第三部
第二十七話
早朝、私たちは簡単な朝食を摂ってからこの街での最後のコーヒーに舌鼓を打っていた。普段なら甘いものを好むエリューシュカも今日ばかりは混じり気の無いブラックに挑戦してみたようだが、数口飲んですぐに砂糖とミルクを入れてしまった。「大丈夫、何回か試したら飲めるようになるから」と不確かな事を自信有りげなしたり顔で言ってのけた。
ニューシャの所在に関しては今日までその足取りは掴めていない。何度かあの警官たちに連絡を取ってみたが、告げられる言葉はいつも決まっていた。現時点ではお答えできかねます。その都度急かしてはみたものの、ついに続報無しで私たちはこの街を出る事になった。エリューシュカには私が警官たちと連絡をとっている事を隠しているし、彼女もそれについて言及しては来なかった。スラーヴァやブルガーコフと違いニューシャだけが所在不明な事実に幾許かの希望もあるが、いずれにせよ彼女が存命しているという確証も無い以上、強い期待は抱かない方がいいのかもしれない。そして彼女同様ヴィズドムィに関しても、最後に彼の身だしなみを整えた日から店に姿を見せなくなっていた。逮捕されたという情報も入って来ていないが、私たちの前にこれ以上姿を現すのは危険だと考えたのだろうか。
私たちは食器類を綺麗に片付けて、店の扉に事前に考えていた閉店を告げる貼り紙を掲げた。「ちゃんと常連の人に挨拶した?」と訊ねるエリューシュカに首を振った。「戻って来る気無いの?」その問いには答えかねて黙っていると、「そうなんだ」とそれ以上詮索してくる事は無かった。朝の日差しを入れるために上げていたシェードも下ろしてしまえば店内は薄闇に落ち、私たちはそれぞれ荷物を手に裏口から戸外へ出る。晴れているといっても寒さが感じられる朝に私もエリューシュカもマフラーを巻き直し、事前に呼び付けていたタクシーに乗り込んだ。そして、市外に出る鉄道の発着駅へと向かった。
ベン・グリオン国際空港に負けずとも劣らない厳重なセキュリティと警備員数で管理されているセントラル駅は、始発の時間だと言うのに人でごった返していた。特定の人種や民族に偏らない客たちに忙しなく視線を向けるエリューシュカを小さく窘めると、僅かに頬を膨らませそっぽを向いてしまう。街中を出歩く癖のある彼女がラビリンスクの街の多様性に無意識だったという事はあるまい。彼女の事だから関心の向く所以外には何ら興味が無かったのだ、と言ってしまえばそれは致し方無いだろう。とは言え挙動不審である事はあまり良い事とは言えない。
「いいかいエリューシュカ」私は市街行きの自由席券を挟んだパスポートを渡しながら彼女に向き直った。「監査ゲートを潜った後は面接が待っている。この街を出るためのそれぞれの試練だ」
「それぞれ違う事を訊かれるの?」
「そうだ。出身地の君は今日限りで済むかもしれないが、元難民の私はそれ以上にかかってしまうかもしれない」
「日を跨ぐかもなんて非効率的だね」
「役所仕事で済ませられないからな」
怪訝な顔で私を見る彼女はパスポートを受け取って言った。「もし長丁場になったら? それにおじさんは出られないかもしれない」
「心配は無用だ」
「保証ある?」
「瞬きさえしなければ私は何にでもなれると、君が教えてくれたからね」
ЯR
十数分余り列に並んで待ったのち問題無くゲートを潜り、荷物を預けてエリューシュカと別れてから私は感じのいい笑顔をした係員に連れられて両脇に幾つも扉が並ぶ細長く冷たい通路を歩いた。この街へ来た際も何度か通った無機質な道だった。時折どこかの部屋から話し声や喚く声が聞こえ、部屋から出てくる者の表情も悲嘆に暮れていたり喜びに充ちていたり様々だった。この細長い通路には扉の数だけ人々がおり、人々の数だけ運命の別れ目もあるのだろう。やがて私は突き当たり最奥の部屋へ招かれた。開け放たれた扉の先には、最近よく見知った憎たらしい人物が鎮座していた。
「これは驚いた。ここはいつから取調室に?」
ルス警部は眉尻を僅かに上げ「いいえ、ここは以前から取調室のようなものです」と見下すように視線を向けた。「それこそあなたならよくご存知かと」
参ったな──その感情を表には出さないよう努め、私は対面の椅子に腰掛けた。それから係員が扉の近くを陣取り看守さながらに胸を張って仁王立ちになると、感じのいい笑顔だと思っていた表情は途端に張り付いただけの冷たい面となり、顔の皮を一枚隔てた奥に暴力的な本性を隠さない威圧的なものに変貌した。難民としてこの部屋に入った時はこのような状況では無かった。
「まるで鬼でも見たような険しい顔なさらんでください。確かにここは取調室のようなものですが、別にあなたを陥れるような真似をするつもりはありません」
「険しい顔などしておりません。ただいたずらに時間が掛かりそうな相手だなと思っていた次第です」
「至極真っ当なご意見で何よりですな」
鼻であしらったルス警部は手元に置かれた大量の紙の束に手を掛け言った。
「ここの管轄は原則的に市警の方になっとります。この街は少々特殊なものでたまに良からぬ輩が紛れ込み、事を済ませて出て行く事もあるのは重々承知しているでしょう。この資料は数十年前のセルゲイさんのものです。証言の全てと、その傾向や分析、これらを元に幾つかやり取りさせていただくのでよろしくお願いしますよ」
「段取りは覚えています。急いでいるので手短に」
「いつもの事ですが本当にせっかちな方だ」
彼は紙の束を捲って軽く目を通し一番上の資料のひとつを手に取った。
「セルゲイ。本名はパーヴェル・レヴォーヴィチ・シェリムクロフ。まるで王族のような如何にも仰々しい子供騙しな名前はЯ国では一般的なものだったのでしょうか。こちらで預かっている生年月日では一九六二年十月二十二日、キューバ危機の勃発とともに生まれた訳と。なるほど面倒ないざこざを引き起こしそうな子だ。しかしこれは確実に証明できる情報ではない、そうですね?」
いざこざは常に面倒なものだろう──そう思いながら私は
「Я国からの難民という事情は我が街の書類上では何ら問題ありません。ところが世間的に見るとそうも行かないものがある。歴史が、と言うよりもM国総督の意向で開始された掃討作戦ですな。この街からかの国へ出て行くとなるとここが唯一のネックになる」
「一体何を言っているんですか」
「実のところ、我々ラビリンスク市警としてはこの場であなたの経歴の真偽を問い質したい訳では無いのです。ご友人が殺害されてしまった事件について以前仰っていたフェリクスという人物がいたでしょう。勿論事件の関係者としてあなたにも一部言及するつもりではありますが、彼についての情報もお伝えしたいと思いまして」
「それはどういう意味ですか」
予期せぬ突飛な申し出に思わず声が裏返った。街の記録にも残っていない男の情報について警察が説明するなどできるのだろうか。しかし、ルス警部の顔は真剣そのもので私を出し抜こうとしているそれとは思えなかった。
「フェリクスというのはこの街と市民を欺くための仮名だと思われます。セルゲイさんと同様、彼からもたらされた確実かつ公的な情報はありません。恐らく不法侵入でしょう。GPSも
「では何故彼について話す事ができるのです」
資料の束の隅を指で弾いていたルス警部は動きを止め、私を目だけでじろりと見た。その後溜め息を吐き椅子に大きくもたれ掛かった。
「どうやらフェリクスはトリグラフ作戦に一枚噛んでいる節があるようでして、最近あなたのお店から出て行く姿を捉えた監視カメラ映像から不本意ながらW国政府機関に人相の照会を依頼したところ、僅かな期間M国の情報機関に属していた事があるようです」
思い付きではあったが、どうやらヴィズドムィの毛むくじゃらのベールを剥がしてやった事が功を奏したらしい。
「やはり彼は私を捕まえようとしていたのですね」
「それが彼の目的なのかは不明です。現在は完全に独立しているようですが、仮に彼の動きが公に依頼された仕事ならご友人を殺害する理由は万に一つも無い筈です」
「つまり、私怨の可能性が……」
「状況次第ではそのようにもなるでしょう」
我々としてもこのような不埒な輩を野放しにはしておけないのです、とルス警部は付け加えた。今まで取り付く島も無く突き放した無礼な態度ばかり取ってきたというのに都合の良い手の平返しだ。
「フェリクスが犯人だと警察は信じてくれた訳ですか」
「決定的な証拠は今以てありません。ですが彼の行動が充分に怪しむべきものである事、そしてこの街の存在意義を虚仮にするものである事は事実です」
「冗談でしょう。この街を虚仮にするとは」
「ではセルゲイさんはこの街を何と心得ますか」
この街の存在意義を虚仮にする行動とは何か。そんな大袈裟な問いに答えなどあるのだろうか。人々が寄り集まって出来るものが基本的には街という事になるだろう。あるいは一国の政府や地方の自治組織が新たな計画の拠点として意図的に街を興す事もある。だがラビリンスクはそうでは無く、遥か昔から貿易や交易の関係で旅人たちが道中
「勘の良いセルゲイさんも分かりかねますか」
「そもそも存在意義を持つ街など存在しないのではないか、という身も蓋も無い考えが浮かんだのですが」
「いいえありますよ。他の街には無いかもしれませんが、この街にならと言える存在意義が」
彼のヒントを得て尚、回答が分かりかねた私は小さく息を吐いて降参の仕草をしてみせた。ルス警部はそれを見て一瞬口角を上げたものの、すぐに元の仏頂面に戻して言った。
「この街は余程の事由が無い限りどなたでも受け容れます。旅行や観光、仕事目的の一般人から、移住や定住目的の移民、そしてあなたのように国を追われた難民や罪を犯した逃亡者まで。どなたでも受け容れて社会に順応させる事で現在まで発展してきたのがこのラビリンスクという街であり、存在意義なのです」
前置きはここまでにしておきましょう、と彼は姿勢を正して私に向き直った。
「フェリクスは街に順応する事で保たれる治安や秩序に対する恐るべき脅威です。〈
「まるで自治区ではなく独裁国家ですね」
意図せず嘲笑と皮肉が口から漏れた。しかし警部はその点には触れず、国家という点に反応した。
「その通りです。W国政府はこの街の盤石な自治化に当たって高度な自治機能が備わっているか監査する権限があります。その為に都市評議会が考えているのは、この街で起きた犯罪行為を徹底的に隠匿し市民には知らせない事です。監査委員会もなかなか公正な一枚岩では無いところがありますからね。ですから今回のようにいつの間にか人が旅立つように消えて行く──仮宿の街、迷宮都市、あるいは流離い人の街──ラビリンスクというのは言い得て妙だと思いませんか」
その言葉を聞いた途端、脳裏に冷や水を浴びせ掛けられたように思考がクリアになった。単なる噂としてしかヴィズドムィが人々の間で語られなかった事も、この街で大きな事件の話を客から聞かないのも、この街の特異な事情が見せた蜃気楼に過ぎなかった。そして、この街も私が生きてきたかの地と同様、他所への見栄の為に汚点を隠さずにはいられない場所だったのだ。
「この街はとても良い場所だと思っていましたが、単なる勘違いだった訳ですね。愚にも付かない砂上の楼閣だった」
「ある意味ではそうなりましょう。なにぶんW国政府に極めて政治的な弱みを握られている以上、街の内情を掻き回されたくは無い。我々もこの点に関わるとなると捜査には慎重を要せざるを得ないのです」
ルス警部はそこまで言って扉の前に立ち塞がる係員に指で合図すると、部屋を出ていくよう仕向けた。扉の開閉の音がして足音が遠退き、数十秒経ってから彼はまた徐ろに口を開いた。
「さてセルゲイさん、これはあなた自身がよくよくご存知の通り、あなたにはフェリクスと個人的な関係があるようですね。それも、この街に来る以前から」
「街以前の面識はありませんがそのように考えています」
「トリグラフ作戦での標的にはあなたも含まれています。ジラント連山での地質調査に関わっていた者は全員です。セルゲイさんの場合は計画を指揮した主要人物として登録されているようですが、この件に関して心当たりは?」
「ありません。私は父の誘いに乗って調査員として付いて行っただけで、計画を指揮する権限は大隊長に一任されていました」
思い返せば地質調査の計画を持ち掛け、私に付いて行くよう進言したのは父だった。計画の主導者が父であったならば経歴の薄い若造だった私が容易に参加できたのも頷ける。あの地質調査は元々対外的に説明の付かない問題行為で、父は私をスケープゴートにする事で体良く利益を上げつついずれ訪れる難を避けようとしたのだろう。
ところが、自宅で何の憂慮無く私に甘んじて過ごしていた彼らはR国の奇襲によってかその後の戦争によってか、いつしか私を除いた全員が死んでしまった。
「なるほど。恐らくフェリクスはそのリストを辿ってあなたの元へやって来たのでしょう」
「そのフェリクスは今どこに? 見当は付いている筈です」
「街を出ました」
「え?」全く素っ頓狂な声が出た。「今何と?」
「この街を出ましたよ。四日ほど前に。ですから警察として市民の安全の為に今ここで警告しますが、この街から出て行かない方がいいとお伝えしておきます。これが本題です。今やこの街に留まった方が少なくともあなた方の身の安全にはなる」
「信じられない。何故捕まえられなかったんです」
「彼のGPSは
度を越えた傲岸不遜な態度には擁護するべき点は無い。「こんなにも役立たずな警察は初めてだ」
「我々は評議会の傀儡です。その意味で否定はしません。それに、評議会の立場としてはこれ以上何もせず街から出て行ってくれた方が事を穏便に済ませられるのでむしろ好都合だと判断しています。しかしセルゲイさん、本当にこの街から出て行くおつもりですか。これは刑事の勘ですが、フェリクスはあなた方が向かう場所で待ち伏せしている可能性が高い」
「今更何を言われて思い留まるとお思いですか。私は彼に問い質したい。警察や検察に代わってでも、何故あんな事をしたのか、きちんと罪を償うべきだと」
「あの子を危ない目に遭わせる気ですか?」彼は次いで言った。「親でもないのに何故?」
椅子から立ち上がり踵を返すが警部は私を止める気配も無かった。今や私たちもヴィズドムィと同様この街にとって余計な裏事情を知っているお荷物であり、ただ厄介払いをしたかったが、連続殺人犯に狙われている可能性があるという手前何も知らせず行かせるのも良心の呵責に障るというだけだったのだろう。もはや何もかも茶番だったという事だ。それが証拠に、彼は私を引き止めるような真似はついにしてこなかった。
部屋から出て道を戻る間、ルス警部の最後の言葉が脳裏に甦った。
親でもないのに何故?
些か皮肉混じりのその問いには、ニューシャの代わりに答えてやるべきだったかもしれない。
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