第三十三話

「パパ!」

「いたのか。済まない。気づかなかった」

「いいよ、どうせまだ慣れないんでしょ」

「嘘だよ気づいていたとも。君の階段を叩く足音は些か粗野で物怖じしない勢いに満ちている。時にそれは天地を揺るがす巨人の一足ひとあしのようにね」

「いやそれ普通に酷過ぎない?」

 ラビリンスク場末の古書店で購入したクラーギンの詩集から視線を上げた先に、制服に身を包んだエリューシュカが立っていた。慌てた様子で挨拶もせず帰って来てからの一時間何をしていたのかを問うと、インターネットで英語のスピーチ講習を受けていたと言う。試験予定日はもう目と鼻の先にあり、ここ数日の彼女はどこか浮き足立っていた。

「その落ち着きの無さは君らしくもないな」

「だって志望校行く為の絶対合格の関門だもん。知らないままだったらヤバかったって」

「そうかな。少し前までは学校にも行っていなかった君が」

「それ言ったらパパもじゃん。あ、ペチカ、うん、帰って来てるよ」

 事件後、エリューシュカは私の養子として迎え入れた。その為か養子になってからの彼女はかつての彼女とは比べるべくも無くますます遠慮の無い物言いに支配されてしまったように思う。それは私も同様で、以来私たちは家族とも知己の仲とも言えてしまうような奇妙な関係の中、保護したペチカを含め毎日を過ごしていた。

「そう言えば今日面会の日だっけ。行かなくていいの」

「面会時間ギリギリに来いと言われた。君も来るか」

「遠慮しとく。あたしはまだ納得できてないし」

「彼に何をすれば良いのかは保留という事かな」

「そんなとこ……まあ行ってきなよ、夕飯適当に作っとくから」

 私は頷き彼女の厚意に甘える事にした。コートとマフラーを身に着け、用意していた紙袋を持った私はそこではたと気付く。「そうだ、これを」コートのポケットに忍ばせていた物の存在に気を向けエリューシュカに向き直る。怪訝な表情でコーヒーメーカーを稼働し始める彼女に手渡したのは彼女から借りていたキャストラビだった。

「解けたの?」期待を込めてきらめく瞳に私は大きく頷く。「解けたよ。入院中は暇だったからな」そう言うと彼女はキャストラビと私に何度か視線を行き来させて「解法メモは?」と眉間を皺を寄せて聞く。私は「それは君自身で探すべきだ。一度は解けたんだから、いずれどの道が正解か分かるよ」すると彼女は苦い表情をして「正解が分かったなんて嘘なんじゃないの」

「時間さえあればここですぐ解くこともできるが──今はもう行かないと」

 そう言い残して、私は冬の外に出た。


ЯR


「獄中の飯はどうだ。美味いか」

「美味い訳無いだろ」

「死ぬまでに出られたらご馳走でも作ってやろう」

「残念だったな既に模範囚だ。死にゃしねえよ」

「本当に口だけは達者だ。入ったばかりでもう自分を偽ってるのか」

「馬鹿言うぜ。元警察官を舐めるな」

「オレンジ色のつなぎ姿に手錠と足枷とは大層な飾り気の模範囚ときたものだ」

揶揄からかう為に来たなら帰れ」

 廃村での一件で私は確かに人を撃った。私にとっては生きているほどの生々しさを湛えた微笑みを浮かべていた彼女に、三発全てを。紙で作られたおもちゃのような弾丸は火薬の量が極端に少なく、頭を狙って撃ったところで頭蓋骨に先がめり込むだけで致命傷にもなりはしない。空気やガスでプラスチック弾を飛ばすようなおもちゃの銃よりは幾分攻撃力があるかもしれないが、もとよりあの拳銃と弾丸で人を殺すことは不可能だったのだ。翻って私はヴィズドムィに殴られた際に左目の視神経を極度に圧迫し傷付けてしまい、以来私は片目を失明し動かす事もできなくなっていた。今ではブルガーコフのように眼帯を使って死んでしまった左目を隠している。今まで見えていた景色が大きく欠け落ちてしまったが、この暗い欠落が自分の半生で共にあった仲間たちの喪失だと思うといつでも彼らのことを思い出せる気がした。

 そしてヴィズドムィは刑務所に入っていた。三人を殺害した犯人として自首し投獄され、即日判決された彼の罪状は懲役五十年という途方の無い年月が掛かるものだった。模範囚として過ごしていれば多少減刑される事もあるが、それでも現在の年齢を考慮すると刑期を終えるまでに生存している可能性は限り無く低い。同時にそれは私にも言える事だった。半世紀も経てばこの件を覚えている者など消え去ってしまうに違い無い。この街ではただひとり、エリューシュカを除いては。

 廃村からここに至るまでの経緯はこうだ。私はヴィズドムィを縄で縛り付けてそりに乗せ、エリューシュカとペチカを引き連れて下山、地本警察に事情を告げて事を収めた。私たちは事件のあったW国ラビリンスクへ移送され、それぞれ拘禁、入院、保護の措置を受けた。トリグラフ作戦は既に終了しており、後日M国政府から郵送で届けられた誓約書を書かされた私は、入国する際はGPS機器を付けること、そして問題行動を起こさない限りその後の再入国等も認められるようになった。

「それで、何しに来たんだ」

「君にこれを届けようと思って」

 持参した紙袋から少しだけ物が頭を出すと彼が反応する。「そのラベル、ベルヴェデーレか」

 慣れない刑務所暮らしのせいかすっかり窶れた顔で目を輝かせ始めたヴィズドムィだったが、即座に監視官が警告してきた。「酒類の差し入れは禁止ですよ」

「名前で酒と分かるのはなかなかだが野暮が過ぎる。本当に差し入れたいのはこっちだ」

 監視官に一言物申し、私はコートの懐に手を入れた。取り出したのは一本の枝葉で、穴から香りが向こうにも漂ったのか彼が反応した。「月桂樹だな。行って来たのか」

 頷くと、彼は続けて言った。「ご苦労なこった」

 その言葉に私は目を閉じた。脳裏に浮かんだ記憶を彼にも聞かせてやった。

 退院後店に戻り、私はすぐさま再びジラント連山の廃村へと向かった。たったひとりで向かったため傍らにエリューシュカもいなかった私の脳裏には、しかし自らを呼ぶ声が聴こえた。やり残した事があるから早く来て、あの家で待っているから──そんな言葉が寝ても覚めても響き渡り、気付けばその家の前に立っていた。家の隣にあったヒーターは燃料切れで停止し、掛けられたビニールも風雪に曝され所々に穴が空いている有様だった。私はそのベールを持って来たナイフで破り取ってゆく。あらわになった月桂樹はやはり厳寒と風雪によって激しく傷んでいた。そして、その横になるべく深い穴を二つ、掘った。

 穴を掘り終えた後、私は家の中へと入った。再び家主を失った家は窓が割れ隙間から粉雪が侵入していた。キッチンを抜け奥の部屋へと向かうと、そこには放置されたままの彼女たちの遺体があった。警察に場所は伝えていなかったからさもありなん。私はどちらもすっかり軽くなってしまったその遺体を運び出し、穴にそれぞれ寝かしてやった。

「生命の樹に参らんとする名も無き旅人さん。戻って来てくれてありがとう」

「いたのなら名前くらい呼んでくれ」

「そんな風に言わないで」

 背嚢から目的のものを取り出す間、彼女が話し掛けてきた。

「結局街角の亡霊は頭から離れてはくれないのね」

「しかしあれ以来、君の姿を街では見かけなくなった」

 背嚢から取り出したのは麓のアウトドア用品店で購入しスキットルに入れた灯油を幾つかだ。それぞれ流し掛け火を点けたマッチを投げ入れるとたちまち燃え上がり煤けた煙が立ち昇り始める。炎の勢いで周囲の雪が解けると、その下から点々とした緑が見え始めた。その緑は目を凝らしてよく見ると、名前を聞いても記憶に無さそうな小さな芽のようなものだった。既にここの植物たちは雪解けを待ち望み、彼女の願いの一部たる一新を請け負っていた。

「どうして戻ってこようと思ったの」

「君が呼んだからさ。やる事はこれで合っていたかい」

「ええ、でもできればこの樹も、この家も」彼女が見上げたのはヴィズドムィが植え手厚く育ててきたであろう月桂樹と、他の家々と同様、後は朽ち果てゆくだけの廃屋だった。「枝を手折って新しい地に。魂さえも穢れ無く刷新されるように」

「そうしたら君は消えるのか」

「それはやってみなければ」

 私は彼女の言われた通りにした。傷みの少ない健康な部分の枝を手折り、灯油を幹に掛け流し、家の中にも全て撒いて流した。玄関扉に火を点け月桂樹にも火を放つ。視界いっぱいが赤く燃え盛り炎の剣として雪の台地に突き刺さった。炎が消えるまで待ち、過去の名残りが消し炭になった時には彼女の姿もまた消えていた。手の内に残ったのは月桂樹の枝葉が一本だけだった。

 だから今日はこれを届けに彼の元へやって来た。お互い死ぬまでに何度顔を合わせ仲間たちに言葉を尽くしていけるかは分からない。殺人鬼に心を許すのは今以て自分の頭では理解し難い面もあったが、それを差し引いてなお彼には近しい感情を抱いている事も事実だった。それは彼もまた同じだと信じたい。

「無人とは言え木造建物への放火か。もうあの国には鼻先も入れないな。あんたも晴れて犯罪者だ」

 ヴィズドムィが喉の奥で笑いを堪えながら言う。それは承知済みの行動だった。

「私たちの人生はいずれ君の家族や私の仲間を殺してしまう結果になったのかな」

「どうかな。おれは最初からあんたを殺すつもりでいた。仲間が三人いたことは全くの偶然、神が誂えた公正の天秤だ。あんたが孤独で生きていりゃおれがあいつらを殺す必要もなかったかもな」

「せっかく五十年で刑期が決まったのに反省の余地無しで延長させるつもりか」

「どっちにしろおれたちは刑期を終える前に死ぬさ」

 向こうの監視官が視線をちらちらと泳がせ始めた。彼にとってはこれが一触即発の様子に見えているのだろう。可哀想に思えて私は話を変えることにした。

「そう言えば君のことを実はずっと心の中でヴィズドムィ家なき人と呼んでいた」

「ヴィズドムィ? まああながち間違いでもないが、なるほどフェリクスよりもおれらしい」

「今後は君のことをそのように呼んでいいか」

 ヴィズドムィはしばし考え込むような間を空けて言った。

「奇遇だよな。おれもあんたのことはずっと心の中でグルーピィばかやろうって呼んでたよ」

 してやったりと口端を吊り上げた彼に思わず私も笑みが零れた。そして告げた。

「お互い罪を償って自分がした事を死ぬまで問い続ける。血を流しても死ぬ現実は有り得なかった者同士、君の言う唯一無二の友情として。それでどうだろう」

「言われなくても分かってる」

 ヴィズドムィは身動ぎし僅かに顔を俯かせた。その姿に、私はあの日から確かめたかった真偽を彼に訊ねた。

「私には彼女が見えていた。君にも彼女が見えていた。あの一瞬、視線を交差させることで私たちはようやく理想としているのが同じことに気づいた」

 すると彼は顔を上げて目を合わせてくれた。

 そして、ここではない遠い場所に向けた瞳を、やがて震える瞼で覆い隠した。




 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

共犯者の死せる影-Ты- 籠り虚院蝉 @Cicada_Keats

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ