第二十話
〈
ホテル前のエントランスには黒い警察車両が数台停まっていた。その前には警官らと共にホテルの支配人らしきダークスーツ姿の人間が立っている。タクシーから降りた私に気付いたその人と視線が合い、ヒールの音で存在を主張しながら躊躇い無く近付いて握手を求めてきた。
「初めまして。わたくし当ホテル支配人のザミラと申します。お話はかねがね警察の方からお伺いしております。この度は当ホテルにお越しいただきありがとうございます」
「セルゲイです。お会いできて光栄です」
彼女のフラワーホールには〈
「早々ですみませんが、エリューシュカはどこに?」
「こちらです。どうぞ付いてきてください」
案内は支配人が務めてくれるようだ。間接照明で落ち着いたロビーと磨き抜かれた白い通路を抜けエレベータに乗り込んだ。入力パネルに打ち込まれた階層から見るに、エリューシュカは最上階に程近い部屋が当てられているようだった。しかし、噂に聞いていたようなセキュリティの厳重さはさほど感じられない。支配人にその事を訊ねてみると、セキュリティ管理は全て裏方のシステムで運営されていて、ホテルの利用者がカードを機械に翳したりスリットに通すといった手間を省けるようになっているらしい。
「巷ではキーはカード状になっているものと思われているようですが、実際はスタンダードルームをご利用のお客様向けです。スイートルームやインペリアルフロアをご利用の際はICチップを埋め込んだオーダーメイドのアクセサリーにしています。お客様のご意向次第でイヤリングにされたり、ネックレスにされたり、当ホテルでのブライダルプランを検討されている方は結婚指輪に埋め込んだり、お気に入りの靴の底に仕込んでくれと靴ごと届けて依頼される方もおられます」
当ホテルではご宿泊の記念品として、また次回以降ご利用の際のリピート証明としての意味もございます。
そんな支配人の言葉には、なるほど桁違いの富裕層が好みそうなサービスを提供しているのだと納得した。それに、世界最高峰のセキュリティを有したホテルの噂は間違いではないらしいと見た。
「私のような関係者にそんな重要な事を教えてもよろしいのですか」
「ええ。大丈夫ですよ。当ホテルにおかれましてはセルゲイ様は招待客になりますので」
私に背を向け言い放つその言葉にもまた嘘偽りは感じられなかった。同時に、子どもの頃から躾られてきた態度がこのような場で役に立つとは思わなかった。いつ如何なる場合も信頼に足る振る舞いをせよと父親からは口酸っぱく言われてきたものだったが、あるいは私の両親は兄たちだけでなく私に対しても虚飾に塗れた態度を教え込もうとしていたのかもしれない。兄たちに比べれば出来損ないと呼ばれても仕方の無い子ども時代だったが、今となってはもはや真偽など判断しようも無い。
やがてエレベータが目的の六十九階に到着した。扉が開くとガラス張りでゆったりした広さのラウンジがあり、そこから各部屋割ごとに通路が続いている。エリューシュカの部屋は南向きの場所が割り当てられ、現在この階層はエリューシュカと控えの警官のみが利用しているという話だった。彼らの滞在のために無理を言ってキャンセルしてもらった客もいると支配人は話してくれた。
「なぜそこまでして保護に力を貸してくれたのですか」
ラウンジから彼女の部屋へ向かう合間、ふと気になって訊ねてみた。すると彼女は言った。
「警察からの協力申し出なら断る訳にはいかないでしょう。お子様も大変な状況とお聞きしております」
それに、と続ける。
「報道管制が敷かれているとは言え今回の件は街で噂になり始めています。警察の方からのお話を受けて確信に至りました。お客様をお守りする大役、人を見る眼に曇りがあっては務まりませんから」
事件についての報道管制。確かに殺人が起こる事自体が稀な街で店にいても客からその話を一切聞かなかった。私自身メディアには殆ど触れないため街で事件がどういう風に語られているのかはよく知らなかったが、もしかするとこの街では殺人などの凶悪犯罪が極端に起きていないのではなく、そのように情報統制されているだけで実態は他の都市や街と変わらず、私も含め人々がそれと知らないだけなのかもしれない。しかし、だからと言ってどうという事も無いのだろう。
あるいはやはりいつか感じたように、この街の人々は綺麗な見てくれとは裏腹に醜悪な何かを内に秘めながら日々自身を騙しつつ生きているのだろうか。ブルガーコフもスラーヴァも殺されるには過去に理由があって、ヴィズドムィはその理由を知っていたから凶行に及んだのだろうか。するとニューシャはどうなる、エリューシュカや私にも、邪な考えや思考があって彼はそれを見抜いているのだろうか。
いや、そんな事は無い。私の友人はみな潔白で清らかで、過去に憂いを抱いた脆く儚い人間としてささやかな幸せと善く生きる正しさを噛み締めながら生きていた、それはこれからも変わらない事実だろう。恐らくは。
この街ではたったひとり、私を除いて。
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