第十五話

「あれ、おじさん?」

「セルゲイ、早かったじゃないか」

 アトリウムの椅子に腰掛けテーブルを挟んで向かい合いながら、二人は借りた図鑑を広げ談笑に耽っていた。売店で買ってきたらしい土産用のノートに同じく土産用のシャープペンシルで、エリューシュカは構造色についての説明を書き加えていた。私は手を挙げ軽く応え、彼女の傍らに立って尋ねた。「勉強しているようだが捗っているか」

「うん、教えるのも立派に勉強だよね。それでお礼にってフェリクスさんのお話も聞いてたの。色んなとこ旅してきたんだって。あたしも早くこんな街出て世界中旅してみたいなあ」

 これにヴィズドムィが笑って答えた。

「いやはや旅ってのは波乱万丈さ。予期しない事、辛い事、たくさんあるんだ。お嬢ちゃんまだ中学生だろ。旅するのはしっかり勉強して大人になってからな」

「はーい……って、同じ事セルゲイおじさんにも言われたっけ」

 エリューシュカはペン回しをしながら気怠げに答える。私は彼女の傍らから空いていた椅子を引っ張り隣に腰掛けた。それからヴィズドムィの旅先での事をそれとなく聞いてみた。彼が語ったのは何という事は無い、世界の都市を巡った印象や南米の運河を地元民の舟で遡上した話、砂漠を出会ったキャラバン隊と共に横断した話、白夜の針葉樹林の中で頭上に揺れる見事なオーロラに見蕩れた話、そしてそれらの道程を通じて人々と交流する事ができたということだった。人探しのためにフェリクスはそうして世界各地を回っているのだとエリューシュカに補足すると、彼女は輝かせていた目に心配の色を滲ませた。

「え。人探しで世界中って誰探してるの?」

 彼女はごく自然な流れでその問を投げ掛けたのだろう。しかし、この質問は私にとっても好都合だった。思い返せば彼は人探しをしていると私に告げた時、その人となりを教えた方が探しやすくなるにも関わらず話の中で触れる事は無く、そのまま私に話題を振ってきた。そしてヴィズドムィはエリューシュカの問に虚を突かれたような顔をした後、困惑した表情をしてみせた。言葉を言い淀ませて言うか言うまいかあぐねている姿に私は少し余裕を見せた。「二人とも喉が渇かないか。併設のカフェで何か買ってこよう」

「マジ! 奢り?」と再び目を輝かせたエリューシュカに私は頷いた。ヴィズドムィにも了承を得るため訊ねるとにわかに困惑の表情を和らげた。彼の口から得られる情報はなるべく得ておきたい。それも、極力私への猜疑心無しに。

 それぞれコーラとオレンジジュースに、私はアイスコーヒーを注文し二人の元へ戻り席へと着く。コーラを手渡すなりエリューシュカはストローを差して喉を鳴らして飲み始めた。

「言ってくれたらもっと早く買いに行っていた」

「そういうのはちょっと遠慮しちゃうかな」

「キノコのピローグを食べても舌は歯の後ろにしまっておけ、という諺を知っているか」

「あたしからその舌隠したら何も喋れなくなっちゃうよ?」

 ストローを噛みながら言う彼女にはヴィズドムィも呆れ果てたのか乾いた笑いをオレンジジュースで抑え込んでいた。

 それからエリューシュカは再び質問を彼に投げ掛けた。先程よりは如何ばかりか気分を取り戻したヴィズドムィも言葉を選びながら語ってくれる。曰く、彼が探しているのは顔や名前はおろか、死んでいるのか生きているのかもわからない年齢不詳の男性だという。当然ながらそこでエリューシュカは、どうやってそんな人を探しているのか、人相も定まらないのに世界中当て無く探し続けるのは無謀過ぎると疑問を呈した。私も彼女の言葉には同意した。干し草の中の針や砂漠の砂金というにも生温い。まるでこの世にもはや存在しないものを探し当てようとしているようだ。私の考えを知ってか知らずかヴィズドムィは途切れ途切れに呟いた。

 亡霊さ、亡霊みたいなもんを探してるんだ、きっと。思い出とか残り香とか、よくあるだろ、そういうの、よせば良かったのに自分からしょうもない、終わっちまった面倒をしょい込んで忘れる事もできない。だがふと見りゃ百年そうしてきたものが、例えば愛馬のたてがみ、尾っぽだけとか……萎んだトマト、潰れて染み出した汁とかだな、そんな目も当てられないものになっていたらどうだ。旅の中ならそいつを他のくず具材と一緒にスープにして嫌でも腹に落とし込める、悲しみは海じゃない、だからすっかり飲み干しちまえる。神さまのお膝元では群れから除け者の一匹狼も自分の脚で歩いていけると信じてるんだ。おれもだから、誰に何と言われようがやりきれると信じてるよ。

 私はエリューシュカを目だけで見た。彼女の横顔も私と同じ心境らしい、ヴィズドムィの話した事は酷く抽象的で理解に時間を要するものだった。思いを致してまで彼の話を事実として考えたのは、既に彼の元を去ってしまった愛人を探しているという意味なのではないかという事だった。探し人が愛人である可能性を考慮すれば私である蓋然性は低くなる。しかし、彼の話は虚無のひと時と同様に、取り留めなく独白として他者の存在を考慮していないもののようにも感じられた。私には分かっている。彼に対する疑惑の念は尚晴らしてはならなかった。

「まあ何だ、つまるところ分かってんのよ。おれ何やってんだろうなって」

「ふーん。じゃ手伝える事何も無いね」

 エリューシュカが音を立てながら残りのコーラを飲み干して言った。置かれたコップを見てみるとストローの先は歯型を残しすっかり潰れよれている。彼女を通じて情報を得ておきたいという下心はさて置き、言い方が相も変わらず辛辣なのでヴィズドムィへの同情心も否定はできまい。当の彼も気落ちするかと思ったが、私の予想とは違った反応をして見せた。

「そうだなあ、でも些細な事で役に立ったりするかもしれない。そん時はよろしく頼むぜ」

 エリューシュカは「もち!」と親指を立てながら威勢良く返事をした。ヴィズドムィとの話が余程楽しかったのだろう。彼女の提案で二人は〈古い思い出の宿亭ロスタルギヤ・ガスチニーツァ〉での再会を約束した。それからヴィズドムィが街へ繰り出すから先に帰ると言い出し、私たちを残してアトリウムを去って行く。

 店を午後休にしてしまったから明日は通常営業をするとして、明後日夜、ブルガーコフの家に様子を伺いに行ってみよう。

 そう考えながら、私たちは当初の予定通り図書館での勉学に精を出した。

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