第二十六話

 君には想像できるだろうか。淑やかな手指がやがて芽をし花と咲く命の原点を肥沃な台地に深く眠らせる仕草を、微かに震える喉から奏でられる子守唄の音色を思わせるそのハミングを。名前を呼べば微笑み返してくれる太陽の耀きを。それらが人のかたちをとって彼の前に幾度と無く現れたという真実を。脳裡にまざまざと蘇る花壇は何者かによって踏み荒らされ、種を植えた筈の見も知らぬ植物の萌芽や凹凸の刻まれた無数の足跡も、そのままの形で乾き切っていた。そして。君には想像できるだろうか──家に着いて彼の目に飛び込んだのは、耀きを失った彼女の枯れ果てた姿だった。瑞々しかった肉体は萎み、肌みは甚だくすんで傷み、光の消失したかすんだ両眼が焦点の定まらないままぶら下がる爪先を見据えていた。

「それって、つまり」

 彼女は梁の部分に縄を吊るし、そこに首を括り死んでいた。死後数週間は経っている事が容易に伺い知れた。遺体の傷みの様子で推測される死亡時期から彼女の元へ訪れなくなった頃と奇妙な一致を見せようとしている事に、彼は恐れよりも先に神秘的な命運を感じ取った。より厳密に言うと、その命運には過去と未来までを見届ける為のあらゆる感情が詰まっていて、彼は彼女の遺体を見る事によってそれを新たに手渡されたような気分になったのだ。彼はこの瞬間から全ての贈り物の壷、あるいは神の贈り物の蕾の所有者となった。やがて、本来この場で覚えるところである恐れが花開くように再び感じられるようになると、彼は全身に脂汗を掻き腰が砕けてへたり込んでしまった。扉を開けた事で強く吹き込む風が彼女の体とワンピースを軽やかに揺らす様を見て、その恐れはますます募っていった。斥候部隊の接近、彼女の死の現実、迫る二つの恐怖に両脚が絡め取られ上手く立ち上がる事もできず後退ろうと躍起する。一体どうしてこんな事になってしまったのか彼には知る由も無かったが、この時点で分かり切った事が一つあった。

「彼らにとって幸せな日々を積み重ねた家は、それ以上に埃を被った巨大な棺桶になってしまった」

 その不気味な閃きが彼に誤った判断をさせる事になったのは想像に難く無い。彼は落ち着いて息を整え、蹴られて倒れた椅子に這い寄り手を伸ばした。彼女に視線を向けないようにしながらそれを立て、支えにして立ち上がる。目線の位置にある乾涸びた腕に触ると土塊つちくれのようなざらついた感触がした。骨が浮き出た手を寄せて甲に口付けを落とすと、よく栄養を含んだ土のいい香りがした。だから、この人はやはり彼女なのだと、そう思った。キッチンからナイフを持ち出し、立てた椅子を台にして彼女と同じ目の高さに立ち、片腕を腰に回して支えながら梁から垂れる縄に刃を宛てがった。何度か刃を動かし縄を切ると、力を失った体がだらりとその身を預けてくる。しっかり受け止めて慎重に椅子から降りてベッドに運び、寝かせてやる。そこでようやく彼はひとまず気持ちに整理がついた。

 少しの間彼女の死に顔を黙って見ていると不意にその眼が横を向いた。一瞬胸が高鳴ったが、それは何という事は無い、ただ脱力し支えるものを失くした眼が重力を受けて僅かに傾いたに過ぎなかった。ただその眼の先を見るとキャビネットがあって、小さな引き出しの一つが不自然に半開きになっていた。その引き出しは手作りの樹脂アクセサリーを保管していた場所だった。鈴蘭のペンダントやムスカリのイヤリングトップ、手作りとは思えないほど丹精な品々が入っていて、それをいつも彼女は大事そうにしていた。彼は不思議に思いながらその引き出しを開けた。そこには一通の無地の便箋が入っていた。彼はその便箋に目を通したのだが、今となってはその内容は殆ど思い出す事ができない。「殺して欲しい」という一言だけが彼の記憶に深く刻まれてしまい、その他の内容を覚える事ができなかったのかもしれない。とにかく、彼は手紙を読んで再び動揺してしまった挙げ句、手紙をベッドの傍らに投げ棄てその場から逃げ出してしまったのだ。

 村に整列していた調査隊の面々は彼を置き去りに出発したらしく、彼は村の人々の目を盗んでЯ国に下山した。何の装備もする余裕が無かった彼の体は麓に下りる頃には手と足の爪は何枚か剥がれ落ち、切り傷や打撲の痕も無数に付いていたが、それでも意識ははっきりしていたし命を落とさずにいる事もできた。街はすっかり破壊され逃げ惑う人々と燻る煙炎にすれ違いながら歩き、辛うじて家に着いてもそこにあったのはもはや半壊したただの廃墟だった。彼は奇跡的に無事だった自室へ行き、最低限の身支度と怪我の手当てをして臨時の急行列車に乗り込んだ。列車の中には年齢も性別も様々の乗客たちが着の身着のままの出で立ちで大勢蹲っており、彼らの怪我は彼のものとは比較にならない惨さだった。火傷で皮膚が剥けている者、手や脚が無い者、言葉にならない呻き、すすり泣く声、怒号。そのうちけたたましい鉄輪の音に紛れて空から低い唸りが聴こえた。車窓から顔を出せば、後方へ遠ざかるグロムゴルスクの街の上空一帯に紫色の雨雲が蠢いているのが見える。雷鳴が轟き、途端に列車にも大粒の雨が叩き付けてきた。彼は窓を閉めた。汗や血や薬品の鼻につく臭いに初めて気付かされ、頭の中と同じくらい騒々しい列車の中で三日ほど過ごした。

 それから彼は国境付近まで逃げ仰せ、ここぞとばかりに儲けを得ようと跋扈する密入国ブローカーの話を聞き、金を渡して彼らと共に幾つかの国境を越えた。そしてシベリア鉄道に乗り当ての無い彷徨の果てに、ここラビリンスクへ辿り着いた。そこで難民の振りをして検査に合格し、空き家を与えられ、彼は生まれて初めて稼ぎを得る為に、全く経験の無い不馴れな店を開業する事にしたのだ。

「以来、私がこうして君にコーヒーを出し、話ができるのも、恐らく彼がそのように生きてきたおかげだろう」

 そう言って話を締め、コーヒーに映る自分の顔からエリューシュカへと向き直した。彼女は眉間に皺を寄せ煮え切らないものを口の中で転がすように唇を突き出し、何か言いたげな表情をしていた。

「突っ込みたいとこは色々あるんだけどさ」彼女が言う。「自分の話なのになんでって言うの」

「君は子供だから分からないかもしれないな。人は歳をとるとだんだん過去の自分が遠く離れていき、まるで別人を見ているような気分になる。そう感じた時は本当に、過去の自分と今の自分は別人になっているものなんだ」

 勿論そうならない者もいるが、と一言付け加えて私はコーヒーに口を付けた。その答えが彼女にとって納得のいくものだったら良かったのだが、表情に変化は無い。

「じゃあ、その。おじさんが付き合ってた女の人、死んでベッドにそのままって事?」

「そうだ。だがあれからあの家と彼女の遺体がどうなったのかは実際分からない。事前情報の通り斥候部隊がやって来て、それと同時に発見されて手厚く弔われたかもしれないし、最初から斥候部隊の情報も誤りで、姿を見ないと訝しんだ村人たちに発見されたかもしれない。悪く思わないで欲しい。逃げる事で頭がいっぱいだった」

 するとエリューシュカは酷く哀れんだ目で私を見た。「そうだよね。そりゃ、薄々感づいてたけど。おじさんもやっぱ大変だったんだ」そう言って虚空へと視線を逸らした。「それでここ出てくのって、あたしを守るついでにそれ確認しに山の村に行くからなんでしょ」

 私はカップを置き頷いた。この街を出るのはヴィズドムィから遠ざかる事とは別に、あの時見過ごしていた数々の真実を確認する為だ。あの日から数十年余りの時が経っているにしても、村そのものが壊滅的な損害によって消え失せたという話は聞かないし、多少の風化や劣化はあるにしてもほぼ当時のままの村が地名と人間だけを消して佇んでいるに違い無い。その廃村に狼の群れが棲み着いていなければの話だが。

 ニューシャの言葉に懸けてエリューシュカを危険に曝せられない事も重々承知している。だが、この街には知らぬ間に狼の一匹が侵入し、人々に紛れ私へと標的を定めていた。私がこの街を出る事で彼女の身に危険が及んだなら、その時こそ覚悟はできている。

「おじさんの事、信用するから」

 虚空を見据えていたエリューシュカがふとそう言い放った。一瞬密かな決意を見透かされたのかと思ったが、そうではなく私が語った昔話についてらしい。嘘を吐く時に不自然に瞬きを二回するという無意識の癖を見抜いた彼女にとって先程の話は偽りが無く、私への信用に足るものだったという事だろう。先行き不透明なこの先の動向においては何を差し置いても私への信用無しに上手くいく事は決して無いのだ。

 彼女からの信任を得る事はできた。

 一週間後、最初の関門が待っている。

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