存在だったのだ。彼らはただ私と親友であった事による数合わせのためにこの男に殺されてしまった。そんな事があっていいはずが無い。しかし現に、彼らは全員死んでしまってもはや生き返る事も叶わない。
「私は……」喉から言葉が辛うじて出て来た。「私は、君にどうしたらいい」
そこで彼は突然黙り込んだ。それから掠れた音で喉を鳴らし、次第に大きくなって引き攣った笑いを始めた。
「街角に籠って、こそこそみみっちく生き長らえてたドブ鼠。どんな人間の風上にも置けねえ薄っぺらいゴミクズ。それがどうして。てめえみてえなちっぽけな奴がおれの妻だけ辱めて殺す事ができたんだ。おい、え? どうやったんだ」
この期に及んで彼が何を目的に私を問い詰めているのか分からなかった。私が彼女を殺した訳では無い。初めに彼女を殺したのは恐らくあの素行の悪い兵士たちで、その次に彼女を殺したのが彼女自身だった。今思えば庭が荒らされていたのは彼女の癖である所の癇癪に違い無い。ともかく彼は私が彼女を死に至らしめた最大の原因だと思い込んでいる。
「てめえは調査隊の主要メンバーだった。クソ親父の伝手だ、隊の中でも地位がある。妻を寝取った事実も知ってる。おれが知らないとでも思ってたか」
「違う。誤解だ。勘違いしている。私はただ彼女と出会って、君を、家族の事は何も知らずに、家に行って、彼女が私を受け入れてくれるのを待って……」
「知らばっくれんなこのゴキブリ野郎!」
彼が激昂し身を翻して大股で近付いて来たかと思うと私の左目を拳で勢い良く殴り付けた。そのまま頭から転げ落ち、強い衝撃と共に脳髄まで響く痛みに意識が一瞬飛んだが、左目を手で押さえ持ち直して彼を見据えた。その顔は怒りや憎しみ、義憤などとは程遠い静かな表情をしていた。
そして、彼の表情の後ろに彼女の姿が見えた。「悪いな強く殴り過ぎた。手を貸してやるよ、ほら」彼が手を伸ばして来ると同時に彼女の目が思い付いたように見開き、次いで唇が大きく孤を描いた。その表情はどんな悪戯じみた楽しみを見つけたのか理解し難いほど酷く子どもっぽく見えた。「手を貸してあげる、ほら」彼女はその身体が実体を持たないのを良い事に、彼の身体にその身を重ねた。
「やめろ! どうしてそんな事するんだ」
「何言ってるセルゲイ。友人同士せめてもの思い遣りだろ」
「貴方はこの手を跳ね除けるつもり?」
目の前の身体は幻と重なりこの世に存在しない異形の生き物同然に見えた。頭が額の部分で二頭に裂け、眼は四つがそれぞれ瞬きし、歯列を見せた口の奥にもうひとつの口が白い歯を見せ、さらに奥には艶かしい二枚の舌がくっ付いたり離れたりして、話す度に口蓋を強く叩いた。差し伸べられた手は重なり合って十指になり、細かな動きが不規則な揺らぎとなって触手のように蠢いている。
「どうしたセルゲイ、瞳孔が開ききってるぞ。呼吸も早いし、怖いのか。それとも──おれが一体何に見えてる?」
「近寄るんじゃない! 私に近寄るな!」
叫ぶなり差し伸べられた手が引っ込められると、重なった身体が陽炎のように形を留めず揺らめいた。ヴィズドムィが手放された拳銃を取りに行って彼女がそれに付いて行く様はさながら魂が乖離した影のようでもあった。これは私が見ている一連の幻に過ぎないのだろうか。それとも幻の中に抗い難い現実を見ているのか、現実に幻が侵食しているのか、どれも判断が付かない。今や想像の産物だと思っていた彼女の身体はヴィズドムィの肉体を仮宿とし私に触れ得るまでに至り、不定形の異形が出来の悪い合成映画のように、夢とも現とも言えない姿で目の前に無邪気に現れている。
「何故、どうして私の前に現れた」
「もう一度懇切丁寧に教えて欲しいか?」
「それはこちらに言っているのね」
二人の声が重なって聴き取りが難しかったが、彼女の声だけに神経を集中させた。
「貴方たちはいつも大切な事を忘れたがる。過去にあった事は全て自分の苦い経験で、今に禍根を残すなら消してしまった方が良いと。確かに花壇の花や植物を植え替えて気分を変えるなんて事していた人間が言うのもおかしいけど、大切な事は忘れてない。貴方たちはどちらもその人なりの愛しさを降り注いでくれた」
彼女は一旦ヴィズドムィの肉体から霊魂のように離れて拳銃を見つめ始めた。
「彼の言う通り貴方は優しかった。あの日、家に来てくれたのは連れ出しに来てくれたからだった。でも貴方は死体を見慣れない。どうして死んでいるのかも分からなかった貴方は恐怖心に勝てなかった。だから手紙を読んでそれが自分のせいだと思う心から逃げた。その時に貴方は大事な物を永遠に捨て去ってしまった。ねえ、何か大切な事を忘れてない?」
今までずっと引っ掛かっていたのは彼女によって示されたたったひとつの願いだった。
「貴方が忘れてしまった優しさの断片は本当はこうだった──もし過去に遡ってもう一度貴方に会えたなら、その時は貴方に、殺して欲しい、と」
思い出した。あの手紙に書かれていた文面の全てが手指に感じた便箋の手触りと共に脳裏に蘇ってくる。
──もしこれを読んでいるのなら、まずは最初に謝ります。ごめんなさい。先日、本当に大切にしていた花壇をめちゃくちゃにされました。夜だったからよく分からないけれど、多分麓からの兵隊でしょう。抵抗したけれど無意味で、それで何もかも嫌になりました。それとは別に貴方と一緒に過ごした日々は楽しかった。割り切れない気持ちを秘めた心が大きな愛に包まれて胸が高鳴る日々だった。それを引き裂く結果になってしまうのは貴方にとっては裏切りと呼べるかもしれないけれど、今はそれも恨めしく思う事しかできない。だからここには貴方への感謝も記します。ただ欲を言うなら、もしもう一度貴方に会えたなら、その時は貴方に「殺して欲しい」と、ただ一言そう言うつもりではあります。ありがとう。さようなら──。
「殺して欲しい……」
「そう、今がその時だ。妻の手紙に書かれていた願いの瞬間がこの時だ」
気付けばヴィズドムィが
「君はその言葉をどう思う」
「せめて死ぬ間際に唯一叶えて欲しかったささやかな願い。おれは妻の願いを叶える」
「確かにヤナは殺して欲しいと、自身がとうに死んでしまった未来の私たちに投げ掛けた」
「おれたちは必ずどこかで出会うと妻は確信していただろうな。だからтыを使っている。それくらいおれにも分かったさ。それ程妻があんたの事を愛していた事も」
「だがあの手紙は、私ではなく君に対して書かれたとも言えるじゃないか」
「だからこそだ」ヴィズドムィがにわかに笑みを浮かべた。「どちらか死ねばそれで終わる、選べ」
そして、してやったりと言わんばかりの表情の向こうを私は睨み付けた。ヴィズドムィの顔に見え隠れする彼女の顔は声も無く大笑いする表情そのもので、そこでようやく心の底から気付くものがあった。彼女はもうこの世にはいない。
「いや──死ぬのは君だ」
咄嗟の言葉にヴィズドムィの顔が驚きに満ちる前に拳銃を両手で締め上げ捻り取る。取り戻そうと掴み掛って来た彼が拳銃に手を触れる前に肩口の弾痕に向かって一発放った。呻き声を上げて押さえようとした左手の甲を撃ち抜くと、隙を見て体勢を翻し今度は私が彼の鳩尾に片膝を着き馬乗りになった。吼えるように呻くヴィズドムィに、しかしこれ以上の追い討ちはしない。
「彼女の願いを叶えるんだ。今ここで。役者が揃ったからな。その通りだ、血を流して済むのなら私にだって成すべき事はある」
握り締めた拳銃を彼に向けた。ヴィズドムィの見開いた両目の奥に自ずと自身の姿が映った。そこには遠い日の私、何も知らない青二才だった若い頃の姿が見えた。彼の姿の向こうには同じように横たわる彼女がいて、私の頬に両手を添え、安らかな微笑みを浮かべていた。
「生命の樹に参らんとする名も無き旅人だとしたら、貴方は……」
その瞬間、頭の中でドアを強く叩く音が聴こえた。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も──。
文学は「狼が来た! 狼が来た!」と少年が叫びながらやって来るが、その後ろには狼なんかいなかったというその日に生まれた──だがもし、少年が叫び続けた虚構が出し抜けに凍り付き、途端に冷酷な現実となってしまったなら。
或いは望まれて生まれ得ない者こそ、皆多かれ少なかれ狼になってしまうという事だろうか。決して愛されない筈の存在がこの世に生まれ着いた時、そいつは餓えを満たそうと愛を求めて彷徨うのだろうか。
見た事も無い愛だけを。
見た事も無い愛。
見た事も無い愛だけが。
「見た事も無い愛だけが……私の中にいつまでも、凍り付いた
今日、私を殺人者にした。
しかし罪には問われない。
事実──真実。想像もつかない真実の積み重ねが時として無意識に見ず知らずの他者を殺めたとして、咎められるのは何者なのか。
ほんの二ヶ月前まで、私はただのカフェのオーナーだった。それがひとつの真実だ。
私はゆっくりと顔を上げた。
だがもうひとつ、遡れば、真実は──。
「どうして」
ヴィズドムィの顔が呆然と驚きに満ち私の右の瞳に向けられていた。彼の顔の横にはコーティングの剥げた三つの白い銃弾が床に少しの窪みを作るばかりで無造作に転がっていた。私は拳銃を投げ捨てた。元気を取り戻したペチカがそれを目で追いかけ咥えて持って来ようとするのを声で諌めた。「それは遊び道具じゃないよ」
もうひとつ遡れば、真実は──私はЯ国で軍人家系の隠し子であり、人に知られず生きてきて、調査員として連れ添われ、山の村で彼女と親密な時を過ごし、戦争から逃れた難民で、流れ着いた地で虚仮を纏ったしがないカフェのオーナーとして、長い間彼女の夫に恨まれ仲間を殺された者として、ここで彼と対峙した、ただ流されるだけの人──そういう事だろう。それが全てだった。憎しみや復讐心は仲間を無下に殺された私にこそ無かったとは言い難いが、それでもここで彼を殺さずにいる事ができているのは
私は大きな溜息を吐いてから蹲るエリューシュカに近付き肩を抱いた。「もう大丈夫。怖くないから」なるべく優しく声を掛けると体を寄せて静かにすすり泣き始めた。我々にとってはここが人生の一つの区切りで終わりのはずだが、彼女にとってはここからが始まりで、先は長いに違いない。
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