第二十九話

 時差ボケで早く起床し太陽が昇って間も無い頃に宿を出ると、朝の静けさの向こうから鋼鉄同士が打ち合う甲高い音が微かに聞こえて来た。目的地まで向かう途中、音のする方向へ足早に歩いて行く工夫こうふらしい出で立ちの人々とすれ違ったり、何らかの店の開店準備をしている人を見かけた。また空いたベンチの上で擦り切れた毛布に何重にも包まれ横になった人の脇を頻繁に通り、その度に言い知れぬ緊張が走ったが、まさかと思い視線を向けないよう通り過ぎた。

 地質調査以前にこの街の外に出た記憶は殆ど無い。片手で数えられる回数を子ども時代に侍従の手引きで敷地外に出させてもらった事があるだけだ。その敷地外というのも塀から数メートルも離れれば良いような場所までで、アン王女さながら一日中自由に市街を見て回るなど夢で見た方が早いくらいだった。私を手引きしてくれたその侍従がどうなってしまったのかは分からない。いつの頃からか見掛けなくなったというその感覚は、私がこの街を離れた時期と混同しているだけかもしれない。私にとってグロムゴルスクという街は父親の邸宅とその敷地内で過ごしたそれが全てだった。あれから何十年と経過しあの家があった地に帰省する初めての経験なのに、興奮も憂愁もこの身には湧き出ない。帰った所で懐かしむ者がいないからだろうか。それともガイドブックに取り上げられていたように、そこに元々旧国家の軍人一家が暮らしていた歴史など無かったかのように、今は小さな憩いの場、住民の為の自然公園になっているからだろうか。

 果てしない考えを巡らせたまま歩いていたから目的地に着くのは早かった。かつての門と塀をそのまま利用したゲートは門扉が取り外されており、インターホンも取り除かれコンクリートで埋められていた。門上のアーチは新しく増設されたオブジェで、両国の国花であったフウロソウとケシのモチーフが絡み合いながら〈二分の一平和公園パルク・ポローヴィナ〉の文字列を華やかに彩っていた。私を軟禁していたこの忌々しい門が今やどんな人も迎え入れては見送るエントランスゲートになろうとは、過去の私に告げたところでゆめゆめ信じまい。それから数分ほどその国家統一のモニュメントのひとつを眺めてからアーチを潜った。

「ここはいい場所ね。好きな所。木の匂いがする」

「今は感傷に耽りたい気分だ。出て来ないでくれ」

 まただ。また彼女が現れた。私に声を投げ掛けながら優しい薄い笑みを浮かべて目尻を下げた彼女の表情は垢抜けない正真正銘の恋人そのもので、事実私はそんな彼女の表情を見た事が無かった。どうやら街角の亡霊はラビリンスクに固有の種という訳では無かったらしい事に小さな笑いと溜め息が洩れる。それはどこにでも付いて来てはふとした瞬間に現れて得体の知れない主張で心を乱して去ってゆく、常に新しいつむじ風のような存在。彼女は霜の張る気温の中、夏の暑い日のように白のつば広帽とワンピースの出で立ちで私の横にくっ付いて来た。

 庭園があった場所へ向かってみると、そこには苔むした噴水がほぼそのままの姿で周囲を取り囲む形で新しく花壇が設置されていた。時節柄花が咲いているものは無いようだが、広場の傍らには収穫された大量の種子が日陰で一箇所にまとめられ、乾燥を待っているのか平たく並べられていた。彼女はそこにしゃがみ込み、指をさした。

「この種子は何だと思う?」

「リュウバイトウヒレン。新しいこの国の国花に制定されている。品種改良が進んで花弁は繊維に、茎や葉などは解熱鎮痛剤に、他にも油や茶に加工できるなど幅広い用途に活用されている。この国の財政を担う貴重な一次産品のひとつだ」

「流石に簡単過ぎたかしら」

「ガイドブックの受け売りだよ」

 彼女はおろか登攀調査中の私も見つけられなかったその花はジラント連山の頂上付近に自生するもので、ヒマラヤ山脈やチベットに生えるワタゲトウヒレンと近縁種らしい。いずれにせよ高山植物であり原種は絶滅危惧種の多年草だと説明が書かれてあった。小指の先ほどの大きさの花弁は綿のように丸く密集し柔らかく、その淡いピンクの色彩と多彩な用途から竜の肺ドラコ・アルヴェオルスとも呼ばれているらしい。

 私はさらに奥へと歩いた。庭園を挟んだ向こうに邸宅が建っていた筈が、舗装路を通って木々の合間から姿を現したのは別の建物だった。古い木造洋館のような様相をしたその建物の前には背丈程の大きさの石碑があり、文字が彫刻されていた。



ある日 肉体無き翼に細腕が生えた

剥き身の魂を掠め取る、それは

 やせ痩けた私の 病に臥せる君の

或いは いけしゃあしゃあと

 摩天楼で胡座をかき

 やがて重い腰を上げ

 大手を振って闊歩する

 取り違えてしまっただけの

 やわらかな虚栄心……

しかし細腕が絡み抱いたとき

 同胞はらからの笑いが一斉に

 皆の血潮を滾らせ全身を奮い立たせた

剥き身のはずの魂よ

 滅びを知らぬ一点の太陽となれ

 心燃え盛る唯一ゆいつの肉体となれ

奪い去った者の魂を

命を懸けて抱いて進め


 どうやら古い詩らしく覚えがあった。物悲しさの核心を様々な感情で着飾らせる独特の散文詩は作者が容易に想像できた。

這い進むクロールクルーロって読むみたい」

「アナグラムかな」

「よくは知らないけれどこういう駄洒落が好きだった。話に聞く限りではいつも深刻そうな顔して、それ以上にユーモアを忘れない人だった、とも」

 そして、扉まで向かってみた先にはやはり見知った名前が掲げられていた〈ローベルト・クラーギン記念博物館〉。

「開館は三時間後だけど待ってる?」

「いや、遠慮しよう。そう言う貴女は」

「貴方がそう思うなら」

 それから彼女は私の先を歩き始めた。木々に囲まれた遊歩道は細かな砂利が敷き詰められており、パンプスの彼女は歩きづらいかと思っていたが、その心配は無用だった。隣に彼女はいるものの歩く音も動く影もひとつしかない。隣に彼女がいる筈なのに全ては私にしか見えていなかった。今まで何度か問うてきたが彼女が現れる理由は分からない。私自身に未練があるからなのか、後悔があるからなのか、もしくは本当に亡霊となって現れてくれているのだろうか。

 やがて果てしないと思っていた思考が袋小路に入っていくのが分かった。私が今まで歩んで来た人生の伴侶は幻の彼女であり、この数十年で彼女の姿が朽ちる瞬間はあっても老いる事は決して無かった。幻想であり理想の姿を留めたそれは在りし日の私の願いを具現化させたものかもしれない。

「ほら見て、あそこ」不意に彼女が指さした。そこにいたのはここに来るまで何度か見かけたような襤褸を纏った浮浪者で、ベンチに座って膝の上に板を掲げていた。「施しを待ってる。行ってあげましょう」

 彼女が手を取って引っ張るような仕草に釣られて私もそちらに向かった。ベンチに座ったその人は目の前に来ても微動だにせず、ただ男とも女ともつかない嗄れた声で「肉は要らんか」と訊ねてきた。

「肉?」

 そんな物はどこにも見えない。しかし、掲げた板には何で書かれたのか分からない汚い筆致で確かに、お肉無料でお譲りします、と書かれていた。施しを待っていた訳では無いらしい。それから浮浪者は襤褸の懐に手を突っ込みしばらくごそごそまさぐった。そして出て来たのは肉屋が肉を包む際に使う食肉用包装紙の塊だった。手を出せとのジェスチャーに促されるまま両手を差し出すと、半ば叩き付けるようにそれを手渡してくれた。ずっしりした重さと包み越しに伝わる柔らかさは、確かに精肉が包まれていそうだった。それも手の平には収まりきらず、かなり大きい。いずれにせよ貰ったところで使いようの無い代物だった。

「ねえそれ、ちょっと臭うし傷んでるんじゃない」

 彼女が鼻を摘んで大袈裟に言うが、彼女なりのジョークらしい。残念ながらくすりとも笑えない。

「申し訳ありませんがこれは受け取れません」

 私の断りを無視して浮浪者は早口で言った。

「いいんだ、いいんだ。自分はね、ぶよぶよした肉の塊に手製の弾丸を仕込む、そういう汚い仕事をしてるんだ。その肉は六日間働いたご褒美。王様の冠や女王様のかんざしみたいに台座に置いたら白熱灯で照らして、六日経ったらあれが貰えるぞって言われながら働いて涎を垂らしていると精肉士に鞭を打たれる。豚野郎、犬畜生、泥棒猫、馬車馬、何とでも言えるがだけは勘弁。へへ、今朝はいい天気で気分がいいから、誰かにあげようと思ってたんだ。さっさと剥いで食っちまいな。サムの汚食事会サムズダートミールに乾杯」

 浮浪者をよく見ると、その人の目はこちらを見ていなかった。代わりに見ていたのは私ではなく横にいた彼女だった。否、単なる狂気の偶然が浮浪者の視線をあらぬ虚空へ向けさせていただけかもしれない。しかし急に気味が悪くなった私は、ゆっくりとした手付きで財布から紙幣を一枚取り出してそこに置き、そのまま後ずさりして充分に距離を置いてから、踵を返して駆け出した。

 公園を抜け息を整え足早に宿に戻った。抱えていた包みを部屋で解いてみると、そこには確かに牛か豚の新鮮な赤身肉の塊があった。だが、その肉も実際は覆いで、爪を立てて無心で毟り取ると中には食品用の透明ラップに巻かれた拳銃が一丁と弾丸が数発隠されていた。それも破いてよく見ると弾丸は糊かガラスのようなもので薄くコーティングされ固められた紙製で、しかも文字が記されており、どうやら文章を成していた。

「この無限の空以外……」

 その一文を思い出して、彼女の気配が再び消えている事に気づいた。

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