第十九話

 私の時間は止まったままだと思っていた。しかし、どうやらそれは違うらしい。ラビリンスクでの平穏だった日々がどういう訳か再び動き出す因縁の鍵は彼が握っていたようだ。植物や花々を愛する女性であり、大叔父に植物学者を持つ人と言えばヤナその人しかいない。すなわち、彼の経験や歴史の時系列の前後、私の過去に関わらずヴィズドムィは間違い無く私と彼女との間にあった関係も見抜いているという事なのだろう。だが一体どこに、その過去と私の仲間や知人を立て続けに殺害する理由がある?

 心身とも身を焦がされていた。ヴィズドムィが去ってから時間だけが経ってしまっていた。深い溜め息で我に返り、目の前には空のグラスや食べ物の残った皿たちが雑然とテーブルに放置されたままの光景が広がっている。そんな視界の端に、例の二人がコートをスタンドに掛けながらこちらに鋭い視線を向けているのが見えた。私は額に指を当てながら彼らに言った。

「挨拶くらいしてくれませんか。あなた方の恰好は些か暗殺者かマフィア風情に見えるものでして」

「映画でも観ました? それにしてもこれは酷い。俺らが来るまでにちょっとは片付けましょうよ」

 ユラ警部補がもはや惨状とも呼ぶべき店内の有様を茶化しながら目の前のカウンター席に座った。これにはルス警部も同意のようで何も言わず隣の席に腰掛ける。不本意ながら私もそれには同意の他無く、インスタントのドリップコーヒーに砂糖とミルクを付けたものを差し出した。「あれ、前はちょっと凝ってくれたようなメニューだったのに」と尚も茶々を入れる彼に私もルス警部も無視した。

「それで、電話での事は」早々に本題に切り込むとルス警部は懐から手帳を取り出して言った。

「電話口でもお話しましたが、スラーヴァさんが殺害されました。死因は店に備え付けられていた麺棒による殴打と考えられています」

 彼のその言葉に私は引っ掛かりを覚えた。スラーヴァは確かに大衆食堂スタローヴァヤを経営していたし、故郷の国では小麦粉を水で練って麺状にしたものが名物料理だったらしいが、〈味彩軒フクスラースカ〉でメニューの中に麺類は無かった。つまり、彼の店は元より麺棒など置いていなかった。

 ふと、電話口でのルス警部の言葉が思い出された。彼が言っていたのはスラーヴァの店では無かった。

「失礼しますが、彼が殺害された宿の名前は何と言いましたか」

「ああ」と、これにはユラ警部補が答えてくれた。「〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉でしたっけ」

 よくそんな小っ恥ずかしい名前にしましたよねえ──そんな間延びした言葉を聞きながら血の気の引く低い音が聴こえた。次いで次第に甲高くなる鋭い耳鳴りと共に、鼓膜の奥が溶岩のように熱くなった。彼女らと面識の無いスラーヴァが〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉で殺されてしまった理由はもはやたったひとつしか無かった。ヴィズドムィが私と接点のある場所にスラーヴァを誘い込み惨たらしく殺害したのだ。しかしそれでも疑問は残る。私は腹の底から込み上げてくるものを押し留め刑事たちに投げ掛けた。

「その宿には女将と中学生の女の子が暮らしています。彼女たちはどこに。私の友人なんです、この街で知り合った」

「彼女たちともお知り合いなのですね」ルス警部が言った。「エリューシュカさんは我々ラビリンスク市警が保護し、今は市内のホテルに留まっています」

 それを聞いて安堵の息が洩れた。警察の保護下に置かれているなら逃げおおせているヴィズドムィとて手出しはできまい。

 そこで矢継ぎ早にユラ警部が付け足した。

「安心しているようですが、保護しているのはエリューシュカちゃんだけです。ニューシャさんは行方が分かっていません」

「それは一体どういう意味ですか。彼女はエリューシュカと一緒ではないんですか」

 彼らが言うにはこうだった。スラーヴァが殺害されたとの一報は他でもないエリューシュカによるものだった。昨日、彼女は自室でヘッドフォンをしながら音楽を聴いていたが、ふと立ち込めてきた焦げ臭いにおいに気付き階下へ降りた際にスラーヴァの撲殺死体を発見した。そして、その時には既に母親であるニューシャの姿は無く、彼女は冷静になってから警察へ電話を掛け事件が発覚した。その後、彼女は駆け付けた警察に保護されたものの、余りにも凄惨な現場と母親の失踪により今は憔悴しきっているのだと言う。早朝、幾分気持ちが落ち着いた彼女が吐露したのは、母親が見ず知らずの壮年男性を殺害したのかという不安だった。その不安にこの刑事たちは、それも可能性として拭い切れない、男性は強盗で、恐慌状態に陥った母親が君を守ろうとして彼を死に至るまで殴り付けてしまったのかもしれないと、言い放ってしまった。その判断が間違っていると分かっているのは私だけだろう。スラーヴァは強盗などするような性格ではないし生活に困窮している訳でも無かった。ましてやニューシャはスラーヴァのような気の弱い男性には絶対に負けない肝の据わった威勢のいい女性だった。事件の起こる条件が前提からしてそもそもおかしいと考えるべきなのだ。

 焦燥感に駆られながらもそれらの話をなるべく懇切丁寧に刑事たちに教えてやった。彼らはインスタントのコーヒーをこれみよがしに味わい深げに飲みつつ、私の言葉に片耳を向けながら聞いていた。そして私が言い終わった時に彼らはカップを置いた。

「なるほど、あなたの言い分は分かりました」

 言い分とは何だ、と反論する隙も無く続けてルス警部が言った。

「しかしですね、セルゲイさん。物事には順序、段取りというものがあります。ラビリンスクでこのように殺人が起こる事は稀であり、捜査には慎重を期しています。それに我々警察は犯人を誤認してはいけないのですよ」

とはまた白々しい物言いですね、これはれっきとした殺人でしょう。私の友人が二人も殺されて、もう一人の友人もどこにいるのか分からない。挙句の果てに一番怪しいフェリクスも惚けて認識していないではないですか」

 そこでユラ警部補が一瞬目を見開いた。ああ、その事なんですけど、と。

「気になって調べてみたんですよ。セルゲイさんのおっしゃっていたフェニックス……フェリクスさん? その人、市民登録名簿に名前がありませんでした」

 つまり、この街にフェリクスなんて人いないんですよ。

 その言葉を受け足元から身体が瓦解して無くなっていく感覚がした。しかしこれで腹に落ちるものもあり確信に至った。ヴィズドムィは偽名を名乗って私と接触し、私とゆかりのある人々に狙いを定めて次々に殺して回っている。犯人はやはりあいつだった。エリューシュカを置いてニューシャが失踪するなど考えられず、とすると彼女も恐らくただでは済まない状況に陥っているに違いない。あるいは既に殺害され、遺体はどこかに放置でもされているのかもしれない。最悪の事態は幾らでも想像が付いた。

 ヴィズドムィはやはり私に何かを悟らせたいのだろう。彼が事ある毎に昔話を語ろうとするのは彼の過去が私の過去にも関係があるからだ。その関係性を彼は私に気付かせようとし、だからこそ彼は私を手に掛けるような真似をしない。そのように想定するのが妥当だ。

 それから刑事たちは加えて説明してくれた。この件に関して被疑者として目下捜索中なのはニューシャであり、事件発生時の常連客に当たって裏が取れた事で今回も私は被疑者ではないものとして扱われているようだった。ルス警部が言葉尻に、ここまで来て三人のご友人であるあなたが完璧にアリバイを立証しているというのも奇妙な事ですがね、と言ったのを聞き逃さなかった。ラビリンスク市警はおいては少なくともこの間抜けな刑事たちが事件を解決するのは永遠に不可能だろう。

 それよりも私はエリューシュカが気掛かりだった。元々彼女はニューシャと違ってそれ程気の強い性格ではない。学校での不当な境遇と疎外感によって心をすり減らしてしまったが故にわざとつむじ曲がりな態度を取っているだけの子だ。ホテルで保護されているとは言え母親不在では心許無いだろう。

「失礼ですがエリューシュカの保護されているホテルを伺っても?」

 そう言うと二人共怪訝な表情をしてみせた。

「それは面会を希望されるという事ですか」

 私は被疑者ではないし彼女と面識がある友人関係だ。そして信頼という意味では、彼女の周囲にいて保護する立場にある他の警察官や護衛など私の足下にも及ばない。

「明日エリューシュカに聞いてください。彼女は母親以外に身寄りがありませんから、もし可能なら見知った顔の私が側にいてやった方がいい。それにお二人のような方たちには答えられないような事も、私になら話してくれるかもしれませんよ」

 お返しとばかりに厭味を隠さず言うとルス警部は黙って携帯端末を取り出しどこかへと電話を掛けた。恐らくエリューシュカを保護下に置いている責任者にだろう。手短な会話を済ませ通話を切った彼が言った。

「面会の許可を取れるか担当の者に聞きました。諸手続きがありますが明日の朝十時までには連絡差し上げられるようです。それでよろしいですか」

「勿論です。待っています」

 二人の刑事はそれから席を立った。カップの中身は残ったままだった。

 次の日、朝の九時きっかりにあの刑事たちとは違う警官から店に連絡が入った。エリューシュカは私との面会を心から望んでいるという旨のそれだった。先方にも色々と準備があるのだろう、面会時間は向こうが決め、十三時に〈世界の半分イスファハン〉という名のホテルに来るようにと言われた。私は店を臨時休業にし、無地のノートと色鉛筆、それと時間までに図書博物館に立ち寄り適当に選んだ昆虫図鑑を手持ちに加え指定されたホテルへと向かった。

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