第二十八話

「おじさん、向こうで何かあった?」

 手荷物を返してもらいラウンジへと向かうと、ソファに座り手持ち無沙汰な様子で購入したらしいファッション誌に目を通していたエリューシュカがいた。こちらの接近に気付いて雑誌から顔を上げた際、開口一番飛び出してきたのが先程の言葉だった。彼女の事だから私の表情の機微を読み取ったのだろう。「遅い」でも「早い」でも無いその問いが最初に投げ掛けられたという事は、違和感を覚えるほどの顔だったに違いない。愛想笑いを返してやった。

 私は対面のソファに腰掛け話を切り出す前に飲み物を訊ねた。部屋を出てから気付いたが、喉が渇いていたらしく無意識に何度も唾を飲み込んでいたのだ。エリューシュカも同様らしく少し考えたような間の後、ガラス張りの壁から見える階下のコーヒーショップを指さして「マヌカハニーキャラメルナッツプリンアラモードフラペチーノ」と一言告げる。「何だそれは」と思わず問い返すと、「期間限定商品なんだって。これに載ってた」と雑誌を軽く持ち上げて表紙を見せる。確かにそこには彼女の要望らしい派手な飲み物が見栄え良く大きく印刷されていた。当然だが旧Я国へと至るまでの汽車旅では、シベリア鉄道には歴史ある食堂車があるから良いものの、その後の乗り換え車内での食事はさほど当てにならない。下調べの限りでは軽食の車内販売があるようだったが、食事として考えるならあらゆる面で期待しない方がいいだろう。だから私はわざとへりくだり、「仰せのままに、お姫様」と告げコーヒーショップへ向かった。

 戻ってから彼女に飲み物を手渡すと余程喉が渇いていたのか一気に半分を飲み下した。多少の現金は持たせているから先に購入して飲みながら待っていれば良かったのに、そうしなかったのは曲がりなりにもこの小さな汽車旅を共にする仲間としての誠意だろうか。私もコールドコーヒーで喉の乾きを潤した。

「それで、あちらで何があったのかという話だが」顔を上げたエリューシュカに私は警部から聞いた話をなるべく詳しく話した。ヴィズドムィがこの街から出て行ったということは勿論、もしかしたら我々が向かうかの地でフェリクスが待ち伏せしているかもしれないという事、そして、その事実を踏まえてこの街を出て行かない方がまず間違い無く安全だという事だ。「それでも君は私に付いて来たいと思うか?」

 私の質問に彼女は再び考え込むように俯いた。飲み物が一口分、容器から減るのが分かる。それから彼女は言った。「その質問、これからするの無しね」

 次いで、君の方はどうだったのかと訊ねた。エリューシュカは飲み物を一旦テーブルに置いた。

「こっちはユラ警部補さんが付き合ってくれた。話してくれた内容はだいたいおじさんと同じだよ。でも、一つ気になる事があってさ」

 なるほど、初めに向こうでの出来事を聞いて来たのは彼女もまた同じ事を説明されたからのようだ。「気になる事?」

 彼女が話すに、それは監視カメラ映像の事だと言う。ヴィズドムィのGPSが玩具ダミーであるため、警察は街の監視カメラを虱潰しで探し、監視カメラ同士の映像を繋ぎ合わせて彼の足取りを記録した一本の動画を作成したらしいのだが、スラーヴァが〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉で殺害された日、スラーヴァとヴィズドムィは店の前に映っていたがニューシャは一度も映っていなかった。店には裏口があるからそちらから出たのだと思われるが、依然消息は不明で生死も定かではないと言う。エリューシュカは私を真っ直ぐに見て問うた。

「ねえ、もしかしてママ、やっぱりこの街のどこかにいるのかな」

 その眼差しには期待と不安が入り交じり、私はどう答えるべきか逡巡したものの、次にはこのように答えた。

「この先の運命がどうであれ、君の思うようにはならないと思う」

 この言葉は自身に対しての自戒もあるのだろうか。冷たい言葉を放つつもりは無かったが、彼女の眼差しからは期待も不安も消え去り、代わりに極めてニュートラルな静の感情が宿ったかのように思えた。結果がどのように転んでも想定している可能性はひとつを残して全て潰える事になる。その後どうなるのかはその時になってみなければ分からない。

「とにかく行ってみれば分かる。刑事の勘とやらが正しければ彼にきっと会えるだろうし、その時にニューシャの居場所も聞けばいい」

 それきり会話は他愛無いものに変わったが、それも思うようには長続きしない。細切れの会話を繰り返しながら飲み物を飲み干した後、私たちは街を出る汽車に乗った。

 私がЯ国からこの街へ逃れ至る事になった鉄の道では、シベリア鉄道からの乗り換え先で殆ど当時と変わらない揺れを感じた。痩せこけた平野から針葉樹の山間に、空は青から鉛色に、窓から見える景色は代わる代わる変化し肌身に感じる温度も次第に低くなってゆく。終いには雪がちらつき、最後の国境を跨ぐ頃には大地は白の薄化粧を纏っていた。汽車を幾つか乗り継いでの三日間の行程は私はともかくエリューシュカには相当堪えたようで、頻りに首や肩の凝りを解す運動をしていた。

「座席、ベッド、ご飯、どれも最悪だったけど何よりドン引きしたのはトイレ。絶対掃除してないでしょアレ」

「終戦から立ち直って十数年経つが、国家の歩みはいつでも人の一生分でようやく赤子の一歩だ。急務となる大規模インフラの整備以外は色々模索している最中なんだろう」

「掃除するかしないかだけだよ? そういう問題かな」

「ぱっと見ても人手不足は否めない。適切な人員配置という意味でも特にサービス業は後回しになるものだ。新しくなったこの国の総督の考えは知らないがね」

 旧Я国中央駅も例に漏れず天井のガラス窓や柱などは交換されているようだが、壁にはひび割れや焼け焦げの跡があり配管や内部建材なども剥き出しになっている箇所が所々に見受けられた。恐らく建物の強度や安全性に関わる箇所を最優先に修繕し、細かな部分は後回しになったのだろう。私が臨時急行列車に乗り込んだ時と内装の雰囲気は殆ど変わっていなかった。石造りでドーム状の構内に放射状に伸びた五つの路線。この内一路線は旧R国へと向かう新設路線らしく、他路線も比べても真新しく光るレールが敷かれていた。

 ゲートでのパスポート確認の際、入国審査官に念入りに顔と情報を確認されたが、特に引き止められる事無く通過できた。トリグラフ作戦のリストに載っているとルス警部が言っていたが、作戦は既に終了したのだろうか。或いは私の特殊な出自柄や戦争での混乱によって情報が錯綜し、作戦軍も容易には私と同定する事ができないのかもしれない。いずれにせよ無事に入国できた事は幸いだった。

 私たちは駅を出て旅行用ガイドブック片手に手頃な宿を探す事にした。少し街に滞在して休息しながら山登りの準備を整え、万全の状態でジラント連山へ挑む。観光資源と化したロープウェイは村の最寄りには留まらないらしく、山頂の展望台まで一気に昇っていくようだ。つまり、村はやはり廃村になり住人が暮らす余地は無いらしい。ガイドブックから選んだ最寄りの宿へ向かう途中、かつてЯ国だった名残がそこかしこに見て取れた。建物の外階段は二重螺旋状で葡萄の蔓を模した手すり、ベンチの屋根は指を組んで肘を着く人間の腕、電話ボックスは蓑虫の蓑が幾何学的に再構成された直線的なデザインが施されていた。未来学派のコンセプトはイメージとロゴスの融合、すなわち自然と生命の躍動、学問と科学の論理性、それらとの託生にあったとされている。その源流はウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に起因しV国の未来主義との結合にあると言われているようだが根拠には乏しく、今以て解明されている事は少ない。それ故に、過去の記憶と照らし合わせてもそれらの意匠が少ないと感じるのは必然に違い無かった。

 横を歩くエリューシュカに当時の事を説明しながら歩いていると時間が経つのも早いもので、気付いた時には目当ての宿の前に到着していた。空爆で焼かれずに済んだ幸運な建物らしく傷みの箇所は少なくどっしりと構えられた民宿は、夕飯時のいま中から良い匂いが漂い、空いた腹を刺激する。寒さも厳しい季節、宿に入ろうとエリューシュカに促すと、彼女は密かに肩を震わせていた。

「どうした。寒いなら早く中に」

「あ、うん……」

 歩み出す足取りは普通だが、肩は重石が乗ったように沈んでいた。寒さのせいではなくニューシャの姿が頭を過ったのかもしれない。

 宿での夕飯を済ませてから明日の予定を話し合った。明日は村への用事とは別に行きたい所があると伝えた。そんなに時間は掛からない、早めに戻って登山の準備を進めようという提案に彼女は頷いたが、私が帰って来るまで宿で休んでいるという。一人で部屋に留まる事を心配すると、部屋には鍵を掛けておくし、どうせ疲れて昼まで寝ていると突っぱねられて私は渋々引き下がった。それから私たちはそれぞれの部屋で休息を取る事にした。

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