第二部

第十三話

 私は全身の産毛が逆立つような、胸騒ぎのような感覚から抜け出せずにいた。言い知れない焦燥感から逃れるように取り組んでいたのは、喫茶店の経営と、エリューシュカから解法の道筋を見つけて来るよう手渡されたキャストラビだった。薄い板状になった二枚のC字型リングが迷路中央の穴で連結し、容易には解けないようになっている。迷路となった一枚は裏表全く異なる図面で、仮に片面が通れても、もう片面は行き止まりになってしまう。難易度が高いタイプなのかもしれない。出口と思われる切れ込み部分は五つほど存在した。無論これらが偽装出口である事は明白で、真実の出口は一つしか無い。恐らく出口までの道が双方行き止まりになる以外にも、知恵の輪特有の作りの精巧さが有する微妙な齟齬や食い違いによって、目測を立てた道も正解とはならないのだろう。一目見てここが出口だと思った箇所も、実際にそこまで辿り着かなければ出られるかどうかはわからないという訳だ。

 暇潰しに読書ではなくキャストラビを選んでいるのは理由があった。ヴィズドムィの話は彼自身によって語られる過去話としてはある種の落とし穴のようなものが感じられたからだ。物語の細部が尽く不明瞭な事による不親切さ、引っ掛かり、或いはささくれを逆撫でた時の刺す痛みのような不快感──避けなくてはならないあらゆる感慨が、彼に編纂された物語である事によって一種のトラウマになっていた。常から趣味と言えば読書か新しいコーヒー豆の組み合わせを考える事だったから、この事態には微塵も馴れていなかった。

 ここ数日の営業中は本も読まずキャストラビに没頭していた。裏表のあるキャストラビを手の中で弄びながら出口を探していると、ついつい来店客を告げる戸口のベルも聴き逃してしまう始末だった。先程もまた来客のベルや呼び掛けに気付かず叱責を喰らっていた。常連客であったから良かったものの、しかし兎に角身体のどこかしらを動かしていないと気が済まない。「ねえ」

 キャストラビは数日で二つの出口を目指し、そのいずれも少々道が狭い事による通り抜け不可のものだった。残るは三つ、しかしどの出口が正解なのかは目測を付けようとしても皆目わからない。私はメモ用紙に迷路の写しを取りながら道筋探しに再び頭を捻った。「ねえってば」

 あと少し道筋の見当が付いたら、休んでコーヒーを淹れるべきかもしれない。平日昼間は来店客も少ない事だ。ヴィズドムィの話を思い出せば思い出すほど焦燥感が増してゆくのだから、少しでも気を紛らわせる方策が必要だ。

「おいこらクソじじい!」

「さっきから聴こえてる」

「だったら返事してよ!」

「わかってくれ今忙しい」

「遊んでるだけじゃん!」

「喧しいのは苦手なんだ」

 カウンターの向かいから身を乗り出して怒鳴り散らすのはエリューシュカだった。傍らには大きな手持ち籠があり、どうやら懇意で昼食をデリバリーしてくれたようだ。ニューシャは偶にこういう気遣いを見せてくれるし、彼女の料理は文句無しに美味しいので有難く受け取っておく事にした。

「それにしても」とエリューシュカが対面のカウンター席に腰を落ち着かせた。「本当にそれ、やってくれてたんだ」

「二つの出口は攻略した。攻略したと言っても行き止まりや狭い出口で脱出できなかったという事がわかる程度だが」私はそこでふと気になる事が頭に浮かんだ。「学校は秋休みだったか?」

 エリューシュカは不自然な笑顔を見せたまま固まってしまった。どうやらこの娘はまた学校をサボっているらしい。容認しているニューシャもニューシャだが、エリューシュカが以前、大人になったらこの陰気臭い街から出て行ってNYでもパリでも北京でも住んでやると言っていた。いずれにしてもラビリンスクでの公用語がV国語である以上、それらの都市に住むにはやはり外国語話者として一定程度の技術が必要となってしまう事実を彼女はまだ知らないのかもしれない。

 ラビリンスクはV国語を公用語としながらも、流離人を数多引き受ける傍ら多言語教育にも力を入れていた。新たに移住して来た者をスキルに応じて外国語教師や技術士に安定雇用したり、着の身着のままで移住して来た者に対しては長期に亘る手当と教育システムも充実している。交換留学も盛んで、ラビリンスクがV国から多分の影響を受けたW国内にありながら、殆ど自治区として機能させざるを得ないのも頷けた。W国首都ではないものの、その経済規模や人的インフラの要衝として看過する事はW国政府としてもやはりできないのだろう。

 加えてラビリンスクに入るには、観光客と言えど様々な適性検査を合格しなければならない。永住権のある人々は反対に出て行く際それが行われる。エリューシュカが他の都市へ移住するにしても、やはりその適性検査を経なければ出られないという訳だ。

 私は再度彼女に問うた。

「学校は、秋休みか?」

 するとエリューシュカ、不自然な笑みを崩さないまま「秋休み……じゃ、ない」と答えた。

 素直なのは良い事だ。殊にここラビリンスクにおいては。「いいだろう。昼食が済んだら私と図書館へ行かないか」

「図書館?」

「いくら成績が良くてもどうせ学期末には私に付きっきりになるんだ。今日暇ならやっておいて損は無い。それに私も、少し調べ物が出来た」

 エリューシュカは不自然な笑顔を向日葵のように咲き誇らせ、「おじさんが教えてくれるなら頑張れるかも」と明るく応えてみせた。「お店は?」と次いで問い掛けてくる彼女に「午後は休業だな」と答える。これまでにも何度か彼女の必修単位を賭けて教えた事がある。もしかすると高校受験や大学受験もそうなってしまうかも知れない。

「君も昼はまだだろう。一緒に食べよう」そう言うと、彼女は自分の腹を一瞥して「ママに電話しなきゃ」と答えた。私は店の電話を使ってニューシャに連絡し、デリバリーしてくれたものを昼食にしたらエリューシュカと共に図書館で勉強に励むと伝えると彼女は快諾してくれた。電話口で彼女からそろりと伝えられたのは、エリューシュカが特に私に懇意なのは父親の顔を知らないからだろうと言われた。私はその言葉に、エリューシュカが可愛らしいのは事実だし、懇意にされる事は迷惑ではないと言うと、彼女はまた申し訳なさそうな声で『あの娘も父親代わりって思ってる訳じゃないんだろうけど、有難うね』と告げてくれる。籠を開けて中にあるニューシャお手製のブリヌイに齧り付き始めているエリューシュカを肩越しに見ながら「こちらこそ。もう伴侶を望める年齢でもないし、我が子と思って大切にするよ」

 電話を切り、店の看板を翻して彼女の隣に座ると、エリューシュカは言った。「ママ、何だって?」

 私も籠からブリヌイを一つ手にし「学校に行ってない分しごいてくれと言われた」

「それ嘘だね」彼女は目を細め言った。「おじさん、嘘吐く時いっつも少し目を細めるんだもん」

 驚いた。全く意識していなかった事だ。「いつから気付いていた?」と訊くと、出会ってすぐくらいの頃かな、と彼女。

 エリューシュカと出会ったのは私が移住して最初に知り合ったスラーヴァから喫茶店の経営指南を受けていた時期だった。ラビリンスクにおける多少の知識は適性検査時に問われる事であり、平日昼間は他の国同様、子どもは学校へ行くものとなっていた。

 彼の店へと向かう道すがら新しいメニューを考えている際、私はふと向けた視線の先に目を取られた。その時のエリューシュカは明らかに学校指定の制服と分かる出で立ちだった。個人経営の本屋の店前たなさきでティーン向けのファッション雑誌を読んでいた。私は彼女に声を掛けた。「もしもし、君」そう言うと彼女は肩を跳ねさせこちらを向いた。「びっくりした! いきなり話し掛けないでよね!」強気な口調で叱責されたが、本来ならその役目は私にあるだろう。後からニューシャに言われた事だが、彼女はカトリック系学習院リツェイに通っており、成績は良い方なのに勉学に向かう姿勢は産毛程も持ち合わせていないらしい。成程彼女が殊更に学校へ行く事を強要しないのはそういう事か、と。言わば私の存在が家庭教師となっている節もあるという訳だった。

 そんなエリューシュカはまじまじと私を見つめてから「おじさん、カフェの店員か何か?」と訊ねてきた。私の服にはその香りが染み付いているし、そよ風に流れて彼女の鼻を擽ったのだろう。「そうだな。一応店主マスターとしてやっている」と答えると、「すごっ。ママも宿屋の女将やってるんだ。ご飯も作ってるし食べに来てよ」

「軽率に誘っていいものかな。ラビリンスク市民は善良だとしても不埒な輩が居ないとも限らない」

「ま、確かに」エリューシュカは言った。「でもこの街でそんな人見た事ないし、おじさん嘘とか吐けなさそうだし」彼女は持っていたファッション雑誌を売り場に戻し「ここで会ったのも縁かも知れないね。見逃してくれたらママの料理奢ったげる」

「せめて君の作る料理が食べたいな」心にも無い事を言うと、彼女はまた目を丸くして大笑いして見せた。突然何事かと問うと、「いや、案外分かりやすいなあと思って」

 その時の彼女から言葉の真意は窺い知れなかったが、今にして思えば、エリューシュカに対しては度々その手料理をご馳走になりたいと言った際、やはりその癖が滲み出ていたのだろうか。よもやスラーヴァやニューシャ、ブルガーコフにもその癖が現れていたのだとしたら、私は無自覚に嘘か誠か真贋の付かない言葉を放って相手を困惑させていたのかも知れない。或いは、私の魂である彼女にもそのような態度をしていたのだろうか。彼女は私の吐く嘘に早々に気付いていて、私を煙に巻くためにあんなに不思議な人間を演じていたのだろうか。しかしこの身を以て知っているのは温かさ、ぬくもり、滑らかな肌、柔らかな唇、媚びた声、星の瞬きのように繊細な美しさで微笑んでくれたあの表情もその為の嘘だと思いたくはない。

「おじさん、聴こえてる?」

「ああ、何だって」

「何か飲みたい。甘くてほろ苦いのがいいな。飽きが来なくていっぱい飲めそうなの」

 いつの間にか籠の中身は綺麗さっぱり空っぽになっていた。育ち盛りの子にはもしかしたら少なかったのかもしれない。

「コンパナにしよう。すぐ作るよ。ホットかアイスか、どういうものかは?」

「アイスで。ホイップたっぷりの上にアラザンかけて、あれ好き」

 エリューシュカが言い、私は氷の作り置きを確認して直ちに過ちに気が付いた。

「温かいのでもいいかな」

 彼女はしばし目を瞑って思案した後、こう切り出した。

「おじさんが作るのなら何でもいいや」

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